第295話 里帰りしました(3)

さて、これから姒臾じきに会いに行きます。昔の知人を訪ねるような‥‥とはいかないみたいです。公族の住む後宮は宮殿を取り囲む壁の中にあるのですが、まずその壁を越えられません。門で衛兵に止められます。


「誰だ、何の用で来た」


ああー‥‥あたし、しんを離れて何年経ったんでしたっけ。最初に子履しりと会って商丘しょうきゅうへ連れ出されたのを1年目とすると、2年目に学園に入って、3~5年目に子履の三年の喪があって、6年目の最初に夏台があって、いま6年目じゃないですか。もう6年ですか。今更すぎますが思い出しました。そりゃあたしの顔を知ってる衛兵もいないですし、そもそもあたし今は外国人なのでこういう扱いを受けても致し方ないところがあります。うう、ふるさとなんだけどな。


「姒臾さまに、伊摯いしが参ったと伝えて下さい」

「面識はあるのか?」

「はい、6年前にここで‥‥お会いしました」


話がややこしくなりそうなので、料理をしてましたとは伝えませんでした。衛兵は「少し待ってろ」と言って、門の中に消えます。しばらくたって戻ってきた衛兵は、あたしに告げました。


「公子さまはご病気だ。代わりに弟の姒渙じかんさまがお会いになってくれる」

「わかりました」


病気というのは、まあ、仮病ですね。あたしは以前姒臾に厳しいことを言ってしまいましたし、姒臾ももしかしたらそれを気にしているのかもしれないです。

姒臾もなつかしいですが、その弟の姒渙もなつかしいです。姒渙はあたしと同じくらいの年齢でしたね。6年前の姒渙はあたしよりちょっと背が高かったくらいだと思います。


姒臾は料理の仕事を手紙ひとつでいきなりやめたので、お別れの言葉も言えていません。姒臾には恨みもありますが、同じ職場の上司として一言挨拶したかったのです。それすらできないのは複雑ですが、まあ、仕方のないことだと割り切ります。


客間で及隶きゅうたいと一緒に「なつかしいね」などと話していました。出された紅茶も、あたし以外の人がいれるようになったようです。当たり前ですけど。味はちょっと変わってますね。茶葉に漬けすぎですね。


「厨房にいたあたしの後輩の子どもたちは商に連れて行ってしまったけど、先輩の料理人たちはここに残ったんだよね。まだここで働いてるかなあ」

「会って思い出話したいっすね」

「姒渙さまならあたしが6年前に料理をしていたことも知っておいでだし、会わせてもらえそうだね‥‥あっ、でも6年もあれば料理人入れ替わってるかもしれないなあ‥‥」

「たった6年だしそれはないっすよ」

「そうかなあ‥‥」


なんていう話をしているとドアが開き、姒渙が入ってきます。あたしたちは立ち上がって礼をしますが‥‥姒渙はあたしに深々と頭を下げます。


「お久しぶりでございます、伊摯様」

「こちらこそお久しぶりです、姒渙さま」


そう言ってあたしは顔を上げて‥‥「あっ」と一瞬声に出します。あたしがここで料理をしていた時に公子には何度も会いましたが、姒臾のほうが一番イケメンで丁寧で律儀な人だと思っていました。しかし、姒臾ほどではありませんが姒渙もやっぱり顔立ちがいいです。年ごろまで成長した今なら、その美しい顔がいっそう引き立ちます。

最近の姒臾は職場の後輩だと思っていたので、顔はそこまでじっくり見ていなかったです。あたしの記憶通りですと、姒臾はこの姒渙よりもイケメンだったはずです。もし姒臾がイケメンで人当たりも良ければ、子履しりはあたしではなく姒臾にベタ惚れしてしまう未来もあったのでしょうか。


「どうぞ、おかけください」

「はい」


ひととおり時節の挨拶を済ませた後、姒渙が礼儀正しくこう切り出してきました。


「ここまではるばるご足労いただいたのに、兄上がお会いできず申し訳ございません」

「いえいえ、ご病気でしたら仕方のないことです。その‥‥姒臾さまの最近の様子をお伺いしても?」


姒渙は何度か目をぱちくりさせます。あれ、あたしがこの質問をするのって変ですか?


「‥兄上が商伯にご迷惑をおかけしていたとお聞きしました。その‥処罰をご希望なのでしょうか?」

「いいえ、めっそうもありません。あたしはただ、姒臾さまにはお世話になっていたので様子をお伺いに来ただけです」

「お世話になった、とは?」

「あー‥‥あの、姒臾さまが商へ料理人として働きに来られたことはご存知ですか?」

「はい、存じ上げております」

「その厨房の料理長があたしです」


あたしは姒渙に、姒臾の働きぶり、そして突然手紙を置いて失踪したことを説明しました。とりあえず姒臾がこの莘に戻ってしっかりした生活を送っているのなら、それで構わないです。


「‥‥というような経緯ですが」

「ふむ‥それはそれは、兄上がご迷惑をおかけしました。普段は理性的ですが、商伯のことになると無鉄砲になるところがございまして‥‥」

「それはとてもわかります。それで、最近はどのようなご様子でしょうか?元気に動き回っておいででしょうか?」


あたしの質問に、姒渙は困ったように眉を動かします。


「‥‥それが」

「あっ、話しにくいのでしたら‥」

「‥‥家督は私に譲ると言いだして、最近は特に武術の稽古に励んでおいでです」


商まで働きに来ていましたが、一応は姒臾が家督を受け継ぐ予定だったのですね。


「姒臾さまが跡継ぎになる予定だったのですね」

「ええ‥熱心に励んでおられる兄上のほうが家督にふさわしいと私も父上も何度か説得しましたが、全く聞く耳も持たず‥‥代わりに私が勉学に励んでおりますが、父上は、兄上が継がないなら私よりも弟のほうが適任だと言い出しておりまして‥」

「姒渙さまはお嫌なのですか?」

「いえ、私も弟のほうが適任だと思います。弟は博識でございまして‥‥ああ、話がずれてしまいましたね」


あたしは紅茶を少し飲むと、「知らなかったとは言え、大変失礼しました」と頭を下げました。「とんでもありません」と、姒渙も控えめな声で応じました。この世界では長子が後を継ぐとは決まっていないとはいえ、少しでも家督を継ごうと考えた人が親にこう言われると複雑にもなるでしょう。


ちなみに料理人に会わせてくれないかともお願いしましたが、料理人はほとんど入れ替わっており覚えている人はほとんどいないだろうと言われたのでやめておきました。

うーん。とにかく姒臾の近況が聞けたのはよしとします。


◆ ◆ ◆


今くらいの時間ですと商に帰る頃には明け方になってしまいますので、帰るなら明日の早朝がいいでしょう。


あたしが張沢ちょうたくの家に戻ると、子履は庶民の服を着て、近所の子たちと輪投げで遊んでいました。子履が宮殿の使用人のものでもなく本格的に安そうな服を着ているのを見るのは初めてでしたが、子履は前世で一般市民だったので、そのような服のほうがむしろ似合っているように見えました。


「あっ、、おかえりなさいませ」

「ただいま」


そっか‥この世界ですとあたしも子履も公族として扱われ、立派な屋敷に住まわされているので、このような庶民向けの一軒家の前でこう言われることなんて本来はないはずです。前世のものより小さく粗末ではありますがそれでも前世の一般階級を彷彿とさせる家の前で、子履が傾いた太陽に照らされてにっこり微笑んでいます。


「‥‥どうしましたか?泣きそうにしていますが」

「あっ‥いえ。前世では叶わなかった夢なんだなと思ってしまいまして‥」


と、あたしは子履から目をそらします。あまりにも、あたしを自宅で出迎える妻そのものなんですよ。子履はふふっと笑うと、近くの子供たちに「お姉さん、家に戻るね」と言ってきました。ああやって無邪気に手を振っている子どもたちも、相手が隣の国の方伯だとは夢にも思わないでしょう。‥‥でも改めて、子履には今の格好のほうがよく似合っています。

子履は繊細で、内気で、とてもおとなしいです。子主癸ししゅきが子履を後継者に指名しなければ、もしかしたら子履は、伯にはならずつづまやかに暮らす未来もあったのでしょうか。

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