第36話 斟鄩学園入学式

「料理の時、姚不憺ようふたんを使いに出して及隶きゅうたいを呼び出しましたね?」

「は、はい」

「なぜその時、私も呼び出さなかったのですか?」

「えっ‥?」


あたしは目をぱちぱちさせます。子履しりはついさっきまで、あたしとただの友達程度の距離感を保っていたはずです。なぜここで子履を呼び出すのでしょうか?


「呼び出す必要がないと思いました‥」

「逆ですよ。私はの主人なのですから、摯が他の国の貴族とトラブルを起こした時は、私もその場へ赴く必要があります。もし私が多忙で行けないときでも、報告の一つでも寄越してほしいです」


恋愛関係なく真面目な話でした。よくよく考えればそのとおりなのですが、これまで子履には浮気や嫉妬以外で叱られた経験がなかったので、意外といえば意外でした。


「は、はい、分かりました、申し訳ございません」

「ふふ、分かればいいのですよ。次から気をつけてくださいね」


あたしは椅子に座ります。隣の姚不憺が声をかけてきます。


「ごめんなさい、僕も気が回りませんでした」

「いいえ、よう様は悪くありませんから」


あたしが取り繕ったところで、子履が平手でテーブルを小さく優しく叩きます。


「‥

「はい」

「‥‥次に姚不憺とお出かけする時は、私も誘ってくださいね」

「‥はい、分かりました」


子履は以前のようにべたべたくっつくことはなくなったものの、今でもあたしに嫉妬してくれています。それがなんだか嬉しくて、胸の中から嬉しさと安心感がこみ上げてきます。途端にあたしはそれが、姚不憺と2人でいたときは一度も感じなかった気持ちだったことに気づきます。あたしは目立たないように小刻みに首を横に振ります。


◆ ◆ ◆


建卯けんぼうの月になりました。繰り返すようですが、グレゴリオ暦では3月ですがこの世界の感覚では正月の翌月、2月です。

斟鄩しんしん学園の入学式です。親は國の仕事で忙しいのがほとんどですので、オペラ館のような立派で大きい建物に集められているのは、ほぼ学生、そして教師くらいです。斟鄩学園は1学年30人、2年制ですからかなり少ないです。國によって教育方針も違うので、2年間勉強したあとは國に戻って帝王学や経済学などを学ぶのが半ば慣習付けられています。


さて、斟鄩学園の運営にはの國も深く関わっています。入学式の最初に、夏帝直々に式辞を述べるそうです。夏帝の顔は見たことがないので、たいへん興味があります。子履は前世では酒乱だったと言っていましたが、実際はどうでしょう。前世の感覚ですと、千鳥足で来るイメージでしょうか。頭をネクタイで巻くのはさすがにないでしょうけど。まあ、いくら酒乱でもこのようなフォーマルな場ではさすがに最低限の礼儀はわきまえて来られるでしょう。

‥‥なんて思っていた時期があたしにもありました。


司会が「夏后陛下の式辞でございます」とアナウンスしてから少し経って、ステージの端から女の人がなぜか後ろ向きに歩きながら出てきました。貴族も貴族、並の貴族では着ないだろうと思うくらい立派できれいな服を着ていますが、何かを引っ張っているようです。


「うーい、酒だ、酒が足らんぞ!」

「入学式でございます、ご自重なさいますよう」


その女の人が引っ張っていたのは、黄色い服と冕冠べんかん(※古代中国の皇帝/公/王などが頭にかぶる、平らな板の前後にりゅうという数珠のような飾りを数本つけている帽子)をつけた、小太りの男性でした。頬は真っ赤になっていて口元は緩み、げだげだと下品に笑っています。

さらにその男性の後ろにももう1人の女性がいて、体を押してステージの真ん中に移動させようとしています。


「うーいっ!」


男性はべたっとステージ真ん中の卓に右肘を乗せますが、すぐ崩れ落ちてしまいます。控室から何人かの男が飛び出て、その男性を持ち上げます。

‥‥ん?なに?この男は乱入者でしょうか?男が卓の上に男性の両肘を置いてもたれさせて、ようやく姿勢を安定させます。


「陛下、陛下!斟鄩学園の入学式でございます。何か一言、おっしゃってください」


そうやっていさめる男の黒く上品な冠、漢服、どこかで見たような気がします。あごひげが見えたので思い出しました。この前行った飲食店で会った和晖かきです。本当に重臣だったのですね。

冕冠をつけた男‥‥信じたくはないですがこの人が夏の帝、のちに『はりつけ』の意味を持つ『けつ』王と呼ばれることになる夏后履癸かこうりき(※夏后は氏。姓は)らしいです。酒乱とは聞いていましたが、想像の遥か斜め上を行きますね。入学式に来てまで酒を飲みながら2人の女性を侍らせるなんて、普通にドン引きです。

周囲をちらりと見回しても、他の学生たちもあっけにとられている様子です。あたしの左隣、列の端に座る妺喜ばっきは笑いをこらえている様子でした。右隣りには知らない人が座っていますが、苦虫を噛み締めたような表情をしていました。

履癸は何度も卓を叩いて、それから叫び怒鳴るように言います。


「お前らあああああ、おめっ、おめごん、で、とおおおおおお!!!!!!」


ろれつ回ってませんね。


「終わりいいいいいいい!!!!!!」


そうやって、2人の女性に支えられながらふらふらよたよたとステージを後にしました。

卓に残った和晖は、学生たちが沈黙したのを見ると、こほんと咳払いをしてから挨拶を始めます。


「‥‥私は陛下の家臣で、姓を、名をと申します。陛下が申し上げ忘れたことがあるようでございますので、私が代わりに読み上げます。えー、本年も梅の花の咲く季節に‥‥」


そのあとの和晖のスピーチはまともに見えましたが、その前の履癸がひどすぎて内容が頭に入りません。呆然としたまま、その入学式は終わってしまいました。

学生たちが席を立ち雑談をしながらホールを出ていくかたわら、あたしは少し離れた席に座っていた子履のところへ行って、小声で尋ねました。


「‥‥本当にあの帝で夏は滅ばないのですか‥‥?」

「小声とはいえ人がいるところですよ」

「あ、すみません」

「といっても、周りの人たちはみんな行っちゃいましたけどね」


子履はそう前置きしてから、ふうっとため息をつきます。


「‥‥大丈夫ですよ。世襲の王を立派な家臣が支えていれば問題はないはずです。かん(※前漢ぜんかん)の劉邦りゅうほうは1人ではただの酒飲みで堕落したどうしようもない男でしたが、蕭何しょうか韓信かんしん張良ちょうりょう陳平ちんぺいなどの優れた臣を味方につけたことで嬴子嬰えいしえい(※しんの最後の王)と項籍こうせき(※項羽こうう)を倒し、中華統一という偉業を成し遂げました。また、ほかにも五胡十六国ごこじゅうろっこく時代のしん(※前秦ぜんしん)の苻堅ふけん王猛おうもう、春秋時代にせい桓公かんこう管夷吾かんいご(※管仲かんちゅう)などがいて、それぞれ王は名君とうたわれています。この2人の共通点は、賢臣亡き後に王が迷走したため国を大きく傾かせ、王単独で治世した時の無能さが示されていることですが、それでも賢臣在りし時の功績は変わりません。王が王たりえるためには、王自身が必ずしも完璧な人である必要はなく、優れた家臣を登用し用いることが大切です。今、夏には和晖、そして關龍逢かんりゅうほうなど優れた家臣が多く残っていますので、彼らが健在である限り夏が滅ぶことはありませんよ。私も商王に即位の暁には、陰からそのような賢臣の活動を支援させていただくつもりです」


なるほど‥中国史のことはよく分かりませんが子履には子履なりの、あんな王様のもとでも夏を浮揚させるビジョンを持っているようです。それなら、あたしにできるのは子履を信用することです。


「それでも王が至らなかった場合の最後の手段のひとつとして、西周せいしゅう(※殷周革命によって姫発きはつが立ち上げた王朝。幽王ゆうおうの代まで続き、そのあとは東周とうしゅうとなり春秋時代が始まった)で行われたという共和きょうわも考えられます(※現代で用いられる共和制とは意味が異なる。ただし共和制の語源とする説がある)。他にも歴史上、重要な手段はいくつかありますよ」

「‥大丈夫みたいですね」

「はい。夏はきっと私が支えてみせます」


そうはっきりした口調で言う子履は頼もしく、心強く見えました。

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