第178話 礼終の死(2)

終遷しゅうせんは使用人を振り切って強引に屋敷に入り、つかつかと足音を立てて、夏后履癸かこうりきの部屋まで来ます。右から左から、使用人たちが慌てて止めに入ります。


「陛下は今、情事にふけっておられます。私どもが取り付きますので、義父様は客間でお待ちになってください」

「うるさい。わしは王のきさきの父だ。どちらが偉いかは明白であろう」

「それはそうですが、あくまで権力は陛下のほうにあり‥‥」


終遷はそれに返事もせずに勢いよくドアを開けます。部屋の中ではやっぱり、夏后履癸が妺喜ばっきと情事にふけっていました。


「何だ?」


さすがに終遷に背を向けて身をかがめる妺喜、そして不機嫌そうに怒鳴る夏后履癸をおそれることなく、終遷は言いました。


「后の使用人が何日も拷問にかかっているというのに、お前は平気でそんなことができるのだな?」

「うるさい。押しかけてきたかと思えば用はそれだけか?くだらぬ」

「そのようなことはない。今お前らがここで楽しんでいる間にも、お前らのせいで苦しみ死にそうな人がいるのだ」


たとえ取り調べのための拷問だとしても、ありもしない罪を認めるまで延々と拷問が終わらないことも多く、一度でも庭師が罪を認めるようなことがあればその瞬間に礼終らいしゅうの立場は終わります。これは終遷にとって時間との戦いでありました。しかし追い詰められた終遷と異なり、いきなり土足であがりこまれ情事を見られた夏后履癸の怒りは相当なものでした。歯ぎしりからもその気持ちが見て取れます。すかさず妺喜が片手で胸を隠しながら耳打ちします。


「こやつは焦っておるのじゃ。礼終お連れの庭師がわらわを殺すための武器を所持していたかどで取り調べられている最中だが、こやつにはよっぽと都合の悪いことがあるのじゃな」

「なにっ、そんな取り調べがあったのか。なるほどのう。わざわざ陽城ようじょうから来るということは、それは正解だったということだ。おい、そこ!」


夏后履癸の判断はいつもに増して速いものでした。科学の発達した現代と異なり、状況証拠だけで簡単に人を罰していた時代です。礼終の部屋は取り調べられ、『うらないによると、妺喜が私を殺すようである』と書かれた日記が出るやいなや終遷も礼終もそこから連れ出され、腰斬ようざんに処されます。拷問にあっていた庭師も、その場で殺されます。

王のきさきを殺そうと画策していた罪は重く、軍隊を陽城に派遣し、終家の屋敷にいた人たちを全員連れ出し、次々と斬首していきました。


◆ ◆ ◆


「拷問が長引いたことで多少予定は狂ったが、まあいいじゃろう」


妺喜は夏后履癸がちょっとした用事で後宮を離れている間に、自分の部屋でノートに文字を書いていました。


厄介な羊玄ようげんは殺せなかったものの追い出し、琬琰えんえんも礼終も殺し、妺喜の立場は安定しました。しかしこれだけでは、は滅亡するはずもありません。もっと王に取り次ぎ、次々とひどいことをさせて民心を離れさせていくのがすばらしいやり方です。ただ王族を殺して王朝を滅ぼしただけでは、その生き残りがまた夏を復興させるでしょう。実際に、夏はそうして一回滅亡しながらも復活したことがあるのです。

この世界で王朝を維持するのは何かというと、血で繋がった一族による世襲といえばそうなのですが、実をいうと徳という単位で区切ります。夏はの徳がまだ力強く残っていたことから、少康しょうこうの挙兵を諸侯が支持し、夏という王朝を復興させることができました。禹の徳が、もはやたえきれないくらいうすれてしまっていることを証明し、もはや禹の徳によっては王朝を治められないと人々や諸侯に納得させるしかありません。そのためには王の暴政が必要なのです。禹の子孫である履癸りきが暴政によって人心を失うのみならず、禹の徳がもはや存在しないと人々を納得させることで、ようやく夏は終わります。

しかし暴政だけなら、実は孔甲こうこうがやっています。孔甲を軽く上回るレベルの何かが必要です。孔甲ですらやらなかったこととは何でしょう。人と挨拶する時に、孔甲は最低限の礼儀はわきまえていましたが、履癸にはそれがありません。実際、伊摯いし饂飩うんどんを献上したときにも、履癸は饂飩よりもかわいい女の子探しに夢中になっており、失礼な振る舞いをしていましたからそれは明らかです(※第2章参照)。それだけでも十分ですが、もう1つ。人間をなるべく想像を上回る残酷な方法で殺し、常識をはるかに超えた重税を課し、人民や諸侯の怒りを買うのです。これをすることで諸侯は反乱を起こし、禹の徳はついえたと見なされ、一気に夏の王朝は滅亡します。

しかし諸侯が反乱をするにしても、夏の軍事力はまだまだ強いです。諸侯がばらばらに夏を攻めていては、きっと負けるでしょう。誰かがリーダーとなって、諸侯をまとめなければいけません。


妺喜がそこまで考えていたところで、ドアのノックがします。もう夏后履癸が帰ってきたかと思えばどうやらそうではないようです。


「妺喜様、しょうの国から手紙が届きました」

「‥‥うむ」


妺喜は気まずそうに、使用人が部屋から出ていったのを確認してから、受け取った竹簡を開きます。妺喜も、自分のやっていることに自覚はありました。それをなだめるような内容かと思っていたら、どうやら違うようです。そもそも一連の事件の黒幕が妺喜であることは、まだ誰にもばれていないはずです。


「‥‥子履しりの親が死んだのか」


それは、子履の母であり商伯である子主癸ししゅきの訃報を伝える伊摯からの手紙でした(※第7章参照)。子履が子主癸の遺志を受け継いで次の商伯になりたいので、その認可を求める使者をすでに斟鄩しんしんに派遣しているのですが、妺喜からも夏后履癸に一言言って欲しい、ついでに現状を尋ねる内容、そして現状の生活に不満なら今すぐにでも商に逃げてきてほしいことも遠回しですが書かれていました。

すでに外は春となっており、新緑が芽吹き、小鳥のさえすりが聞こえる季節になっていました。学園はとっくに始まっているでしょうが、親が死んだのなら子履、ついでに伊摯も退学しなければいけないでしょう。姬媺きびが例外中の例外なだけで、普通は退学ものです。当面斟鄩に来ることはできません。「寂しいのう‥」と、妺喜はぼやきます。


「‥‥あっ」


そこで妺喜は思い出します。子履が、こうの魔法を使いたくて練習していること(※第4章冒頭参照)。子履は無事に光の魔法を習得したかは妺喜には分かりません。本当に子履が光の魔法の使い手だったかも、妺喜には分かりません。ですが、もしもそうだとしたら。


「わずかな可能性に賭けるのも、悪くはないのう」


夏を滅ぼす諸侯たちをまとめあげるリーダーに、伝説といわれる光の魔法の使い手である子履がもっともふさわしいでしょう。そして禹が光の魔法の使い手だったところから見るに、次の王朝を立てるのももしかしたら子履かもしれません。

子履が王となって夏を滅ぼして新しい王朝を立て、中原を直轄し、諸侯をまとめあげるリーダーになる。伊摯や任仲虺じんちゅうきが子履を補佐する。その場に妺喜はいませんでしたが、同級生であり親友でもある人達の栄進は、妺喜にとっても嬉しいことでありました。


筋書きは決まりました。妺喜はふうとため息をついて、その竹簡を丸めて自分の頬に当てます。ひんやりと、そして暖かいぬくもりを感じました。妺喜はわずかに「さよなら」とつぶやいたあと、その竹簡を机に叩きつけて使用人を呼びます。

やってきた使用人に、妺喜は竹簡を放り投げます。


「それはわらわを不快にさせる内容であった。燃やしてくれ」

「はい」


使用人がそれを庭で燃やすのを、妺喜は窓越しに眺めていました。妺喜の口は引き締まっていましたが、その目からは、ぼろぼろと涙が溢れていました。


「わらわはこれから悪魔にならねばならぬ。許して欲しいとは言わない。わらわもろとも、夏を燃やしてくれ」


その妺喜が握りしめる手には、残忍ながらも悲壮な決意が握られていました。

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