第161話 襲撃の日の朝

あたしたちが寮に帰ったかと思ったら、建物に入る前に及隶きゅうたいが飛び出してきました。


「おかえりっす!」

たい、ただいま。待ってくれてたの?」

「センパイがいなくて寂しかったっす!」


と言って及隶はいきなりあたしに抱きつきます。頬をこすりつけてきます。うわ、くすぐったいよ。そんなに長いこといなくなったわけでもないのに。頭を撫でようとしましたが、はっと気づいて手を止めてちらっと隣の子履しりを見ます。何事もないようにほほえんでいましたので、あたしは及隶の頭をなでます。


「寂しかった?よしよし」


と思ったら、及隶があたしを抱きながらいきなり変な話題を振ってきます。


「‥センパイ、三尸さんしという虫は知ってるっすか?」

「‥‥え、三尸?聞いたことないな」

庚申こうしんの日(※庚申は十干、十二支を組み合わせた干支えとという暦の上の用語で、この場合は60日に1日めぐってくる日をいう)に体から抜け出して、天帝に罪を報告する虫っす。たいがとってあげるっす」


と言うと及隶はあたしの体を抱いて抱いてぎゅっと絞ります。絞るほど抱くといっても幼女の力ですから、かわいらしいものです。‥‥「ああっ!?」急にあたしの体に一瞬だけ電流が流れる感じがします。

及隶はここでやっとあたしから離れて、笑顔満面で言います。


「三尸は隶がとってあげたっす」

「あ、ああ、ありがとう‥」


一体何をしたんでしょう、と思ったら及隶が今度は子履に抱きつきます。


「お嬢様の三尸もとってあげるっす!」


あれ、ああ、及隶って今まで子履を抱いたことはなかったですよね。平民と王族の関係ですから、触っちゃいけない関係です。あたしがあせって「待って‥」と言いますが、子履は笑って及隶の頭を撫でながら「将来結婚するのですから、の周りの人間とも仲良くならなければいけませんね」と言います。あたしは止める気も失せて「ああ‥‥」と苦笑いします。こんなときでもそれを考えるんですか。末恐ろしいよ、ある意味末恐ろしいよ。

と思うと子履が「あうっ」と変な声を出します。及隶が離れると、あたしはすぐさま子履の肩を両手で掴んで「大丈夫ですか?」と尋ねます。


「大丈夫です‥よ‥‥」


と返事してから子履は一瞬で顔を赤くして、肩をすくめてあたしから離れます。ほてるような頬を手で覆い隠して、あたしを見てぷるぷる震えてます。

あたしと近づくのが恥ずかしいっていうの、まだ続いてたんですね。その様子を見てると、なんだかあたしまで胸が高鳴りして、いてもたってもいられないような気持ちになります。


「‥入りましょう」

「そ、そうですね‥」


子履は目を伏せて、あたしの後ろについてきます。かわいいです。

なんだかこの前、あたしが子履から逃げてげんまで行ったのが嘘みたいに、こうして子履が近くにいるだけでわくわくして、感動して、心地よくて。


‥‥あれ、何か忘れてたような気が。ああ、勝手に子履に抱きついた及隶を叱っておかないと。‥‥後でいいか。もう少し子履の近くにいたいです。


◆ ◆ ◆


一方で玄関の外に残った及隶は、周りに誰も居ないのを確認すると、わきにある林の茂みに入り込みます。そこに現れた、体が真っ白にわずかに光る索冥さくめいに、及隶は尋ねます。


「報告通り、虫がいた」


<やはりか>


と、索冥はため息をつきます。


「あいつらは楡罔ゆもう(※最後の三皇である神農しんのうの子孫(炎帝の子孫)が中華を治めていたが、その8代目。黄帝こうてい蚩尤しゆうを倒すよう依頼したがその功を認めなかったため、阪泉はんせんの戦いで黄帝に敗れた)、商均しょうきん(※は商均に帝位を譲ろうとしたが、結局みずからが帝となりを創った)、えき(※禹は益を後継者にしようとしたが、益は禹の子にあたるけいに帝位を譲り、ここに夏の世襲が始まった)から何も学んでいないのか」


<そのようだ>


「他に何かあったか」


<ああ。2つある。明日竜が来ることをばらしやがった>


「‥‥いや、それは天帝の想定の範囲内だろう。遅かれ早かれ知る運命だった」


<そして、あの2人の近くに泰皇たいこうがいることをばらした>


及隶の眉毛がぴくっと動きます。「そうか」とだけ答えて、索冥に背を向けます。索冥の気配が消えると、及隶は林から出ます。寮の玄関の反対側です。そして日が沈み赤くなった西の空を仰ぎます。


「‥‥『センパイ』はこんな『隶』を受け入れてくれるのだろうか」


その顔はどこか寂しけで、目は少しうるんでいて、涙は空の光を粉々に砕いていました。


◆ ◆ ◆


翌朝になりました。あたしは部屋に勝手に入ってきた子履に起こされ、着替えさせられ、早めの朝食を終えてから寮を出ます。


「昨日三皇の廟で聞いたこと、本当に信じるんですか?」

「本当であれば夏の危機です。実際、兵隊もたくさん出回っているので王宮もこの情報をなにかの手段で掴んでいるのでしょう。たかが竜と侮ってはいけません。前世では悪竜が災いをもたらすような創作も多かったですが本来の竜は神獣のひとつで、権力の象徴であるのと同時に、姿をあらわしたり力を使ったりすることは吉兆でもあります。そんな竜が夏を害するのであれば、それこそ夏の徳が地に落ちたということです。攻撃そのものだけでなく、そのあと長年続くであろう権威の低下を心配します」

「でも仮に竜が来たとして、何かできることはあるのですか?」


竜の力は強大ですし、いくら子履がこうの魔力を持っているとはいえそれが使えない状態ではどうしようもありません。むしろ避難したほうがいいんじゃないですか。


「説得して追い返します」

「はい、履様。寮に戻って頭冷やしましょうか」


勝手に歩いて行く子履を見ながら、あたしは立ち止まります。子履は不満そうに頬を膨らませて、振り返ります。


「私は大丈夫です。れてません。私は光の魔力を持っていますから、神々には徳のある人と見なされているでしょう。徳を利用してでも、説得すべきでしょう」

「その魔力も使えないですよね。使えない理由も、間違った道を歩いているからですよね」

「それは神様が間違っているんです」


と言って子履は腕を組みます。あ、これだめなやつだ。ま、まあ、竜もさすがに子履を殺すようなことはしないと思いますが、危険な目にあうのは確かです。


「外には兵士も多いでしょうし、一回頭冷やしましょうか。お菓子ならありますよ」

「冷やかすならよそでやってくれませんか」


と言って子履は歩き出します。うわ、やる気だよ。子履に何かあったら困りますから、あたしもついていかないわけにはいきません。


「せめて仲虺ちゅうき様をお呼びしましょう、えっと、ほら、履様もいつもアドバイスとかもらってますよね」


子履はしばらく立ち止まってから「早く呼んでください」と言ったので、あたしは寮に向かって一目散に走り出します。まったく、一体何を考えているのでしょうかね。

任仲虺じんちゅうきには「急用ができたので一緒に来てほしい」と言いました。竜のことは言いませんでした。ちなみに及隶も一緒に行きたがってましたが全力で止めました。及隶はぷーぷー言いながらベッドで転がっていました。ごめんね。でもかわいいです。

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