第119話 姒臾があたしの部下になりました

ちょっと待って、姒臾じきは百歩譲ってまだわかるとして、どうしてその父まで一緒に来てるんですか。どうしても気になったのでこっそり盗み聞きしたいところですが‥‥古代中国の建物であれば廊下も狭いのでちょっと聞くだけならばれませんがあいにくここは西洋風の建物で、廊下の幅は広めにとってありますし、照明も明るいです。廊下が広いと不安になるものです。なんか引っかかりますが我慢して厨房に戻ります。


厨房に戻った後も、何を話しているんだろうなあとやきもきしながらまかないを食べ、料理人たちと一緒に掃除していましたが、その途中で使用人が1人やってきました。


様はおられますか?」

「はい、あたしですが」


他の料理人にまじって雑巾を絞っている最中でした。あたしの手元を見て使用人は一瞬ひいた様子でしたが、こほんと咳をつきます。


「陛下がお呼びでございます」

「わかりました、すぐ行きます」


◆ ◆ ◆


手を洗って例の部屋に向かう途中、使用人に話しかけられます。


「将来皇后になるお方が、捕虜でもないのにあのような汚いものを触られていたのですか?」

「ああ‥‥みんなで掃除したほうが早く終わると思いまして」


前世でもああいう機会はたくさんありました。あたしにとっては慣れたことです。


「あのことはあまり他人に話さないほうがいいかと存じます」

「‥ありがとうございます、そうします」


汚いことをしてるって話が変に広がって料理人の仕事またなくなったら困りますからね。この世界ではそういう価値観なんだと割り切っておきます。

おっと、部屋に着きました。ドアを開けて、「伊摯いしでございます」とはいします。そこでは子主癸ししゅき、姒臾とその父が食事をしていました。ああ、姒臾の父はなつかしいですね。あたしのもともとのご主人様です。厳格な性格ですが、姒臾ほと人格は破綻していないと信じたいです。


「伊摯、姒臾を厨房に置くことはできますか?」


子主癸から飛び出してきた言葉もとんでもないものでした。えっ?


「すみません、もう一度お願いできますか?」

「姒臾を厨房に置くことはできますか?」

「ええっ‥‥」


もちろん姒臾は生まれつきの貴族です。料理の経験などもちろんないはずです。


「なぜそのような話が出てきたのですか?」

「‥姒臾、自分で説明しなさい」


子主癸が話を振ると姒臾は椅子から立って、そしてしゃがんであたしと目線の高さを揃えます。


「俺、どうしても子履しりのことが好きなんだ。だが‥あいつのそばにいることはもう難しい。ならば使用人でもなんでもいいから、あいつのそばにいて、あいつを影から支えたい」


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥うん、ストーカーですね。まごうことなきストーカーですね。ストーカーです。大切なことなのでもう一回言いますがストーカーです。本当に子履のことが好きなら離れろよ。二度と会うなよ。と言いたいところですが貴族同士で話し合って決まりそうなことです。

それに目の前にいる姒臾も、たとえ平民と同じ仕事をすることになっても子履の近くにいたいという思いが、力の入った目尻から伝わってきます。でも姒臾のような性格の悪い人が厨房に来て、他の料理人は納得するのでしょうか‥‥。


「あ‥‥」


あたしはふと思い出します。学園にいた時、姒臾があたしの部屋に半日も居座ったことがあるのですが、あの時、及隶きゅうたいとはとても仲良くしていたようです。及隶も「にーちゃん」と呼んでいたりして。それに子亘しせんも前に、子履以外に対しては性格がいいと言っていたような気がします。姒泌じひつも、過程にいろいろ思うところはあるものの、結局姒臾のことを心から好いているようでした。

そして料理人の中に子履がいるはずもありません。‥‥賭けてみましょうか。


「‥‥姒臾様、厨房は平民のための場所です。あなたには平民と同じ仕事をしてもらいますが、我慢できますか?」

「できる」

「年齢や身分ではなく能力で役割を決めていますが、それに従ってくれますか?(※この世界では親と同様に高齢の人は敬うべきとされ、年齢が高い人に重要な役職を任せることが多い)」

「できる」

「‥‥最後に」


姒臾、あたしを殺そうとしたことがあるくらいにはあたしのことが憎いんですよね。そんな姒臾がプライドを捨ててまでこの仕事をしたいというからには、これも絶対に守ってもらわないといけません。


「厨房のリーダーはあたしです。あたしの言うことは守れますか?」

「‥守れる」


少しの間ができたのは気になりましたが、姒臾が誓うように唇をかみしめてじっとあたしを見ていたので、あたしは何度か小刻みにうなずいた後、姒臾より先に立ち上がってみます。‥‥といっても、膝を曲げて手をつけたままですけど。


「あなたは新人ですから、あたしや先輩たちには敬語を使ってください」


我ながら屈辱的なお願いだと思います。あたしはもともと姒臾のために働く使用人の立場でしたから。あたしは固唾を呑んで姒臾の表情を注意深く伺っていました。少しでも眉間にしわができればあたしも不安になるところでしたが、姒臾は片方の眉毛をぴくっと動かしただけでした。


「分かりました」

「厨房ではあたしを伊料理長と呼んでください」

「分かりました」


と、姒臾はまた頭を下げます。正直あたしも驚きました。いくらなんでも親の目の前で、ここまで屈辱的な扱いをされて素直にうなずくとは思っていませんでした。彼はどこまで追い詰められたのでしょうか。あたしも姒臾の親の目の前で少しやりすぎたかもしれませんし、もうちょっと人げのない場所でこのやり取りをすべきだったかもしれませんが‥‥あたしが思うことではないかもしれませんが、姒臾にちょっとだけ同情してしまいます。

姒臾が立ち上がると、子主癸があたしに言います。


「伊摯にお願いするのも酷かと思いましたが、の目にふれない中で一番きれいな仕事がこれしか出てこなかったのです。他はゴミ処理くらいしかありませんから」

「問題ございません、陛下」

「‥‥あなたは履の大切な婚約者でもありますから、少しでもトラブルがあれば必ず私に報告しなさい。私がいない時は手紙をよこしなさい。それから、履にこのことは隠すように」

「はい」


◆ ◆ ◆


大変なことになってしまいました。今あたしは厨房に向かっていますが、後ろには姒臾が控えています。なにより、姒臾の父が帰る時に姒臾の頭を叩いて「わしがしてやれることはこれが最後だ。これでダメなら必ず他の女を選べ」と言っていたことがとても印象的でした。いやあたしと姒臾の関係も重いですけど、父の言葉も重いですって。

それだけ子履のことが好きで好きでたまらない‥‥前世基準ではどうしようもないストーカーであり、場合によっては精神科行きになるレベルかもしれませんけど‥‥。貴族が平民と同じ仕事に身を落としたがるほどとは思いませんでした。しかも父公認で。しんの国全体にプライドはないのでしょうか。それとも姒臾のことはもう隠して、次男あたりを次の王にするのでしょうか。ちらりと後ろを見ると、姒臾もつらそうに、今にも泣きたそうにうつむきながら歩いていました。いや泣きたいのはこっちですってば。あたしは好きでこの仕事をやってるんですけど、好きじゃないのにやってる貴族はこっちも扱いづらいものです。


姒臾に何か話しかけよう‥‥と思いましたがやめました。ここに至るまでのきっかけというか、詳しい事情、何が姒臾をそこまでさせるのか、いろいろ知りたいのはやまやまですが、今はそのタイミングではないことは確かでした。姒臾があたしに一度も反抗しない時点で逆に心配になってしまいます。後で子亘に聞けたら聞いてみたいです。またあの薬盛られたら困るので対策を考えなければいけませんね‥‥。

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