第138話 もう一度索冥のところへ(2)
「とと、どうしましたか」
ついバランスを崩したあたしを任仲虺がすかさず支えて、子履がささやくような小声で言ってきます。
「場所と用事は伝えないでください」
「なぜ‥‥?」
「馬車の中で説明します」
その場で知りたかったのですが、子履のことですから説明すると長くなるのでしょう。あたしは羊玄のところに戻ると、手を合わせて頭を下げます。
「‥東の
「ああ、個人的な用事か。邪魔したな」
「はい」
少し雑めに挨拶してから、馬車に乗り込みます。
玄関から道に出て車輪がかららと動きだしたのを後ろからしばらく眺めていた羊玄は、「これ」と言って使用人を2人呼び出します。
「あやつらを、特に子履を尾行せよ」
「はい」
2人はすぐに馬車を追いかけ始めます。羊玄は馬車が見えなくなるまで、ずっとそれを目で追い続けていました。
◆ ◆ ◆
一方、馬車の中で、あたしはちゃっかり隣に座ってきた子履に尋ねます。
「
「私も索冥と初めて出会った時は混乱してすぐに思い出せなかったのですが‥索冥は
「確かに‥今の世の中は泰平とはいえません」
「そうです。そこで私もこの世界の本を調べましたが、その内容は前世で知られていたことと
「あっ」
前世とかこの世界とかいう言葉を使って、これ任仲虺も聞いてますよ。あたしは子履の手を握って、ちらっと任仲虺を見ます。任仲虺は
「仲虺様にも聞こえますよ」
「‥そうですね。教えてくださりありがとうございます」
「ところで、なぜこのことを羊玄様に教えてはいけないのですか?」
「私が
「ええ、麒麟と会っただけで?」
「はい」
あたしと子履の間にかすかな沈黙が流れます。子履はそれから、ふうと息を吐きました。この世界で歯を磨いているのはあたしと子履の2人だけなので、子履の吐息だけは間近にいても安心して見ていられるものです。
「考えてみてください。夏は、
子履の言うことは理解できました。しかし
「それは、履様が夏に家臣として仕えれば済む話なのでは?」
「もう仕えていますよ。やっていることは独立勢力のようなものですが、名目上は方伯という位をもらって、
「商の国を棄てて斟鄩の宮殿に仕えるという選択肢はないのでしょうか?」
「‥別の言葉に言い換えましょう。古来より、この世界には『天命』という言葉が存在します。為政者は天命によって、簡単に言うと神様によって指名されるというものです。周の時代に誕生した『天子』という言葉もこれに基づいていて、『王になるべきであると天に指名された人が、王の子として生まれた』という思想を反映しています。今の夏王さまも前王の子として生まれたのならそれは天命であって、王にふさわしい性格と頭脳を兼ね備えているべきです。しかし現実にそうはならず、そして不思議なことに、商の王になるべくして生まれた子が徳を持っているかもしれないのです。私は夏の直轄の家臣でも、まして夏の国の人間ですらなく、そして
あたしの腰には、いつの間にか及隶が乗っていました。無意識にその頭をなでていたあたしは、子履の説明が終わった後も呆然としていました。しばらくその髪をなでていて、そして馬車の右と左の両方から川が見えるのに気づきます。きっと目的地は近いのでしょう。
「‥履様はこれからどうするおつもりですか?夏に反乱は?」
ずっと前にも聞いたような気がしますが、子履もきっと索冥について思うところがあるのでしょう。すると子履は思った以上に素早く返事します。
「仮に私が聖獣とまみえることができる立場だとしても、夏への従属は変わりません。戦争の回避が絶対目標です」
「‥‥で、ですよね‥」
そう答えつつも、なぜかどこかで安堵できないあたしに気づきます。心のなかで何かが引っかかっていて取れなくて。信じているつもりなのになぜか信じられなくて。子履のことを疑っているわけでもないのに、嘘を言われているような気がして。もやもやした気持ち悪さがありました。
◆ ◆ ◆
日が傾いていました。1学期の課題のときはずいぶんと朝早くから出発していましたが、夏至近くだったというのもあるでしょう。今は秋ですから、日没もあの時よりは早いです。このぶんだと、寮に帰る時は夜になっているでしょう。
例の
と思ったら、また子履の目の前に白い光が現れ、閃光とともに、大きいとはいえませんが真っ白な麒麟が現れます。
<また会ったな。今度は何の用だ?>
相変わらず超常的な現象なのに、この時はあたしも任仲虺も風の中で冷静に立てている気がします。魔法も前世の感覚からすれば超常的ですけど、神様が人前に姿を表すということはさすがにこの世界でもありえないと思われているようです。
子履も今回は、堂々と答えます。
「はい。
<それは
「光の魔法の本をかき集めましたが、そのようなものはありませんでした」
<馬鹿な‥‥
索冥は少しのあいだ首をひねっていましたが、やがて台の上に供えてあった餅を口に咥えます。食べかけの餅を皿に置くと、<面倒な説明をもう一度せねばならぬとはな>とため息をついて子履を振り向いて答えます。
<『願い』だ>
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