第281話 広萌真人と会いました(2)

この世界では、仙人や真人は普通の人間よりも格上の存在としておもてなししなければいけません。それは、一國の領主であっても例外ではありません。

正直、たとえ振りや儀式的なものであっても、どこの誰ともわからない人を尊敬するというのはあまりいい気分がしませんが、それでも子履しりはみずから先頭に立って、広萌真人こうぼうしんじんを宮殿の客間に案内します。


子履って戦争は絶対にやりたくないと言いながら、前世の古代中国の習慣には忠実なんですよね。この世界では儒教という言葉はまだありませんが、儒教のもとになった生活習慣、文化、常識がすでに根付いていると前に聞きました。子履もはくである以上、周囲の目を意識しているのでしょうか。それにしては今日はなんとなくノリノリに見えます。まあ、真人がいらっしゃるのっておそらく初めてですよね。


「あちらにお座りください」


と、子履はふかふかの椅子を指さしました。通常であれば伯が座る上座ではありますが、それすら真人は超えているという意味です。しかし広萌真人は唐突に首を振ります。


「いや。特別扱いされるのは苦手なのだ」

「ですが、お座りになりませんと私の立場が‥」

「そのようなものはいい。お前があれに座れ」


子履は戸惑う素振りを見せましたが結局その椅子に座りました。広萌真人はその前に立ちます。普通ならはいのために腰を下ろすところですから、立っているだけでも普通の立ちふるまいとは違います。

広萌真人の後ろにいる3人の男性は地面に座っています。あたしと任仲虺じんちゅうきが子履の両隣に立ちます。本来なら外国から来たばかりの任仲虺はここに立つことができない立場ですが、先ほど徐範じょはんが同行しようとしたときに広萌真人が徐範を下げて任仲虺を連れてこいと言い出したのです。直々の指名でした。


「‥それで、本日はどのような用件でいらしたのでしょうか?」


子履が丁寧に尋ねると、広萌真人は後ろにいる男から預かった竹簡を子履に渡します。


「お前の母から竹簡を預かっている」

「‥‥えっ?母上が、ですか?」

「そうだ」


広萌真人、子主癸ししゅきと面識があったのですね。と思いきや、真人の持っている竹簡は2つだったようで、もう1つがあたしに向けられます。


「お前にもだ」

「え‥‥?あっ、ありがとうございます」


あたしたちは死ぬまでずっと子主癸のそばにいたのですからわざわざ竹簡を他人に預けなくても、と思ったのですが、まあそれなりに事情があるのでしょう。あたしも子履もそれを受け取ります。


「ありがとうございます、早速拝見します」


そうやって真人の目の前で竹簡を広げて‥‥あたしも子履も絶句します。


それは確かに、子履の母からの手紙でした。


ただし、前世の。


証拠に、文章は明らかに日本語で書かれていました。毛筆で平仮名は慣れなかったようで、ところどころ字が崩れているものもありましたが、漢字の使い方といい、動詞を文章の最後に置く文法といい、れっきとした日本語でした。子主癸はこんなもの、書かないはずです。


「‥‥これは、どなたからもらったものですか?」


子履が椅子から腰を浮かします。すると真人はあっさり答えました。


「この前ほうじたそう伯だ」

「‥‥っ」


あたしと子履はお互いの顔を見ます。まさか‥‥あたしの母に続いて、子履の母もこの世界に転生していたなんて。にわかには信じられません。姬媺きびに三年の喪はいらないという遺言を残したせいで一騒動起こしたと記憶していますが、そもそもこの世界の常識を考えるなら、姬媺の母が姬媺を厳しく教育したのならそのような遺言を残すはずがありません。前世日本の記憶があったのならそれにも納得です。竹簡に目を落としてしまうと、すぐに真人が横槍を入れます。


「きちんと読むのは後にしてくれ。わしにも時間がない。特に今日はな」


特に今日は時間がない。真人は俗世との関わりを絶っていると聞きましたが、今夜何か別の予定でも入れているのでしょうか。


「今日は、商に置いて欲しい人がいるから連れてきた」

「えっ」


ただでさえが増えすぎてほぼ民家と見分けのつかない屋敷ですら用意できていないという状況なのに、どうしても商に仕えたい誰かが真人に泣きついたのでしょうか‥‥と勘ぐってしまいましたが、当の子履はそんなことを考えていなさそうな顔をしていましたので、素直に従います。

真人の後ろにいる3人のうち、右端の男が立ち上がって前に進み出ます。確かに他の2人よりも背が高く、男らしいりりしい顔つきをしています。


「この人に見覚えはあるか?」

「‥岐倜きてきでしょうか?」


の多くの家臣と面識のある子履が真っ先に言いました。岐倜‥‥あたしはよく覚えてませんが、確かにおぼろげながら会ったことのあるような気がします。今は夏の重臣をつとめている岐踵戎きしょうじゅうの息子でしたね。

正解だったようで、その男は頭を下げます。


「岐倜でございます」

「ご紹介ありがとうございます、ところでなぜこの方でしょうか。商ではすでに夏から多くの優れた文官が亡命しており、内政に困ることはございませんが‥‥」

「だが、軍事力がないだろう」

「あ‥‥」


夏から文官の亡命は大量にありましたが、武官のそれがないのは、そもそも武官が少ないからです。夏は辺境を攻めることこそあれと、長らく平和な世の中でしたので、軍備も戦争経験のある将官もそんなに多くありません。


「商は武官の席が空いているから、わし直々に鍛えてやった。さすがに公孫猇こうそんこうには劣るが、こいつは干戈かんか(※武器)の術を心得ている。戦いで大きな助けになるだろう。ぜひ使ってくれ」

「で、ですが、私は戦争をする予定はございません‥‥」

「いや、いずれすることになる。それも近いうちにだ。お前の宿命なのだ。こいつはそのときによく働くだろう」

「しかし、その‥‥」


子履の声がだんだん小さくなっていくのが分かります。見かねた任仲虺が、深々と頭を下げます。


「このたびは素晴らしい人材をご紹介くださり、ありがとうございます。使わせていただきます」

「仲虺!」

「陛下が前向きでないのなら、わたくしの食客しょっきゃくとして置きます。この商はいずれ、岐倜を必要とするでしょう」


そういえば任仲虺は、商の国力を上げるために戦争しなければいけないと言っている過激派‥‥なのかな?でしたね。


「‥‥いいえ、家臣として置きます」


任仲虺を遮るように子履は言って、それから椅子を立って岐倜に「よろしくお願いします」と言います。まだ体の動きにためらいがあります。あたしはやれやれとため息をつきます。


「岐倜を頼むのは戦争だけが理由ではない。わしとお前は長い付き合いになるのでな、まあ、窓口のようなものだ。何かあったら岐倜に言ってくれ」

「承知しました」


戦争という単語が出てきたときから、子履の顔から表情は消えていました。あたしも複雑な気持ちです。子履が戦争したくないと言っているのに、戦争することなんてありえるのでしょうか。

‥‥あっ、それよりもあたしにはこの真人に聞きたいことがいくつかありました。


「真人、ご無礼ながら少しお時間をもらえますか?質問がございます‥‥」

「今聞かれても答えることはできない。その時が来れば、必ず説明する」

「その時とは、いつでしょうか?」

「商軍が斟鄩しんしんおとしいれようとする時だ」


子履はどすんと椅子に腰を落とします。あたしもどう返事すればいいのか全く分かりません。ただ、子履が壊れたロボットのように言葉を並べました。


「‥‥そんなことは、ありえません‥」

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