第91話 任仲虺の将来の夢

その翌日の放課後、あたしと子履しり斟鄩しんしんの街を歩いていました。姒臾じき伊水いすいのほうで遊んでいるという情報を得たので、それならばと、反対方向の洛水らくすいのほうへ羽を伸ばしたいと子履が言い出したのです。あたしは子履の部下の立場ですからついていかなければいけませんが、身分を利用してデートさせられるのは困ります。どうやって離れようかと思っているところへ、子履が話しかけてきました。


「昨夜のデートも楽しかったですね」

「ああ‥‥はい」


あたしと子履が一緒のベッドで寝ると、なぜか同じ夢を見るのです。そうして、夢の中で雪子とデートしてしまうのです。ゆうべは夢の中で、一緒に映画を観ていました。


「夢の中でもデートできるなんて、すてきな関係だと思いませんか?」

「ただの悪質なストーカーだと思いますけど」


あたしは苦笑いしながらそっぽを向きます。いやストーカーでもできないか。映画は夢の中だというのにまるで現実かのようにきっちり90分間再生されていて、あたしの知らない内容で、夢独特のストーリーの破綻などもなく見る人を引き寄せる展開で面白かったです。あたしも一応楽しかったんですが、黙っておきましょう。


ふと市場に目をやると、書肆しょし任仲虺じんちゅうきがいました。書肆というにはコンビニの半分もないくらいの面積で、指で数えられるくらいの本棚が所狭しと並べられている程度のみせでしたが、任仲虺は店頭近くでなにやら熱心に本を読んでいるようです。

隣の子履がいやになったので、あたしはこっそり近づいて声をかけてみます。


仲虺ちゅうき様、何をお読みになっているのですか?」

「‥‥あら。来ていたのですね」


仲虺は本を上品げにばたんと閉じて、あたしたちを見ます。それから小さく首を振って、本棚に戻します。本といえば前世の古代中国では竹簡や木簡が主流だったらしいのですが、この世界では安価な本は紙でできています。


「ただの取るに足らない本ですよ」

「そんなことはございませんよ」


子履がくすくす笑っています。なにか事情を知っているのでしょうか。


「そんな‥」


任仲虺が頬を赤らめて本の背を手で隠しますが、子履はそれを払い除けて本を取り出し、タイトルを読み上げます。


「『玄冥げんめい伝』という本ではありませんか。伝承をもとに、創作も織り交ぜた小説です。いたって健全な内容ですし、恥ずかしがる必要はありませんよ」

「ですが‥」


いつもは堂々としていた任仲虺も、このときばかりは染めてしまった頬を手で隠して、ちらちらとあたしを見ています。


になら教えてもよいとこの前言っていたでしょう?」

「‥‥そうですね。摯さんはわたくしの友人ですので」


任仲虺は子履から受け取った本の表紙を、あたしに見せます。


「‥‥わたくしは作家を目指しています」

「いい夢ではありませんか、なぜ恥ずかしがるのですか?」

「‥‥その、そうですね、ふふ」


任仲虺は今度は自分の口を手で覆い、上品に笑う仕草を見せます。


「ところで玄冥とは何ですか?」

五帝ごていの1人の顓頊せんぎょくを補佐していたと伝わる神です。五帝を補佐していた神を五佐ごさといい、その1柱で、五行ではすいを司ります」


子履が解説します。


「仲虺様も歴史が好きなのですね」

「歴史好きというよりは、小説がたまたま歴史ものだったのです。でも、昔の人々がもしこのような設定で、何をどうしていたらと想像するだけでもわくわくするのです」


そんな任仲虺のところに、店長っぽいおじさんがやってきました。任仲虺とは知り合いらしく、笑顔で朗らかに話しかけてきます。


「おや仲虺ちゅうきじゃないか、この前の本は2冊売れたよ」

「あっ」


任仲虺が後ろにいるあたしたちをちらちらと見ます。あれ、2冊売れたって言ってましたっけ?


「仲虺様、本をお出しになっていたんですか?」

「私も知りませんでした」


任仲虺は汗をたらします。さっきの比ではないくらいに顔を真っ赤にして、うなずきます。おそらく詮索しないほうがいいってやつです。それ以上の話はやめて、軽く世間話でもしましょうか。


◆ ◆ ◆


いつもとは別の飲食店で(※牛乳を発酵して作った食べ物)を口に入れた任仲虺は、話し始めました。


「わたくしはちゅう(※次女)ですので、姉よりは自由な人生を送れるのです。ですからこうして、趣味に打ち込んでいるのです」(※なお夏商時代の人名は音だけが伝わり後世の史書で後から字が当てられていたため、仲虺を実際の名前と見るには疑義がある。『史記』では同一人物の名前に『中𤳹(ちゅうき)』があてられている)


この世界では、はく(※長男/長女)が必ず王を継ぐとは限りません。仲、しゅく(※三男/三女)や(※四男/四女。前漢の劉邦りゅうほうなど末子に使う場合もある)、場合によってはようなどが王に即位することがあります。また、王が死んだ後にその子をさしおいて王の弟/妹が即位することもあり、わりと自由です。伯ではないからといって王にならないとは限りません。(※実例として商最後の王にあたる子受しじゅちゅうには微子啓びしけいなど兄がいたと伝わる)


「仲虺様は王になるおつもりはないのでしょうか?」

「野心はございませんよ。姉の次は姉の子に譲るつもりです。家臣がわたくしを勧めた時はその時ですけどね。こう言うと叱られるかもしれませんが、わたくしは国政よりも詩歌しいかが好きなのです」


そう言って、任仲虺は水を飲みます。紅茶のような高級品を出せるみせは、実は限られているのです。

あたしは手元の皿にある皮のむかれたなつめをフォークで刺して、口に入れます。この肆は少し料理が心もとないようで、味付けが妙に薄い気がしました。でも、むしろ棗本来の味がよくつたわってくるのでよしとしましょう。


「それで、どのような物語がお好きなのでしょうか?」

「歴史上の人物を題材にした創作物も好きですし、九州きゅうしゅう(※中国全土をさす)の外を旅する物語も好きです。わたくしもいずれ小説の主人公のように外の世界を旅して、新鮮な体験を書き留めておきたいものです」


意外と革新的な夢です。確か前世のは紀元前2000年~1600年ころくらいだったと思うんですが、古代中国もこんな時代から発達していたのですから、外国もきっと発達しているでしょう。

当然のようにあたしの隣りに座っている子履に小声で確認してみます。


「この時代ですと、ローマ帝国が西の方にありましたよね?」

「まさか。この時代にローマはまだありませんよ。アッシリア(※現代のイラク北部にあった王国)ならあったと思います」


そう言って、子履も水を飲みます。


「でも日本はもう卑弥呼ひみことかいますよね?」

「卑弥呼は紀元後の三国時代ですから、これから約2000年も後です。神武天皇の即位は約1000年後ですし、弥生時代すらまだ始まっていませんよ」


あれ?全部昔のこと過ぎて何が何だかわからないです。ローマ帝国も卑弥呼もそんなに新しかったのでしょうか?ていうか、夏王朝があまりにも古すぎたのでしょうか?前世と大きく異なるとはいえ、ここまで発展した斟鄩しんしんという街を見せつけられて、ローマも卑弥呼もまだですよと言われると感覚が狂ってしまいます。子履はくすりと笑いながら、水の入ったコップをテーブルに置きました。

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