第18話 任仲虺が遊びに来ました

厨房に戻ってやっと子履しりから解放されると、あたしは早速、任仲虺じんちゅうき宛の手紙を書き始めました。子履と正式に婚約してしまったこと、学園卒業後に結婚することになってしまったこと、早速子履がくいくい迫ってきたこと、全部書きました。助けてくれとも添えました。及隶きゅうたいと一緒に屋敷を出て、手紙を送ってくれる人を探しに行きました。

この時代にも郵便制度はありますが、ほぼ士大夫にしか使えないものです。子履と婚約してしまったあたしも無理を言えば士大夫の制度を使えないことはないですが、それだとあたしが士大夫になることを認めてしまうようなものですし、そもそも婚約の話はまだ街には知れ渡っていないはずです。庶民は、その手紙を送る地まで旅に行く人を探して、手紙を託すのです。任仲虺の場合はせつの国へ旅行する人を探さなければいけません。

大変かと思うでしょう?そうでもないんです。このしょうの国では、広場に郵便依頼の掲示板が据え付けられています。その近くには、旅人の集まる建物があります。ゲーム風に言ったらギルドでしょうか。その受付の人に手紙とお金を払います。


「薛の国の任仲虺さん宛の手紙です」

「じんちゅ‥薛の領主の娘さんではないですか。士大夫宛の手紙は追加料金ですよ」

「ええっ?」

「センパイ、たいのを貸してあげるっすよ」

「ありがとう、隶」


あたしはそれも加えて受付に渡して、建物を出ました。といってもすぐ手紙が送られるわけではありません。運良く薛へ向かう旅人が現れれば、その時点で前世の言葉で言えば発送になります。

商のある商丘しょうきゅうと薛のあるはいの間は、商丘から斟鄩しんしんまでより近いです。しかしそれは直線距離の話で、実際は昭陽湖しょうようこという、壁のように細長い湖が中間に入るので、それを迂回する場合の距離は600となって、片道で早くても7〜8日くらいかかります。湖を舟で渡る場合はもっと早く着きますが、賃がかかりますのであまり期待するところではないです。


というわけで手紙を置いて屋敷に帰りました。


◆ ◆ ◆


その5日後に任仲虺が遊びに来ました。なぜだ。


「手紙、拝見しましたよ。旅人がわたくしの馬車列にぶつかったので、そこで受け取りました。ずいぶんお悩みの様子ですね」


えきの準備を始めた子履を部屋に置いて、あたしを連れて廊下に出た任仲虺は、小声でこう言ってきました。


「そうなのです。最初の食事のときは及隶がうまく騙してくれたのでよかったのですが、同じ嘘を2回3回連続でつくわけにもいかず、結局毎回お嬢様と一緒に食べているのです。距離を詰められているようで大変困るのです‥」

「あら、嫌だと話していますが顔は嬉しそうですね」

「えっ?」


あたしは思わず声をつまらせました。自分の表情なんて分かりませんし、子履と愛し合いたいという考えは頭の中にはありません。鏡を見たいとも思いましたが、今はとりあえず任仲虺が冗談を言っていると思うことにしました。


「食事の後はどうしているのですか?」

「お嬢様と部屋や外で遊んでいます」

「仲がいいのは結構なことですね」

「普通に遊ぶ分は楽しいです。それでもあたしは士大夫や公族にはなりたくないんです」


任仲虺は、「はぁ‥」と短くため息をついてから、短めに尋ねました。


「‥入浴や就寝もご一緒に?」

「いいえ、それはさすがに遠慮されています」

「そうですか‥」


任仲虺は何かを憂いたように、頬に手を当てて考えているようです。一体何を考えておられるのでしょうか。任仲虺のことですから、あたしが子履とくっつかないような工夫を構想してくださっているかもしれません。


◆ ◆ ◆


部屋に戻って任仲虺と子履が奕の盤を触っていくらか話しているところへ、及隶が3人分の茶を持ってきてくれました。まるであたしも士大夫扱いです。まあ、及隶も仕方なくやっているのは分かっています。これが定着しなければいいんですけどね。


「もし、その方もご一緒にお話しませんか?」


急に任仲虺が、部屋から出ようとする及隶を呼び止めます。及隶は目を丸くして、人差し指で自分の顔を指差して振り向きます。任仲虺が「はい、はい」と2回言ったので、及隶は何度か頭を下げて、おそるおそるテーブルに近寄ってきました。まるで子履や任仲虺に初めて何か言われた時のあたしにそっくりです。

でも任仲虺がにっこり笑ったのを見て及隶の緊張はほぐれたようで、急に馴れ馴れしくなります。


せつのお菓子はお召しになりますか?」

「はい、頂戴するっす」

「座ってくださいね、ふふ」

「はい、失礼するっす!」


庶民としての最低限の礼儀はわきまえているようで、深く頭を下げて、及隶は任仲虺の隣に座りました。ちなみにあたしは、向かいに座っている子履の隣の椅子にいます。及隶の席とは斜向はすむかいになります。子履、いつもは向かいなのに、隣によってくるせいで匂いがよく伝わってきます。

及隶は饅頭を頬張りながら尋ねます。


「それで、どのような用事っすか?」


うん、少しは遠慮しろよ。2人は優しいからまだいいものの。

と思って2人の顔色をあたしは及隶の代わりに伺ってみましたが、任仲虺も子履もにこにこしています。この笑顔が余計怖いのです。


「わたくしの友人である伊摯いしさんの後輩と伺っておりましたから、どのような人間か興味があったのです」

「私の愛するの裏の顔を教えてほしいのです」


2人とも目的は違えと、手段が合致したようです。ていうか子履、下心丸見えなんですが。一方の及隶は汗をたらたら流して、任仲虺から受け取った饅頭をちびちび食べています。子履が使用人を呼び出して、もう1人分の茶を運んできてもらいました。


「伊摯さんと就寝をともにされているのでしょう?寝起きはどのような印象ですか?」

「センパイは誰よりも早く起きて準備しているっす。自慢のセンパイっす!」

「あらあら、それは頼もしいですね。好きな食べ物はあるのでしょうか?」

なつめが好きっす!棗と砂糖で作る菓子が最高にうまいっす!」

「あら、それは私も食べたいですね」


やめて、恥ずかしいからあたしの話をしないで欲しいんですけど。任仲虺が何か質問して及隶がまこまこしているタイミングを見計らって、あたしはおそるおそる尋ねてみます。


「あの、そういうことはあたしに直接聞かないのでしょうか‥?」

「これも訓練ですよ」

「えっ?」

「この方もさんの付き人として斟鄩しんしん学園へ行くのでしょう?でしたら他の士大夫と関わるのは避けられませんから、今のうちに慣らしておきませんと」

「は、はぁ‥‥」


確かに見たところ、及隶は少し馴れ馴れしすぎるように思います。士大夫の中にはプライドの高い方もいますから、馴れ馴れしくしただけで罰されることもありえます。あたしが後でしっかり叱らなければいけませんね。


話題は次々と変わって、やがて斟鄩学園の合格者は他に誰がいたかというところまで来ました。


終古しゅうこの名前もありましたね」

「はい。それから‥伊摯に話しかけていたのは推移すいいさんと大犠だいぎさんで合っていましたか?その方のお名前もありました」


及隶は話題についていけないので、ひとり静かに茶を飲んでいます。かわいいです。

と、任仲虺が目を細めました。


「‥‥それから、わたくしの国の遥か東に、蒙山もうざんという国がございますが‥」

「えっと‥あの小さな国でございましたか」

「蒙山の国からも1人来られるようです」


その言葉に、子履は不機嫌そうに眉をひそめます。子履は蒙山という国が嫌いなのでしょうか?ですがあたしにそれを知る余地はありません。


「‥あの小さい国から1人出るとは驚きですね」

「はい、試験勉強をどのようになさっていたかも気になりますね」


子履とは対照的に任仲虺はにこやかに笑います。隣の及隶がお菓子を食べ終わったのを見ると「おいしかったですか?」と尋ねるくらいには、余裕があるようです。


「‥それで、名前は?その子の名前は何ですか?」


明らかに表情を暗くした子履が少し身をかがめて口を開くと、任仲虺は何か不思議なものを見たかのように頭を傾けます。


「蒙山の国に知り合いがおられるのですか?」

「そういうわけではございませんが‥」

「蒙山の国を治める有施ゆうし氏が憎いのでしょうか?」

「そういうわけでも‥」


子履は言葉を濁します。任仲虺はふうっと鼻からため息を出すと、その合格者の名前を読み上げます。


「姓は、名はしゅあざなばつと言うそうです」

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