第75話 任仲虺が居眠りしていました
馬車に戻ると、
「
「あっ‥申し訳ありません、寝てしまいました」
いつもクールに振る舞っている任仲虺は、このときばかりは慌てた様子でした。そりゃそうです、任仲虺は及隶が人ざらいに持っていかれないか見守らなければいけなかったのですから。
任仲虺はあたしと目が合うと座ったまま頭を下げます。あたしと任仲虺には身分の差があります。貴族に頭を下げてもらえるだけでも、平民にとってはとんでもないものです。
「大丈夫です、お気に留めないで‥」
「仲虺、今すぐ馬車から降りてください」
後ろから子履の厳しい声が聞こえてくるので、あたしは思わず振り向いて、任仲虺より先に「えっ」と声に出します。ですが子履の目は本気でした。あれほど弱々しいと思っていた子履がここまで怒れるのかというくらい、本気でした。
あたしが馬車から離れて道を開けると任仲虺はすぐに降りてきて、あたしに向かってひざまずきます。行動には一瞬の淀みもなく、流れるようでした。
「えっ?えっ?」
あたしはたじろぎます。少なくともひざまずいている時点で、目下の人にする礼ではないです。この世界では立ったままやる礼を
任仲虺は両膝を地面につけたまま両手を合わせて、丁重に頭を下げてきます。
「申し訳ございません」
「い、いや、そんな」
慌てるあたしの手首を横から握って、子履が言います。
「少しは怒っていいのですよ?身分の差があるから遠慮しているのですか?」
「それは‥‥」
あたしも内心、及隶のことが心配でした。任仲虺が居眠りしたのに及隶が無事でいられたのは結果論でしかなく、任仲虺が寝ていたと知ってイラッとしたのは事実です。それだけ、この世界は治安が悪いのです。道端に骸骨が転がっているのが常識になっているのですから、命のために何でもやる人は少なくないでしょう。
「仲虺様、次から気をつけていただければ問題はございません」
「はい、気をつけます」
任仲虺は立ち上がると再び頭を下げて、馬車に入ります。あたしは気まずそうに、任仲虺の顔色をうかがいながら、向かいの席で及隶を膝に乗せて座ります。続いて趙旻があたしの隣に、子履が任仲虺の隣に座ります。
「‥‥ところで、仲虺様はどうして寝られたのでしょうか?」
馬車に揺られる中で、あたしはふとした疑問を聞いてみます。
「‥
「ゆうべは寝られたのですか?」
「はい、いつも通りに」
「何か病気でしょうか、定期的にそうなるとか」
「いいえ。初めての体験です。あれほど強い眠気は、わたくしも驚きました」
嘘を言っているようには見えません。すでに恥を忍んで平民のあたしに拝をしたのですから、これ以上嘘をつく理由が見当たりません。
「妙ですね‥」
子履も不思議そうに首を傾げます。
「
「平気っすよ。仲虺様がいきなり寝たからびっくりしたっす」
あれ‥?この及隶の声、どこかで聞いたような‥‥かすかに違和感はありましたが、まあ気のせいでしょう。
「よしよし、外には怖い人がいるから気をつけてね」
そうやってあたしは及隶の頭をなでてあげます。及隶は
するとふいに、子履があたしに話題を振ってきます。
「そういえば摯も呪文の詠唱が終わった後、しばらく眠っていましたね」
趙旻も思い出したように、手を叩きます。
「そうでした。あなたが寝ている間に土地が耕されたのですが、寝ながら魔法を使ったのですか?」
「えっ、そうだったのですね‥」
寝ている間のことなんて知りません。でもあたしが寝ている間に魔法を使ったと聞いて、ちょっと怖くなりました。
「夢でも見たのですか?」
任仲虺が、遠慮がちながらも興味深そうに聞いてきます。
「えっと、夢はないことはないのですが、ちょっと‥‥」
「隶は興味ないっす」
及隶はそう言って、あたしに脚をつかまれたまま、隣の趙旻の膝にうつぶせになります。むーっ。趙旻がまたあたしから及隶を取り上げて、抱いてなでなでします。むーっむーっ。
「話しにくいのでしたら、時を改めて‥」
「一人で抱えるのはよくないですよ、摯」
なぜか今は任仲虺よりも子履のほうが、興味深そうな目であたしを見つめています。これ、あれでしょうか。前に子履が言っていたと思うのですが、古代中国では予知夢が信じられていたというやつでしょうか。確かに昔は科学も発達していなかったのですから迷信にすがるのも不思議ではないですが、それにしても前世の記憶がある子履が一番聞きたそうにしているのは意外でした。
「‥分かりました、どちらで話しましょうか」
「今夜、私の部屋に来てください」
「分かりました」
その話はそれで終わりです。及隶はすでに隣の趙旻の膝に座ってしまっています。あたしがその頬をなでながら悶々していると、馬車は最後の目的地に止まりました。
◆ ◆ ◆
最後は子履の番です。
しかし、子履が祠と表現しただけあって、その廟はとても小さいものでした。見かけの門はあるものの、その向こうには部屋が1つしかなさそうなくらいとても狭い建物がありました。これでも前世の祠よりは大きいんですけどね。規模だけでしたら、前世日本の田舎の隅っこにある無人の小さな神社とあまり変わりません。
ここは数ある索冥を祀る廟のうちの1つらしいです。といってもけっこうさびれていますが。
しかし子履はあたしに何か指示も相談もすることなく、すこすこと歩いていきます。あたしも趙旻も任仲虺も、そして及隶もついてきます。
子履は奥の建物の手前で止まりました。どうやらここで魔法を使うようです。あたしたちは何歩か下がって、子履を見守ります。
ここはこんな見た目ですが廟です。子履は何度か
「シン・ド・チョウ・チョウ・ソウ・ベン・ミョウ・ペイ・テイ」
子履もあたしと同じように、呪文を間違えないように、索冥に伝わるようにはっきり大きく口を開けて発音しています。‥と思うと、子履の隣がぴかっと光ります。えっ、子履の隣?
これまで、失敗した趙旻ですらも、魔法はその使役者を中心に発動しました。なぜ子履だけ、そのそばを中心として魔法が発動するのでしょうか?それをあたしたちは興味津々に眺めていました。
やがて、その光から一匹の獣が姿を表しました。まるで鹿のような大きさと姿ですが、体は真っ白です。思った以上に小さいですが、あれが索冥でしょうか。ていうか神様があたしたちの前に直接姿を表すのでしょうか。
と思ったら、その索冥が細長い口を開きました。
「
子履は肩をこわばらせつつも、立ったまま返事します。ここで拝のために体を大きく動かしてしまうと、特別な訓練を積んだ人でない限り、魔力が続かなくなります。
「はい、私が使う
「金?汝は金の魔法を使うのか?」
「はい」
索冥は若干不思議そうにしていました。全知全能であろう神様があんな態度をとるなんて信じられないものでしたが、少し経って索冥はふっと姿を消します。その直後に、虚無から声が流れてきます。
「汝の属性は金ではない」
「えっ」
すでに風も光も収まっています。索冥がお帰りになったのでしょう。しかしそのあとには、呆然と立ち尽くす子履、そしてあたしたちがいました。
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