第308話 葛の掌握

暗殺はうまくいったようですがそのあと、誰が葛伯の代理として商と戦うかが決まらなかったのです。葛伯の子はいませんし、たいていの家臣は葛伯の素行をよく思っていませんでしたからことごとく固辞し、お気に入りの護衛にいたっては学がなく政治のことなど何も分からなかったので家臣たちに猛反対されました。

なによりこの葛へ攻めてきている商伯子履は、こんな葛なんかと違って善政をしいています。わざわざ戦う理由はあるのでしょうか、と。


「と、それで戦意消失したわけですね」

「はい。トップのいない組織は、なかなかもろいものですよ」


あたしと子履は護衛に囲まれながら、葛の宮殿に入ります。一応、まだ葛を守るために抵抗する人がいるかもしれないので、兵士たちの捜索はまだ続いていますが、それにも一区切りがついているのでこうして宮殿に入ってみたわけです。

贅沢をしていたのは葛伯とその周辺だけだったようで、宮殿とされる2階建ての洋館のような建物は、商のものと大差ありませんでした。少し汚れていますが、掃除が行き届かなかったのでしょうか。


「前世では、劉邦りゅうほう咸陽かんよう(※しんの首都)を落とした時、宮女や財産に手を付けずそのままにしたという話がありましたが、ここにはそれすらないようですね」


子履がぼやいているとおり、宮殿の装飾は質素でしたし、宝物庫もすかすかでした。このぶんでは、食料庫の中身も知れたものでしょう。もっともあの民の様子を見ていると、食料庫の中身くらい大体察しが付くんですが。

あたしたちには任仲虺、徐範が同行していましたが、そのうちの徐範が話し始めました。


「さて、葛を掌握しましたし、陛下には人事を行っていただきませんと」

「人事ですか?」


思わずあたしが尋ねてしまいました。戦争で勝ったあとに人事って、あまりぴんときません。すると子履が説明してきました。


「戦争で都市を支配したあと、そこは誰も統治していない状態になります。名目上は私の直轄領ということになりますけど、しゅがいないと警察や文官管理など内政が行き届かなくなります。なので、私の代わりにここを統治してくれる人を決めなければいけないのです」

「でも‥今更ですが、ここは夏が葛伯に与えたものであって、葛が滅んでもその土地は夏に返さなければいけないんじゃないですか?」

「普通ならそうですね。でも、商はこの土地を手に入れないと夏が攻めてきたときの防衛すらままならないうえに、夏はいま各地の反乱を鎮圧している最中です。私が夏の忠臣として葛に善政を施し夏の威光を高めると誓って諸侯を味方につければ、夏もこちらへ攻め込みにくくなるでしょう」

「なるほど‥」


説明と質問が終わったところで、徐範が話を戻してきます。


「それで、この葛の守はどなたになさいますか?」

「そうですね。おもえばせつの國は、一國を統治できるほど能力の高い家臣が多いにかかわらず、夏から亡命してきた家臣に席を奪われて、ことごとく飼い殺しています。薛の人をここに移そうと思います。そして新しい守は、仲虺ちゅうき、どうでしょうか?」

「わたくしが‥」


振り返った子履は、任仲虺と目を合わせてにっこり笑います。


「‥‥ですがわたくしは夏に罪を着せられている身です。あまり目立つことはできません」

「それでは、名簿のうえでは別の人を用意しましょう。薛の人の中で、信頼できる人はいますか?」

「それなら呉動ごどうです。薛で宰相をしておりました」

「呉動を守にしましょう。実際に玉座に座るのはどちらでも構いません」

「ありがとうございます」


任仲虺は深々と頭を下げます。これで当面のことは決まりました。あとは‥‥。


◆ ◆ ◆


あたしたちは後宮に入りました。宮殿とは裏腹に、建物の外側には大きな彫刻、内側には黄金の壺やきれいな絵画がいくつも飾られていました。


「国力に見合わない宝物ですね。売って食べ物に換えてしまうのがいいですね」

「わたくしもそう思います」


子履と任仲虺がそう意見を合わせていたところで、一行は1階の奥へ奥へと進みます。このあたりは装飾も少なく、普段平民が使っているような区域のようでした。あたしも商で料理人をしていたので分かります。豪華な屋敷にはふさわしくない木の扉、汚れのついている扉、モップなどが見えてきます。その一室の前で、あたしたちは立ち止まりました。


「汚いところですね‥‥」

「しっ!伊様が毎日おられるようなところですぞ」


任仲虺がこぼして、徐範に注意されていました。うん、聞こえてますよ。‥‥あたしは最近料理をしていなかったことを思い出して、また心がじんじんとしみます。

そのドアを開けてみます。錫やホコリで黒く汚れた壁に囲まれたその狭い部屋には、木の粗末なテーブルに、ぼろぼろの椅子が10脚。脚が欠けているものもあります。机の上には、食べかす、布切れなどごみが散乱しています。


「‥履様のご希望でこの部屋に来ましたが、一体何をしたいのでしょうか?」

「私はこれから、葛の家臣、そしてあの10人の処遇を決めなければいけません。その前に一度、あの人たちが住んでいたところを見たかったのです。葛伯を殺すのは気の毒ですが、それでも女として許せないことを、あの人はしましたから」


その子履の横顔は、りんとしたものでした。目をそむけることなく、子履はそれらの1つ1つをしっかり見ています。

あたしは姒臾じきのことを思い出しました。姒臾は子履に暴力を振るっていました。あたしを殺そうとしました。女として‥人間として許せない相手です。最近、あたしの中での姒臾は骨抜きになっちゃってますけど、それでも子履にとって姒臾のことはまだ許せないのでしょう。


◆ ◆ ◆


その翌日。葛の宮殿にもう一度入って、大広間にその人たちを通しました。大広間は兵士たちが掃除していたのか、昨日ほど汚れていませんでした。

葛から商に降伏してきた家臣たちから政治について話を聞いてみましたが、どれも凡庸な人でした。今までなあなあで流れ作業として領土の運営をしてきた、どこにでもいる普通のおじさんという感じでした。


「あの人たちにも士大夫として俸祿を払わなければいけないんですよね‥‥」


葛の家臣たちは結局、降伏している以上登用しなければいけない流れでした。葛の家臣たちが大広間を出ていってしまったあとで、子履はついぼやいてしまいます。


「それでは、特に能力の低い人を追放するのはどうでしょうか」


任仲虺が提案しますが、それに徐範が待ったをかけます。


「それは今後、いらぬ禍根を残すことになります。判断は慎重にお願いします」

「そうですね‥仲虺、面倒事を押し付けるようで申し訳ないですが、あの人たちの取り扱いをお願いします」

「承知しました」


と、任仲虺が頭を下げました。


そのあと、また大広間のドアが開いて、何人かの兵士たちに囲まれ、10人の少女が入ってきました。どれもあたしがあらかじめ指示したとおり、洗濯したばかりの庶民の服を着ていました。ただ、長い間葛伯に付き添っていたこともあり、ある程度の礼儀作法は身につけているようです。子履の近くまで来ると、はいをして深く頭を下げました。


「あなたたちは長い間、葛伯のもとで苦しんでいました。そのお詫び代わりとして、少ないですがお金を持たせて家の手配をします」


そう子履が言うと9人は頭を下げますが、1人だけが顔を上げて、背筋を立てて正座していました。それを見た子履は尋ねます。


「なにか言いたいことがありますか?」

「私は謹姞きっきつと申すものです。私は葛伯暗殺の現場に居合わせました。葛伯のきさきである燿嬴ようえいさまは、私が暗殺の共犯だと思われないように取り計らっていただき、そのあと殺されました。私の分のお金はいりませんので、どうかそれで燿嬴さまをまつってください」

「そんなことが‥‥分かりました。必ず祀りましょう」

「ありがとうございます。それから、もう1つお尋ねしたいことがあります」

「何ですか?」


子履がそう尋ねると、その燿嬴という少女はすぐに答えることもせず、しんと静かになります。重い質問であることはなんとなく察しがつきました。間をおいて、燿嬴はまた口を開きました。


「単刀直入にお尋ねします。私たちの親は生きていますか?」

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