第249話 薛、滅ぶ(1)

なんだかんだでせつの国に到着したのは、あたしがはくってから2日目の午前でした。空の上から薛のあるはいの地を眺めていましたが、案の定、沛の市街を軍隊が取り囲んでいるのが見えました。の旗が見えます。位置的に、帝丘ていきゅうから来た軍隊でしょうか。

同時にあたしは背筋が凍ります。あたしは前世では軍隊や戦争というものには無縁でした。この世界に転生してからも、料理人という仕事柄のせいでしょうか、戦争を感じさせるものはあたしの身の回りにほとんどありませんでした。それがあるのです。眼の前にあるのです。実際に軍隊が1つの都市を取り囲んでいるのです。

そして、その沛の都市の中に、おそらくあたしの友人の任仲虺じんちゅうきがいます。及隶きゅうたいの言う通りにするなら、あたしはまず、これだけの軍隊の中から任仲虺を助け出さなければいけません。本物の軍を目の前にして恐怖はありますが、それでも何か考えないと。何か策を考えないと。震える手を握っていたところへ、竜があたしに話しかけてきます。


「すまないが、近くの山でお前たちを下ろす。これ以上沛に近づくことはできない」

「ええっ、どうしてですか?あたしには、あの中にいる友人が必要なのです。強い竜がいればとても助かります」

「俺も助けたいのはやまやまだが、薛と夏の戦いには介入するなと泰皇たいこう広萌こうぼう真人からきつく言われている。俺が姿を現して少しでも薛を助けるそぶりを見せたら、戦局が変わりかねない」


ああ‥‥そうか、この世界では竜は信仰の対象です。その竜が薛に味方するのなら、夏の将兵は一気に士気をなくします。あたしにとってはそっちのほうが都合がいいんですけど。


「でも、そこをなんとか‥‥!」

「駄目だ。広萌真人に逆らうことはできない」

「そんな‥」


竜はゆっくり、なるべく音を立てないように近くの山のはげたところにあたしたちを降ろします。「陽城ようじょうに向かう準備ができたら、またここに来い」と言い残して、飛び去ってしまいました。


どうしましょう‥‥。この山から見下ろして向こうには、夏の軍に囲まれた沛が見えます。


「どうしよう、あの中から仲虺ちゅうき様をお助けしないと‥‥」

「どうするんだ?」


後ろから姒臾じきが尋ねてきます。以前みたいに怒鳴るような口調ではなく、わりと中立的に様子をうかがう控えめな声でした。多分、今回の旅に子履しりが絡んでいると知ったら途端に声が大きくなるでしょう。

あたしはその軍隊を見て少し考えましたが、うつむくようにうなずいて、振り返ります。


「2人ともこの山で待てるでしょうか?あたし、の魔法で地面を掘って潜入するしか思いつきませんが、いまだに他の人と一緒に潜った経験がなく、しかもあれだけの距離も初めてなので、お二人を連れていける自信はありません」

「分かった」


姒臾はあっさりうなずきますが、嬀穣きじょうはぴくとも反応しません。


「嬀穣様、分かりましたか?」

「ひっ、あ、あ、あっ‥‥」

「もういい、こいつには俺から説明する。お前は急げ」

「‥分かった」


あたしは「それでは」と、道を走って山を降ります。木や草に囲まれた獣道でした。任仲虺をあそこから助け出さないと、子履の命はないんですよね。それは信じていいんですよね。

目を閉じるたびに、雪子ゆきこの姿が思い浮かびます。さらさらの髪の毛をしていた雪子。振り返るたびに、そのきれいな長い髪の毛が舞っていました。いじめからまもってあげたいと思うにはあまりに十分すぎるくらいに、その微笑みはどこか儚く、透き通った瞳はしっかりあたしを掴んでいました。


少し向こうの方に、夏の兵隊が見えました。あたしはここで、地面の中に飛び込みます。こんな距離を潜ったことはありません。前世でも、50メートル以上を一気に泳いだことはありません。それでも、あたしはひたすら泳ぎます。子履を助けたい。ここで少しでも休んでしまうと、あたしは絶対、一生後悔する。たったそれだけの執念で、今まで一度も挑戦したことも成功させたこともない魔法のために、あたしはひたすら魔力を突き込みます。


上の方で馬の音が聞こえます。まだ街には着いていないはずです。でも、後ろ側からだけでなく、前側からも馬の足音が近づいてきています。そして、わずかに人の声が聞こえてきます。これは‥‥女性の声です。任仲虺‥‥でしょうか?あたしの土を掘る手がぴたりと止まります。

様子を見たい。どうしましょう。そうだ、これくらいの深さなら木の根っこも届くことがあるので、近くに木がないか探してそこに隠れましょう。木はどのあたりでしょうか。ちょっと魔法で、周辺の土の中の気の流れを読んでみます。目を閉じて、小声で呪文を唱えて手に魔力を集中させます。‥‥ありました、右側に約30度、わりと近くの位置。そこまで潜って、木にたどり着くとあたしはぽこっと頭を出します。


茂みだったようで、近くにいる兵士はあたしに気づいていません。そして向こうの方では、一人の少女が馬に乗って、もう一方の馬に乗っている男と向かい合っていました。


「‥‥要求は何ですか?」


あ、やっぱり任仲虺の声です。だとするとあの男は、鎧をつけていることから見るからに、夏の軍隊の大将でしょうか。


「要求ではない。これは命令なのだ。薛伯は大逆罪を犯したので、一族すべて処刑である。我々は薛伯の家族を全て連れ出しに来たのだ」

「では、ここにいる大量の兵士たちは何ですか?」

「薛伯一家が一般市民に紛れている可能性もあるから、人民全員をあらためるために必要なのだ」

「そんなことを言って、人民に危害を加えるつもりですね。今すぐここから立ち去ってください」

「お前は夏に逆らうつもりなのか?」


少し向こうなので表情は見えませんが、任仲虺は答えるまでに少しの間を置いていました。


「一国を潰すのは一大事です。まず、陛下の礼状を見せてください。話はそれからです」

「たかが罪人になぜそのようなものを見せなければいけないんだ。小国の子供ことぎがいきりやがって」


うわ、なんだか険悪そうです。

相手は大量の軍事力をもって薛を脅しているのです。任仲虺が要求を飲まなければ、戦争になるのは確実でしょう。あたし、戦争なんて‥‥。

あたしと同じ学園に通って、同じ学年になって、友人として関わってきた任仲虺が、こんな状況でも堂々としていられるのがとても信じられないくらいです。


「そもそもお前は誰だ。名くらい名乗らんか」


ついに男が、任仲虺に槍を向けました。あたしはそれを遠巻きに見ているだけで恐怖します。


「わたくしは薛王が娘、仲虺ちゅうきです。あなたこそ名乗ってください」

「おう、一族か。手間が省ける。俺はこう溥世ふせい。あの風普ふうしんを討ち取ったものだ」(※第183話)


槍が交わされます。

あれ、戦いですよね。前世であった剣道のような、お互いの安全が前提の試合ではありません。本物の刃物を、相手を傷つけるために振り回しているのです。あたしは震えながらそれを眺めるしかできませんでした。


‥‥あれ?

あの高溥世こうふせいという男の乗っている馬の足元の土埃が、巻き起こるにしては不自然な動きをしています。規則正しく馬の足元をくるくる回っています。

高溥世、もしかして魔法の属性はですか?そして、任仲虺の属性はすいです。だとすると‥‥土は水につといいますから、水が不利です。


思い立った瞬間、あたしはもう一度土の中に潜っていました。懸命に泳いて、そこの真下まで一目散に向かいます。

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