第273話 夏のことを相談しました

実は、子履しり商丘しょうきゅうに戻る時、伯の帰還を家臣たちに知らせるために馬車より先に帰った衛兵が、子履が夏台かだいに幽閉されていたことを一通り伝えてしまったようなのです。


子履が商丘をあけたのは3週間半ほどです。片道で1週間くらいかかりますし、帰りは近道であるはずの北ではなく南のほうから戻りました。陽城ようじょうへ行ったが何事もなく帰りにちょっと遠回りして友人に会いに行った、という言い訳もできるはずでした。しかしあたしたちが夏台のことを隠すべきか考える前に衛兵がしゃべってしまいましたので、そのせいで最近困っているのです。


あたしが竜を使って移動したことはみんな知りませんが、それでも子履が夏台に幽閉された直後にあたしが馬車で商丘を出発したのなら幽閉されたのは一週間だろう、という話になっています。竜を使っても使わなくても幽閉期間がほぼ一緒と思われちゃうのには驚きです。まあ、せつとか行きましたからね。


子履しり商丘しょうきゅうに戻ってから、朝廷では毎回のように同じ話題が出ていました。夏との関係をどうするかについてです。夏から亡命してきた家臣が大勢いることも、話をややこしくしているのです。


『陛下、夏に犯罪者扱いされたのに、それでも夏のために尽くすのでしょうか?』

『夏帝が今まで通り陛下を扱ってくれるとは到底思えません。必ず次に何か仕掛けてきます』

『夏帝はすでにいくつかの國を徳ではなく武力で制圧しています。この商もいずれそうなる運命でしょう』


思い出すだけでもいくつもいくつも上奏があり、大半の家臣たちはこうして強い懸念を示していました。そのたびに子履は、戦争は外交の最終手段ではなく決してすべきではないもの、万民を苦しめるものだという意思を伝えてきました。


この日も子履は態度を変えませんでした。


「少し後の時代になりますが、しゅう古公亶父ここうたんぽ(※姬発きはつ子受しじゅ殷紂いんちゅうを倒す殷周革命より前に周をおさめていたうちの1人で、姬発・姬昌きしょうの先祖にあたる。なお姜子牙きょうしが太公望たいこうぼうと呼ばれるが、この大公とは古公亶父をさす)は戎狄じゅうてき(※異民族。『史記』では薫育ぐんいくと書かれ、これは匈奴きょうどと同類とする説がある)が攻めてきた時に『領主は民の利益を考えるものであり、戎狄もそれは同じはずだ。民にとって領主はどちらでもいいはずだ。もし民が戦うのならそれは私の利益のためであり、戦争で人の親子を殺してしまえば私はもう領主でいられない』と言って戦いを避け退却しました。民を思うならここは別に夏の統治下にあってもいいはずで、無駄な争いは避けるべきです」


そう平然と言い放つ子履に、さすがの任仲虺じんちゅうきもテーブルを軽く叩きます。


「陛下は一体、陽城で何を見たのでしょうか。道は死体が埋め尽くし、建物には人がいません。人々は明日を考えることもできず、絶望に打ちひしがれています。対してこの商の國は、道はきれいに整備され、民が歌を歌い、周辺から有能な人材が集まり、ますます栄えているのです。両者の違いが領主によるものであることは誰が見ても明らかです。夏に従えと言ったら、商の民は激怒するでしょう」


任仲虺はテーブルを叩いて相手を威圧するような人ではありませんが、薛の國を滅ぼされ母と姉を殺された恨みがあるのは明らかです。それに、実はあたしも同感です。あたしも夏帝に恨みがあります。


「履様。あたしは夏帝に、この世界で一番大切な人間の体も心もぼろぼろにされました。人をあのように扱う人に、民の利益を考えるような政治ができるはずもありません。夏から亡命してきた臣はみな口を揃えて、『夏帝は妺喜ばっきが現れてからいっそう私利私欲に徹し、岐踵戎きしょうじゅう羊辛ようしんのような佞臣ねいしん(※主君に媚びを売る人)をそばに置き、諫臣かんしん(※主君をいさめる者)をことごとく殺し、妺喜以外にも多数の女に溺れ、宮殿を造り、民の死体を踏みつけながら歌を歌っている』と言っています。このような人に民を1人たりともすすんで譲ることはできません。もし夏が攻めてきた時に商の民が戦うなら、それは商人しょうじん(※商の國の人)自身のためです」


あたし、実をいうと、子履の戦争したくないという言葉には共感しています。あたしも戦争はしたくありませんが‥‥今はあくまで、戦争をしないという前提で、子履が変なことを言ったからつっこんでいるだけです。ですよね?

しかし任仲虺は、あたしより一歩進んだ考えを持っているようです。


「夏帝は陛下を釈放したばかりなので今すぐは口実を得られないにしても、必ず数年以内に軍を起こし、この商の國まで攻めてくるでしょう。陛下はみずからが悪竜を倒し、夏の賢臣を招き入れ、民を労役に行かせず温存したことを忘れたとはいいませんよね?夏帝は商の力を恐れ、潰しに来ます。商は他の國と同じような小国です。夏の臣がいくら知恵を振り絞って内政に励んでも富める人も兵士も少ないのは、そもそも総人口が少ないからです。周辺の國から移り住んできたとしても、それが耕せる土地も、住める場所もありません。今のまま夏と戦うと負け、民は皆殺しになります。それを回避するためには周囲の國を滅ぼして力をたくわえ、諸侯から朝貢ちょうこうを集める(※朝貢は従属する國への貢物。見返りに商が返礼ならびに諸侯に各地の自治を認めるものであり、商に従属する國を増やすことを意味する)しかないのです。これが商の生き残る唯一の道です」

「えっと‥あたしは確かに夏には従いたくないと言いましたけど、こちらから攻めるのではなく夏に贈り物をして穏便におさめたほうが、戦争の防止にもなりますし、商の民にとっては平和だと思うのです」

「今の状況でそれができるのは、商が十分な軍事力を持っている時に限ります。交渉は常に軍事力の上で行われるものです。現状、摯さんの言う交渉のための前提条件を満たしていないのは明らかです」


任仲虺の言葉にあたしが横から口を挟んでみましたが、任仲虺はすぐに言い返してきます。


「その軍事力を得るために他国を攻めるのは、それこそ無駄な殺傷です。なんとか夏の中に人脈を作り、内堀を先に崩してみる道を模索すべきです」

「陛下が学園時代にそれをなさっていましたよね。結局、人脈ができたと思った家臣たちのほとんどが商に寝返ったではありませんか。先祖代々仕えてきた夏に残る道を捨てて、わざわざ商に引っ越す意味を分かっていますか?(※この世界では先祖や主君には逆らってはいけないと根強く教育されている)」

「それでも‥」


あたしはとにかくしゃべります。そのたびに任仲虺が言い返します。子履へ進言するはずだったものは、いつのまにかあたしと任仲虺2人の言い合いになってしまいます。

しばらくしゃべっていたところで、あたしと任仲虺の間に座っていた子履がテーブルを叩いて立ち上がります。


「‥‥もういいです。とにかく私は、いっさいの戦争を起こしません。戦争は民を苦しめるものです」

「陛下!」

「もう当面この話をしないでください。何度言われても、戦争をしないという気持ちは変わりません」


子履は一方的に会話を打ち切って、食事室を出ていってしまいます。

‥‥あたし、子履が怒っているのを見るのは初めてかもしれません。

前世でも雪子はいじめられてばかりいて、怒るような人間ではありませんでした。


怒っているというのは、葛藤している証拠なのでしょうか。それとも、子履の親友である任仲虺が非常識なことを言いまくったせいなのでしょうか。


あたしたちは部屋に残されます。任仲虺が、2人しかいないのに小声で尋ねてきます。


「‥‥履さんと摯さんの前世では、戦争はどういうものでしたか?」

「日本にとって戦争は『ないのが当たり前』のものでした。それが長年続いていました。遠い国では起こっていましたけど」


あたしの返事を聞くと、任仲虺は「これはてこわそうですね」と頭を抱えます。

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