第177話 礼終の死(1)

夏后履癸かこうりき岷山みんざん氏を討伐し、えんえんに来てから、正室である礼終らいしゅうは夏后履癸とほとんどの接点を失っていました。正月の宴会では夏后履癸は琬、琰に寄り添って礼終を遠ざけ、琬、琰に上座に座らせて礼終を下座に座らせ、後宮でも礼終を建物の奥の不便な部屋に移し、食事の質を落とし、もはやどちらが正室なのか側室なのか分からなくなるような不当な扱いを受けていました。礼終は内心夏后履癸を恨んでいるものの、権力と豊かな生活を捨てるわけには行かず、親の説得もあってどうにか正室に踏みとどまっていました。

その夏后履癸と礼終の間には、何人かの子どもがいます。夏后淳維かこうじゅんいもその1人で、ちゅう(※次男)です。はく(※長男)は夭逝ようせいしたため、事実上の伯と同等の扱いになっています。(※末っ子)は夏后克己こっきといいましたが今はわけあって河北かほく(※・黄河の北)で暮らしています。


夏后履癸は琬、琰を追い出したかと思いきや、今度は妺喜ばっきと部屋にこもって遊んでいます。ああ、なんという浮気性の男でしょう。しかし礼終は、夏后履癸を愛しているわけではありません。六礼りくれい(※この世界での結婚式の代わりとなるもの)の終わりから数ヶ月くらいは気はありましたが、それも今は全くありません。ただ権力のためだけの存在になっていました。

礼終は今日も何人かの従者とともに、後宮の庭を散歩していました。すると草むらの影に、亀のこうらが落ちているのに気づきました。近くに池などありませんし、こんなところに亀が迷い込んでいるはずなどありません。きっと誰かが落としたのでしょうと思い、礼終は従者に命じてそれを拾わせます。

果たして従者からそれを受け取った礼終は、手にとって見て驚きます。


”礼終死して女室ついえん”


こう彫られていたのです。礼終は驚いて散歩もそこそこに引き上げ、易者を呼び出してそれを見てもらいます。易者はその場で占い、結果を報告します。


「礼終様、殺されますぞ」


礼終は絶句し、地べたに座り込みます。


「私が‥‥殺されるのですか?犯人は?犯人は誰ですか?」

「妺喜様でしょう」


易者はそう容赦なく告げて、次の質問がないとみるや去っていきました。


◆ ◆ ◆


「なに、礼終がお前を殺そうとしているだと?」


夏后履癸の夕食に酌するようになった妺喜の小声に、夏后履癸はすぐ反応しました。この食卓は夏后履癸の私的な部屋の中にあり、近くにはベッドがあります。つまりそういうことです。この部屋には妺喜と夏后履癸の2人しかいません。使用人はいろいろ察して、食事を運び終わるとすぐ部屋からいなくなっていました。


「うむ」


妺喜がうなずきますが、夏后履癸はしばらくうなりこんでいました。


「‥‥まさかあの礼終がそこまでやるとは考えづらい。わしはあいつと長年の付き合いだが、とてもそのようなことをする人には見えない」

「‥‥じゃが、護衛をつけてもらうことは可能じゃろうか」

「それくらいなら、まあ、大丈夫だろう」


妺喜は夏后履癸を洗脳しているわけではありません。洗脳すると、きちんと隅から隅まで命令しないときちんと動いてくれない、ただの感情も知恵もないロボットのようになるのは、和弇かかんで確認済です。夏后履癸をそのような状態にしてしまうと、すぐに家臣から不審がられてしまうのがおちでしょう。完全な洗脳にならないように、毎日少しずつ少しずつ夏后履癸の頭の中を壊していく作戦に切り替えているのですが、もともと一生使う予定のなかったあんの魔法のことです。当然使い方の練習も研究もしていませんし、ぶっつけ本番のようなものです。差し加減は難しいのですが、それでも妺喜はわずかに手応えを感じていました。


◆ ◆ ◆


夏后履癸と一通り終わった翌日の午後、妺喜は自分の従者の男にこっそり命令します。もちろんこの人は洗脳済で、周囲に悟られないように夏后履癸と一緒にいる時以外は妺喜の横につきっきりにさせています。


「あの庭師は礼終が連れてきたやつだったな」

「はい」

「草を刈るための刃物も持ち合わせているだろう」

「はい」

「きっとわらわを殺そうとしているだろう。厳しく調べ上げてくれ」

「はい」


従者は何人かの兵士とともにその庭師を捕まえ、服を脱がし天井に吊るして体を棍棒で叩きつけます。

しばらくして従者が妺喜のもとへ戻ってきました。


「どうだったか」

「認めないようです。何も知らないと言い張っています」

「そうか。では吐くまで何日でも続けてくれ」

「はい」


果たして従者は2日も3日もその庭師を拷問にかけました。しかし庭師は否定してばかりです。


◆ ◆ ◆


これだけ拷問が長続きすると、さすがに終家の耳にもこの話が入ります。礼終の父にあたる終遷しゅうせん斟鄩しんしんの東にある陽城ようじょうという場所で豪邸を構えて、兄で礼終の伯父にあたる終芹しゅうきんと一緒に暮らしていましたが、庭師の話を聞きつけるとすぐさま馬車で斟鄩に向かいました。誰かが庭師とともに終家をおとしめようとしているのではとおそれていました。


終遷は斟鄩に着くやいなや後宮まで走り、夏后履癸に面会を求めました。


「陛下は‥‥今‥‥」


後宮の玄関でそう使用人がためらうところを見て、終遷は怒鳴りつけます。


「わしは火急の用で来たのだ、早く会わせてくれないか」

「それが‥‥陛下は、妺喜様と情事にふけっておいでです」

「妺喜とは誰だ?新しい女か?」

「は、はい、この前からきさきになられた方でございます」

「そんなものはどうでもいい、今すぐ会わせろ、取り次いでくれ」


終遷が怒鳴るのをよそに、馬車の中に残っていた終芹は嫌な予感がして勝手に馬車を降りると、近くを歩いていた使用人にこっそり尋ねます。一通り話し終わった後は、すっかり口論を始めてしまっている終遷のそばまで来て耳打ちします。


「帰りましょう。陛下はすでに琬、琰を追い出し、妺喜を妃にしたばかりです。琬、琰のことをあれだけ溺愛していたのですから、追い出すだけでも異常な事態で、陛下は精神的にまいっておられましょう。このタイミングで面倒事を起こせば、いくらきさきの父といえと、陛下のことですから‥‥」

「うるさい。帰りたければ勝手に帰れ」


そう怒鳴られた終芹は「‥分かりました。でもせんが帰れないと困りますから、私は新しい馬車を調達します」と言って、「勝手にしろ」という返事をもらうと、そのまま歩いてどこかへ行ってしまいました。


そのあと終芹は斟鄩のしかるべき役所で手続きをして馬車を借りた後、それに乗り込みます。


「陽城へ帰られますか」


そう御者が尋ねてくると、終芹は首を振ります。


「いいや、もっと先に行ってくれ。そうだな、しょうあたりが栄えているだろう。この冷害にあって、餓死者を出していないと聞く。法芘ほうひの家で商伯の子(※子履しり)とも面識があり、かねかねから興味があった。そこへ行って見聞してから帰りたい」

「はい、分かりました」


そう言って御者が東門に向かって馬を進めようとすると、終芹はまた言いました。


「南門から出てくれ」

「はい?いえ‥商の国は、東からのほうが行きやすいのですが」

「かまわない、南門にしてくれ」

「はい」


斟鄩から南下して東へ向かうコースは山あいの道が多く、険しいのです。それでもあえて南門を選ばせたのは、終芹に嫌な予感がしているからでした。

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