第17話 子履がくいくい迫ってきました
さて、2年後まで良好な関係が続けば結婚という約束をしてしまって上機嫌な
「お嬢様、くっつきすぎでございます」
「
えっ、今あたしのことを名前で呼んでましたか?
「摯、私のことは
「あの、いくらなんでもそれは‥」
「呼んでくださいね。いつまでも私のことをお嬢様とお呼びになるのならば、これは庶民に対する公族からの命令ですよ」
「ううっ‥」
庶民のままでいる限り子履のことを名前で呼ぶ羽目になる、でも名前で呼んだらまた距離が縮んでしまう。これはとんでもないジレンマです。特にこの世界では、前世と違って、
「‥‥履様」
「ふふっ、ありがとうございます。摯」
そこでようやく子履はあたしの体から離れてくれました。手で口元を軽く隠していますが、目に集まるシワからは喜びを抑えきれない様子が読み取れました。
しかしそれはまだ序の口でした、と言って何人が信じるでしょうか。
お忘れかと思いますがあたしは料理人です。毎日キッチンで料理しています。さて、これから夕食の仕込みを始める時間なのですが、子履が厨房までついてきます。
「どうしましたか、お嬢様」
「ふふ、名前で呼んでくださいね。お邪魔します」
とうとうあたしと一緒に厨房まで入ってきてしまいました。案の定他の料理人たちは恐縮します。
料理の効率にも関わりますから、やむを得ません。あたしは子履に「履様から『楽にして』と言ってもらえないでしょうか」と耳打ちします。
「みんな私を見て緊張してるのですね、ふふ」
そりゃそうですよ。家の主の娘ですから、少しでも粗相をしたら首が飛びかねないとみんな思っているんですよ。子履は嫌な顔をせず「楽にしてください」と言ってくれました。
それからあたしは、子履に厨房の端にあるテーブルを案内し、
「摯は料理を作らないのですか?私、摯の手料理が食べたいですのに。あとこれからは私に言われなくても椅子に座って構いませんからね」
「はい‥」
あたしは小さくため息をついてから子履の向かいの椅子に座って、なぜかあたしの前に置いてあった茶を子履に渡そうとするのですが、子履が自分の茶を持っているのに気づきます。及隶、2人分の茶を持ってきたな。おい。(※この世界では茶は高級品で、ほぼ士大夫しか飲めない)
「いいえ、履様やごしゅじ『お義母様ですよ』お義母様が厨房にいらっしゃっている間は、あたしが応対しなければいけないんです」
本来なら料理長が応対すべきですが、不在の時はグループのリーダーが応対しなければいけません。リーダーと言ってもグループの数だけあって、その中でも年長のリーダーが一番偉いということにはなるのですが、やっぱりリーダーの中で子履と一番近いあたしがいるとあたし一択になるのです。それくらい分かれよと思いましたが、子履はにこにこしながら茶を飲みます。
「大丈夫ですよ、摯も料理してください。私は摯が仕事しているところを見たいのです」
「そ、そういうわけには‥」
あたしが遠慮すると、子履は急にしおらしくなってあたしを見上げます。
「‥私、婚約者の頑張っているところが見たいんです。ダメ‥ですか?」
うん、言っちゃったよ。わりと大きめの声で婚約者って言っちゃったよ。あたしは慌てて他の料理人たちの様子をうかがいます。案の定、みなあんぐり口を開けてあたしたちを見ています。及隶以外は初耳なんですよ。どうすんのこれ。
「婚約者とか、な、何適当なことおっしゃってるんですか!仮にも公族ですから、でたらめなことをおっしゃらないでください!」
「適当ではありませんよ。私と摯、正式に婚約したではありませんか。学園を卒業したら結婚でしょう?」
他の料理人にも聞こえるよう、わざと大きめの声で話しているんじゃないでしょうか。そう思えるくらいには、はっきりした口調でした。あたしは慌てて子履の隣まで回り、口を手で軽く塞ぎます。
「何で勝手にばらすんですか!あたしが仕事しづらくなります、そんなことを知られたら部下たちがあたしを公族扱いしなければいけなくなるじゃないですか!」
「それで何か不都合があるのですか?」
「変な礼儀の手間が増えて仕事の効率下がるんですよ!」
「あら、摯は仕事熱心ですね。私はそのようなお方も好きです」
だめだこりゃ。
「とにかく、自分のお部屋でお待ちいただくことはできないですか?ここにいると料理の匂いも付きますし!ね?」
「婚約者を追い出すのですか?」
「うう‥」
子履から目をそらします。子履、普段はおとなしくて落ち着いた性格しているのに、なぜあたしにだけこんなくいくい来るのでしょうか。いえ、あたしと話す時にも
「‥分かりました。そこで見てください」
「ありがとうございます」
あたしは子履をキッチンの端の席に置いて、持ち場に戻ります。
案の定、あたしの隣で料理をしている人が、ちらちらとあたしを見ています。
「‥どうしましたか?」
「いえ、何でもございません、えっと、お嬢様?」
「そのお嬢様というのはやめてください、あたしまだ庶民ですよ」
「は、はいっ」
部下があたしにも恐縮してます。これはもう次の料理人への引き継ぎを急いだほうがよさそうですね。下手すると、婚約解消したあとはこの部下たちとも別れてまた別のお屋敷に行かなければいけないかもしれません。あたしははーっとため息をつきます。
◆ ◆ ◆
夕食の時間になりました。この食事の時から、婚約解消の確定した
と思っていたのですが、テーブルであたしの隣にも椅子があるというのに、子履はなぜかあたしから距離を取って、向かいの席に座っています。
及隶がその部屋に入ってきました。
「お食事中のところ大変失礼いたします、至急伊リーダーのご指示を仰ぎたい件があり、参りました」
及隶もあたしにはセンパイ、センパイとなついていますが、士大夫の前ではちゃんとした敬語を使います。
「‥‥分かりました。せっかくの食事が冷めてしまいますね」
せっかく一緒に食べられるはずだった子履は、悲しそうにうつむいていました。
「いえ、お一人で食べても構いませんから」
「そういうわけにはまいりません。摯が戻ってくるまでお待ちします」
「いやいや、そういうわけには参りませんから。温かいうちに食べるのが一番おいしいです」
「摯と一緒に食べたほうがおいしいですよ」
そうやって子履が天使のようなあたたかくやわらかい瞳を向けてくるので、あたしは口を閉じてしまいます。すると及隶がまた、申し訳無さそうに言います。
「申し訳ありませんが、長い話になりそうです。伊リーダーの食事を下げさせていただいて構いませんか?」
「私はいつまでもお待ちしますよ」
「そ‥そういうわけには参りません」
子履の瞳に及隶もやられたのかためらっている様子を見せつつも、テーブルの隣に据え付けられた小さい階段に上ってあたしの料理を下げて運んできました。
2人して頭を下げて廊下に出ると、あたしは及隶に尋ねました。
「ところで何があったの?」
「嘘っすよ」
及隶はにかっと笑って言いました。いつかは食事に釣られていた気もしましたが、及隶はまだあたしの味方でいてくれるようです。あたしは表情が緩みました。厨房に戻ると、あたしは思いっきり及隶を抱きました。持つべきはかわいい後輩ですね。
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