第250話 薛、滅ぶ(2)

任仲虺じんちゅうき高溥世こうふせいと槍を交わしながら、かすかな声で呪文を唱えていました。

この世界では、一騎打ちの時に魔法を使うのが習わしです。魔法は便利ですが、地形を変える、火の雨を降らせるなどのような、戦局を大きく変えるほどの強力な魔法はほぼ存在せず、あくまで自分の周囲だけを攻撃する程度の威力しかありません。戦闘で使われることもあまりありません。それでも一騎打ちにおいては重宝されます。

もちろん呪文を唱えながら、槍もきちんと操らなければいけません。


任仲虺は大きく息を吸います。

すいの魔法は、空中に媒体となる水分があります。しかし相手を攻撃する場合、それだけでは量が少なく、地下水を汲み上げるしかありません。まさにその地下水を大きい槍に変化させて突き上げる‥‥つもりだったのですが、魔法を発動したのに何も起きません。

槍を握って何歩か下がる任仲虺に、高溥世は地面を槍で叩いて高らかに笑います。


「お前は水の属性だろう。地下水を出そうとしていることはバレバレだ。だから上に抜け出せないように土を固めて、水を止めてやった。俺のの魔法でな」

「‥‥っ」


任仲虺は震える手で槍を構えて高溥世をにらみますが‥‥次の瞬間、くいっと体が高く押し出されます。「‥‥あっ」と、馬に乗っている任仲虺は身をのけぞらせました。自分の目の前にある馬の背中から、土の巨大な棘が、馬の血を帯びて伸びています。


「さあ、それで身動きはできないだろう」


高溥世はどんどんと、任仲虺の体を槍で突きます。任仲虺は必死で体をよじらせて避けますが、今にも落ちそうです。でも落ちるとまた‥‥いつの間にか、馬を貫通した大きな棘の周りには、いくつもの棘が生えています。あの中に落ちたら。必死で槍を交わしてはねのけますが、どうしてもバランスが崩れます。


「最初の威勢はどうした。ほらほら!」


遠慮なく次々と、任仲虺の身の周りを槍が突いてきます。


「あっ、あ‥」


急に馬がくらっと崩れ‥いえ、落ちたのは馬ではありません。棘自体が急に柔らかくなり崩れて、ただの砂に戻ります。しまった、これも敵の魔法‥‥かと思ったら、当の高溥世はぼっかりあっけにとられた顔をしていました。それがどうにも不気味ですが、馬も使えないので降りて逃げないと、と思って周りを見ると、そこに生えていたはずの棘も全部消えています。


地についた馬がくらっと倒れ始めます。任仲虺がジャンプしようとすると高溥世は「‥待て!」と我に返ったように、槍を突き始めます。


「俺の魔法が失敗したのか!?しかし‥」

「失敗ではないです」


と、あたしは地面から勢いよくぴょーんと出ました。

高溥世の馬の腹に、思いっきり頭突きしてやります。

馬の嗚咽が聞こえて、くらりとよろめくように倒れた頃に、あたしは地面から全身を現しました。「誰だ!」と高溥世が槍をあたしに向けます。本物の槍です。武器です。前世の元の親ですら、料理道具を神聖なものだと言っていたので、包丁をあたしに向けてきたことは一度もありません。怖いです。

でも今、高溥世と話していると、それだけで相手にとっての”時間稼ぎ”になります。あたしはさっと向きを変えて、倒れた馬のそばに立っていた任仲虺の手首を握ります。


「逃げましょう」

「‥さんだけが逃げてください」


いきなり現れたあたしを見て少し慌てているようでしたが、返事だけは落ち着いていました。


「黙れ。馬から逃げられると思ってるのか?」


高溥世が怒鳴りますが‥あたしは言います。「できます」


「本当に逃げられるんだな?」


そう言って、鞭で馬を叩きます。馬がいななきをあげて突っ込んできます。「摯さんだけでも‥」とあたしを突き放そうとする任仲虺を腕ごと引っ張って、あたしは地面の中に飛び込みます。

あたしにとって地面は海のようなものです。どんどん潜っていきます。泳ぐように、都市の方面へ進みます。


一方、地面の上に残った高溥世は、大穴の開けられている方向を見ます。


「追わないのか?」


そう副将が尋ねてきますが、高溥世は首を振ります。


「いや、俺が魔法で固めていた土をあいつはあっさり破りやがった。敵のことも分からんのに、むやみに追うことはない。それよりも昼休憩の時間だ」


馬を返していきます。


◆ ◆ ◆


午後になっていくらか経った頃、あたしは任仲虺と一緒に宮殿の廊下を歩いていました。

ここがせつの国の宮殿です。初めて来ます。窓から日が差し込んで、壁のあちこちにガラスをちりばめている廊下をきれいに照らします。それはもう幻想的でした。


「摯さんは土の魔法を使うことは知っていましたが、いきなり地面から現れるとびっくりしますよ」

「ごめんなさい」

「‥久しぶりですね、摯さん」


そうやって任仲虺がにっこりと、儚げに笑います。あたしも「久しぶりです」と返します。


大広間に入ります。薛の国の大広間はしょうより一回り小さいものでしたが、それでもしっかりときれいな絨毯がしかれています。家臣たちの顔ぶれは商のものと違います。当たり前ですが。普通の人は大広間に馴染みなどありませんが、普段から大広間を行き来しているあたしにとっては、友達の家に上がり込んできたような気持ちです。


玉座に座っている人の前まで来ると、あたしは丁寧にはいをします。いくら知り合いとはいえ、礼を欠かしてはいけないという世界なのです。任仲虺はその隣で、ゆっくりとゆうをします。


仲虺ちゅうき、外の様子はどうでしたか?それと、なぜ伊摯いしさんがここにいるのですか?」

「姉上、説明いたします」


玉座に座っているのは、任仲虺の姉にあたる任絶伯じんせっぱくでした。そうの国で会ったことがありますが、相変わらず綺麗でした。言ってしまえば、美人です。薛の国の王族はみんな美人で上品なのでしょうか、うちの子亘しせん子会しかいとは大違いですね‥‥あー、深く考えない考えない。


「まず、昨日からこのはいを取り囲んでいるの軍隊は、この薛の国を潰すためのものでした」


その任仲虺の言葉に、家臣たちが騒ぎ始めます。


「夏の軍隊は、姉上やわたくし、そして母上一族の首を求めています」

「それでは‥陽城ようじょうに行った母上は殺されたのですか?」

「それはまだ分かりませんが、一族全員処刑とのお達しが来ているようです。しかし、それにしてはあまりに兵士が多すぎるように見受けられました。なぜ多いのか聞いてみると、王族が身を隠して薛の住民の中に紛れるかもしれないからそれらも全てあらためるとの返事でした」


家臣たちはさらに騒ぎます。「静かにしてください」と透き通った声で呼びかけた任絶伯は、異様に落ち着いていました。これも上品なのでしょうか?いえ‥‥上品というには、何かが違います。


「夏の将は高溥世こうふせいです」

「高溥世といえば、夏の中でも実力者ではないですか」

「はい。距離を考えて、おそらく母上が陽城ようじょうに出発する少し前に、帝丘ていきゅうから軍をおこしたと思われます」

「夏のほうから、母上は湖を渡るようわざわざ道程まで指示されてましたが、そういうことだったのですね」


え、任仲虺の母‥‥薛王さまの任礼嬦じんれいちゅうも陽城に呼び出されていたのですか?子履しりと一緒に?

そのあとも任仲虺の報告は続きます。そして、あたしの話になります。


「‥‥と、高溥世と戦っている時に地面の中から現れて、高溥世の馬の腹に頭突きしたのです。逃げるときも、摯さんがわたくしを連れて地面の中を泳ぎました」


それを聞くと任絶伯は頭を抱えて、「‥‥確か、伊摯さんの属性は土でしたね?」と聞いてきます。


「土の属性でも、地面の中を潜れる人は聞いたことがありません。わたくしも属性は水ですので。そこの呉動ごどう、何か知っていますか?」


と、家臣に話しかけます。呉動という人もおそらく土の属性でしょうが、首を傾げています。


「聞いたことはありません」


あたしは思わず「えっ」と声を出してしまいます。あれ‥‥?

‥‥ああ、そういえば、土の中を泳ぐ魔法は子履が三年の喪で小屋に隠れていた時に及隶きゅうたいのアイデアで編み出したものでしたね、とあたしは思い出しました。ま、まあ、あたし魔法のことはよく分かりませんが、魔力には個人差があって人によって使えない魔法があるのでしょう、と自分を納得させました。

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