第279話 遂の國の料理人(3)
むかしむかし、一組の母子がいました。母は子を一流のプロフェッショナルにしたくて、懸命に教育しました。
子がなかなか上達しないので、母は苛立って、つい子に手をあげてしまいました。
子を殴ると、泣きながら言うことを聞いてくれます。一生懸命取り組んでくれます。必死で、死ぬ気で取り組んでくれます。
殴るたびに言うことを聞いてくれるので、母はこれが正しい教育だと思いました。
そして、子が間違ったことをしたら、どんどん、どんどん、殴ったりぶったりしていきました。
でもある日、子は逃げ出して、いなくなってしまいました。
子を懸命に教育していたはずの母は落胆しました。
母の言うことを真摯に聞いて、必死で取り組んでくれるとてもいい子だったのに。
あんなに必死に一生懸命に汗を流して鍛錬する子供は、母の自慢で誇りだったのに。
目の前からいなくなったのは、きっと悪い人にさらわれたに違いありません。
子はきっとどこかに閉じ込められて、怖い思いをしているのでしょう。
早く家に帰りたいと思っているのでしょう。早く帰って、また母と一緒に鍛錬したいと願っているでしょう。
母は一生懸命、子を探しました。
自分の知名度を利用して警察やマスコミに頼み込んで、大々的に報道してもらいました。
何度もテレビに出て、子を見つけ出すよう訴えました。
しかし、やっと見つけたかと思ったら、その子はもう死んでしまっていました。
あんなにまじめでいい子だったのに死ぬなんて。母はえんえんと泣いて悲しみました。
何日も何週間も何ヶ月も何年も、子の墓前で泣き続けました。
そんな母もいつしか死んで、記憶を持ったまま異世界に転生しました。
母が前世で得意としていた技術は、その世界にもありました。
母は新しい世界の技術を身につけようとしました。
そこで、その道の達人として名高い師匠に弟子入りして、住み込みで学ぶことになりました。
しかし、その師匠は母と同じ教育方針でした。
母が少しでもミスをすると、容赦なく殴ってきます。
些細なミスしかしてないのに、大したことないはずなのに、
自分はそのミスに気づいていなかったのに、完璧にやろうとしていたのに、
それでも、どんどん、どんどん、拳が飛んできます。
母は数え切れないほど怪我をしました。傷ついて、血を流しました。
母は、その拳に恐怖を覚えるようになりました。
師匠と会うのが怖くなりました。
一生懸命学ぶはずだったその一芸をやるのが怖くなりました。
毎日、朝起きるたびに恐怖を感じました。
鶏の無き声を聞くと、涙が止まらなくなりました。
そのとき、母は気づきました。
前世のあの子は、一生懸命取り組んでいたわけではありませんでした。
必死にミスをなくそうとしていたのは、別にその子が真面目で懸命な子だったからではありません。母が怖かったからです。
他にやりたいこともあったのに、他に楽しいこともあったのに、その子は母に怒られたくない一心だけで取り組んでいたのです。
殴ると子がまじめに取り組むので母はそれが正しいと思いこんでいましたが、あれは母にとっての一時の憂さ晴らしでしかなかったのです。
愛する子が逃げ出したのは、母自身に原因があったのです。
とってもとっても大切な子を失ったのが自分のせいだと気づいた母は落胆しました。
今更気付いたところで、子もこの世界に転生しているとは限りません。
愛する子に二度と会えないでしょう。謝ることはできないでしょう。
母はいっそ死んでしまおうと思いました。
しかし、怖い怖い師匠に、弟子をやめたいなど切り出せるわけがありません。
怖くて話せないからです。
そのまま、師匠に殴られる日が続きました。
そのたびに、母は、前世のおこないの報いだと思うことにしました。
殴られるのに見合う理由がないと、頭がどうにかなってしまいそうだったのです。
いつしか、殴られるのを罪の償いだと思うようになりました。
殴られるたびに子の顔を思い出し、ひたすら謝るようになりました。
いつしか、師匠の子が母を救い出しました。
それから母はあてもなく旅を続けて、気がついたら母自身も前世の知識を活かして有名になり、ある國で家を与えられ、方伯や民衆から尊敬されるようになりました。
しかし、どれだけ敬愛されても、子は戻ってきません。
寂しくて耐えられない日々が続いていました。
そんなある日、子が母と同じ世界に転生しているかもしれないことに気づいたのです。
母は噂を頼りに、その人物を追いかけました。
その人がいるらしい場所をいくつもあたりましたが、すでにその人物が故郷へ帰ってしまった後で。
母はひたすらその人を追い求めていました。
◆ ◆ ◆
あたしは
そこには白いテーブルがしつらえられていて、テーブルの上には、いくつもの皿の上に宝石のような美しい料理が乗っていました。
そのすぐそばには、1人の女性が地面の上に正座していました。
あたしを見ると、背を曲げて、低めます。
人間これだけ低くなれるんだと思うくらい、体をきれいに折り曲げています。
「もう二度と
傍らにいる子履がそう言ってくれました。
顔は見えませんが、女性のわずかな泣き声が聞こえてきます。
反省していることは伝わります。
あたしも、その反省が偽物だとは思いたくないです。
でも。
あたしはぐっと手に力を込めました。
そして、自分も頭を下げます。
「申し訳ありません。ここから出てください。二度とあたしの前に現れないでください」
あたし、その人の顔を見るだけで恐怖を感じるようになりました。
その人の声、言葉、足音を聞いて、気配を感じるだけで、恐怖を感じるようになりました。
毎晩、毎晩、ぴくぴくしていました。
あの日々はもう思い出したくありません。
大好きな料理をしているときにも思い出すことがあります。
そのたびに自分の料理をつまみ食いして心を落ち着かせていましたが、できることなら記憶から消し去りたいのです。
存在そのものが恐怖です。
もしあたしが悪い人なら、ここで殺していたかもしれません。
いえ‥‥反省している人をつき放した時点で、あたしも悪い人ですね。
子履が何か言っていましたが、あたしはとにかく頭を下げたまま、ぴくとも動きません。
とにかく、とにかく、もう会いたくない。恐怖の塊を目に入れたくない。その一心でした。
いくらか経って暖かい風を感じるようになったころ、あたしの背中が撫でられます。
「ここから出ていきましたよ」
子履の言葉でした。あたしはおそるおそる顔を上げます。
目の前には誰もいません。なにもない草原が広がっています。
テーブルの上には、きれいに、何もなくなっていました。
あたしはその場で崩れて、泣き始めました。
自分がなぜ泣いているかもわかりません。自然と声が出ます。涙が溢れます。
子履が後ろから抱きしめてくれたことは分かりました。
でも、それでも、やり場のない悲しみが豪雨のようにあたしを襲います。
いつまでたっても、空がまともに見れません。
歪んだ空を見上げて、あたしはただ自分の感情に身を任せていました。
そしてその日から、あたしは厨房へ行かなくなりました。
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