第220話 虞の国の貴族に料理を出しました
ポテトチップを作っている途中、外側から物音と話し声が聞こえます。どうやら
「どれくらいでできそうですか?」
子履がキッチンの垂れ幕を少し開けて尋ねてきます。振り返ってあたしは‥思わず吹き出しそうになります。子履、メイド服を着ています。そりゃこの世界は建物こそ西洋風ですが、服は漢服だったり古代中国風なのです。何でこんなところにメイド服があるんでしょうか。この世界で見慣れない服装、そして子履があのメイド服を着ている。気がつくとあたしは子履とは反対側を向いていました。
「どれくらいでできそうですか?」
「‥‥‥‥あと10分もすればできます」
「わかりました、取りに来ますね」
そう言って子履は行ってしまいました。あの服のことをいろいろ聞きたいです。「はぁ」とあたしがため息をついたところで、
◆ ◆ ◆
一方の子履は、王族を応対していました。
それでも前世で短期間とはいえファミレスの店員としてつとめたことのある子履は、営業スマイルを心得ていました。内心はどうあれ、口のあたりさえ気をつけていれば表情は意外となんとかなるのです。
「
その客に聞こえないよう、子履はお盆で口を隠し、小声でぼやきます。メイド服も、控室にこういう服しかなかったので仕方なく着たのです。まったく、水着といいメイド服といい、漢服ばかりのこの世界に存在しないはずの服装がなぜあるのでしょうか。西洋風なのは建物や一部の食べ物だけでいいのに。と子履は言いたげでしたが、不自然に立ち止まっていると怪しまれます。
「お客様、お食事は10分で来るそうです」
「10分とは何かな?」
「あ‥‥もうしばらくかかります」
この世界に時間の単位が存在しないことを忘れていました。
どうせこの
「虞の国の王族とお聞きしましたが」
「ああ。役人をやっているよ。けっこう大変なんだ」
「虞王の叔はまだ子供だという噂を聞いておりましたが、
大丈夫という言葉に気を良くした男は、椅子にもたれてくすりと不気味に笑います。
「ああ、俺も言葉足らずだったようだ。
「なるほど」
子履にとってははなはだ紛らわしい言い方でした。こんな言い方さえしなければ、そもそも子履は壁を割ってキッチンへ飛び込んだりしなかったはずです。用は済みました。子履は今すぐにでもこの場を離れたい気分でしたが、料理がまだできですらいません。
「ところで」
と、その男が切り出しました。
「俺はあさって、この商の王に謁見する予定があるんだ。どうだ、すごいだろう」
「はい、すごいですね」
そういえばそんな予約が入っていましたね、と子履は思い出しました。すごいもなにも、子履自身がその王様本人です。同時にひとつまずいことを思い出しました。今ここで顔を見られたのです。子履は三年の喪の途中であり、本来なら小屋にこもっていなければいけない身です。それがこうして外を歩いてメイド服なんて着ていただけで、弱みになります。交渉内容が何であっても、これを弱みにされてはたまりません。何歩かすさって、うつむいてしまいます。
「どうした、どうした。こっちに来い」
「はい‥」
客に言われては仕方ありません。子履がもう一度近づくなり、男はその手首をつかみます。
「君、さっきから俺に色目を使っているだろう」
「いえ、そんなことは‥」
ここまで言って、子履は思い出しました。この世界に、中国に、愛想笑いなんて文化は存在しないのです。営業スマイルなんて存在しないのです。笑顔は本当に嬉しいとき、楽しいときにしか使いません。ましてや、こうして肆で知らない客に笑顔は論外なのです。前世のレストランの店員にすっかりなりきってしまったので意識から漏れてしまいました。子履が営業や仕事に関係なく目の前の男性に好意を持っていると、この男は勘違いしているのです。
「俺の女にならないか?俺も一応は王族なんだ。こんな肆なんかよりも、君を幸せにしてやれる」
「間に合っています」
今更愛想笑いをやめるわけにも行きませんが、少しだけ真顔に戻ります。しかし男はまだ、くいくいと引っ張ってきます。
「遠慮することはないんだ。それに君はかわいい。誰も反対しないだろう。それに俺なら、君を幸せにしてやれる」
「間に合っています」
しかし男は嫌がる子履の腕を強引に引っ張って、「遠慮することはないんだ。そんなふりふりかわいらしい服を着ている君が悪いんだ」と、くいっと近い距離から首を見上げます。子履は「やめて‥」と言おうとしましたが声が出ません。目の前にいる男の顔、気持ち悪い鼻息が伝わってきます。血の気が引きます。金縛りにあったかのように、恐怖で足がすくみます。
「はい。柿とポテトチップのクリームです。それと‥」
その2人の横から割って入って、あたしはすっとテーブルの上に皿を置きました。そして子履のもう片方の手首を掴むと、遠慮ない鋭い瞳で男を突き刺します。
「この子はあたしの女ですので」
と言うと、よろめく子履を強引に引っ張ってキッチンに入ります。「隶、代わりにお客様を見て」と言って及隶をキッチンから追い出してから、あたしはテーブルの椅子に子履を座らせます。約束破ってお客にあたしの顔を見せてしまいましたが、こればかりは仕方ないですよね。非常時ですよね。
「いろいろ聞きたいことはありますが‥とりあえずはお疲れさまでした。はい」
と、桃をカットしたものをいくつか、つまようじもつけて子履に差し出します。しかし子履の眼中にそれはありませんでした。
「な‥何ですか?」
子履がめっちゃあたしを見つめています。じーっと見ています。やめてください、恥ずかしいですよ。
「私は‥摯の女なのですね」
と言うと、頬を赤らめて少しうつむきました。
「あ‥あれは、その、あの場を片付けるために仕方なく言った言葉なので勘違いしないでくださいね」
「遠慮することはないのですね」
「やめてください」
あたしはぷいっと子履に背中を向けました。子履はしばらくなんか言ってましたが、途中で諦めたらしく、桃の咀嚼音が聞こえてくるようになりました。
桃‥そういえば、秋ももうすぐ終わるところですね。これからまた、険しく寒い冬が始まりそうです。客を帰らせた後で、左脚だけになった死体の後始末をどうするかまた子履と話し合わなければいけません。はすむかいにこの死体の親もいます。子履は三年の喪であまり目立てませんから、事務関係はほぼ全部あたしがやることになりそうですね。あたしは窓の外を眺めて、深いため息をつきました。
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