第4話 無謀な上司につくと部下が大変になる好例
濃い霧がいまだ立ちこめる森の朝。
俺はムラダーにつんつんと腰を蹴られて、目を覚ました。
『狼。ちょっと来い』
あごで促されるままに、俺は起き上がった。他の連中は毛布やマントにくるまったまま身じろぎもしない。
「ムラダさん? どこに行くんですか」
『ついてくりゃわかる。仕事だ』
言葉は理解できないなりに、意思の疎通はニュアンスとなって受け取れた。たぶんこう言ってるのかな程度だけど。これでただの連れション強制だったら切ない。
ふわふわした腐葉土を踏みながら、霧の中を進む。空は黒から灰色に変わっていた。少しずつ明るくなっていくに従い、足取りもいくぶん軽くなる。
だが、森を行けども行けども白い霧。ホワイトアウト寸前。方向感覚が狂わないのは、頭が狼になったせいかどうか、わからない。
と、急に俺の耳が逆立ち、とっさに前を行く巨漢の腰にしがみついて、押しとどめた。
ムラダーも背後から襲われると思ってなかったのか、なすすべもなく腐葉土に一緒に倒れ込んだ。
『なんだ!?』
「静かにっ」俺は自分の鼻の前に人差し指を立てた。
その直後だった。
俺たちの目の前、三メートルもない。霧が突如、黒く膨れあがった。
最初、それは霧が晴れて現れた断崖の岩壁だと思った。高さにして八メートルほど。
岩壁がおもむろに右へ動く。ゴムボートから石油タンカーを見上げた気分。あまりの大きさと獣臭さに、俺は意識が飛びそうになる。
ムラダーは、俺の肩を静かに叩き、後退の合図を出した。二人して頭を低くして身体を屈め、相手を向いたまま、尻から少しずつ後退する。
濃い霧がなかったら、たちまち捕捉されて攻撃されていたかもしれない。
『
アレはなんですかと俺が訊ねる前に、ムラダさんは影の正体を告げてきた。
「ワイルド・ボー?」
ムラダーは言葉で説明せず、手近な枝で地面に絵を描きはじめた。
毛のあるブタ。いや、猪か。でも動物の定義を越えるくらいデカかった。
例えば、アフリカ象がおおよそ高さ三メートルに対して、ヤツは八メートルはあった。もう重量二〇〇トン級の鉱山ダンブカーを想像したほうが近いのかもしれない。一戸建ての平屋民家なら口笛まじりで踏み潰していけそうだ。
直後、強烈な熱視線が横顔にささる。嫌な予感がした。
俺は相手を見ず、顔を横に振りながらザリガニのように尻から
ムラダーはイノシシの絵のそばに、
俺は、彼から枝をひったくって、イノシシからすべての○へ矢印を引き、それを拳で一つずつ叩いて消していく。さらに○を三つ増やし、それも叩いて枝を投げ、援軍が来てもお手上げだと両手を広げる。数の問題じゃない。勝てっこない。
ムラダーも最低限の意味が伝わったのだろう。難しい顔をしてうめく。そして、絵を手で消すと、その上に枝でまた新たなイノシシを描き始めた。
今度はイノシシと〝手錠〟、いやポーラか。ポーラからイノシシへ矢印を引く。
俺は強くかぶりを振った。枝を取って、イノシシの下に逆放物線を描く。落とし穴だ。動きを止めなければ、あんな怪物相手に縄を投げても喧嘩にすらならない。
ムラダーが穴だと気づいたのだろう。目が輝いた。だが、かぶりを振って、その穴を手で消した。そして空を指さす。穴を掘る時間がかかると言ってるのか。
「だったら、穴になりそうな低所を探して、追い込むほかないですよ」
独り言のようにいって、俺はイノシシの足下に斜め線をひき、その先に落とし穴を描いた。そして、〝馬〟を漢字で七つ書いて矢印をイノシシまで引く。さらにイノシシから矢印を落とし穴まで引く。
追い込み猟。原始人がマンモスを崖に落とすのと同じやり方だ。
「ドブロ-」
ムラダーが笑みを浮かべる。俺は逆に眉間にしわを寄せた。正気か?
ならば、と。俺は枝を取って、ムラダーの剣を指さす。怪訝な顔で剣を抜こうとするのを途中で手を掴んで止めて、その刃元で枝を斜めに切断する。
ゴボウほどの太い枯れ枝がわずかな抵抗もなく切れた。
血の味を覚えた剣だ。靖国奉納の軍刀を持ったことがある。あれと同じ切れ味だった。
でもムラダーへの恐怖はない。ただ彼がこの剣とともに、およそ清廉潔白な道を歩んできたのではないことは確信した。
ここはきっと、そういう世界らしい。
俺はその斜めに切断した方を上にして、枝を落とし穴に並べていく。
ムラダーが、また唸り始めた。どうやら俺の意図が通じたらしい。
要するに、罠だ。〝パンジ・スティック〟という。
ベトナム戦争時における南ベトナム解放民族戦線が用いて、アメリカ兵を苦しませたという狩猟罠だ。
アメリカにとって余程トラウマだったのか、八〇年代の戦争映画の密林シーンには必ずと言っていいほど、この針地獄が罠として出てくる。
日本でも〝乱杭〟と呼ばれ、弥生時代からあったらしい。
もともとはツカサから聞いた話だ。高校・大学と理系教科ばかりやっていたから、穴を掘った経験は林間演習と、卒業後のトイレくらいだ。
『わかった。戻ってメシにしよう。おれは馬で周囲を見回ってくる』
ムラダーは立ち上がると俺の肩を叩いて、歩き出した。
人は時として、まとまった金欲しさに無茶をするものだ。
あの巨大な獣にはその無茶をするだけの価値があると、ムラダーの顔が言っていた。
だが、大きな◯《マル》の無茶に付き合わされる小さな◯たちは、果たして彼に喜んでついて行くだろうか。
§ § §
すべてがうまくいき過ぎたんだ。
七騎の馬で、手に鳴り物を持たせ、奇声を上げさせて特大の赤牙猪を追い立てる。
行き先は森の北西五〇〇メートルにあった。高さ約二〇メートルの地割れ。
俺の計画通りの地形を見つけてきたのは、ムラダーだ。
ほんの一、二時間程度、馬で森を駆け回っただけで見つけてきた。どんな偵察能力をしてるんだと俺は呆れかえった。
ともあれ、計画は否応なしに実行された。
馬で追われて逃げてくる大イノシシの本気の疾走は凄まじかった。その後ろ足に、ムラダーは石をくくりつけた縄を投げつけた。縄が後ろ足に巻きつく。
赤牙猪は制動をかけるのではなく、四肢で必死に泥を蹴って
縄がピンッと張りつめ、結んだ大木の根元が浮き上がる。
直後、鈍い音。ムラダーのとなりにいた俺は思わず目を閉じた。
『ヤーノシュっ。どうだぁっ?』
『旦那。だめだぁ! 杭が頭を貫いてて抜けねぇ。オレ達だけじゃあ吊り上げられねえよ!』
『ザスタバはっ』
『オレたちが出た時も、まだ寝てたっ』
『あの野郎ぉ。わかった。そのまま解体だ。おれがやる。お前らは水くんで獲物にぶっかけろっ』
『マジかあ!』
ムラダーが崖下と怒声をかけあいながら、獲物の回収に駆け回る。
赤牙猪の牙は長く太いほど、彫刻加工されて調度品に珍重される。そのことを知るのは、この森を抜けて別の町に行った時だから、随分、後になってからだ。
この時、崖から落ちた大イノシシは下の尖った大杭に頭を打ち抜かれて死んだ。縄のおかげで長い牙は二本とも欠けることなく手に入れることができたようだ。
俺は彼らとは別のことで、無邪気に喜んでいた。
また肉にありつける。
雑菌の繁殖を抑えるため川で二日間は肉を冷やしたいところだが、待てない。多少の雑菌は食欲で乗り切る。口の周りを脂でギットギトにして肉と熱い抱擁がしたいんだ。
その夜だった。
解体作業が終わり、ムラダーと仲間達が祝宴が始まった矢先に口論が始まった。
火をつけたのは、大将だった。
『この赤牙猪を〈バルナローカ商会〉に買い取らせる。まとまった金ができたら、それをみんなに配当し、団を解散しようと思う』
話の内容は当然、俺にはわからない。全員が言葉を失う中で言葉を発したのは、あのザスタバという男だった。
『はあっ、解散だあ!? ふざけんなよ、ムラダーっ!』
『……』
ムラダーに負けず劣らずの屈強な
『ここまで来るのに何日かかったと思うっ。五日だ。五日もかかってわざわざお前の面を拝みに来たんだぞ。オレたちを馬鹿にしてんのか、ムラダーっ!
そんな情けねぇセリフを聞く暇があったら、村ひとつ襲って金を稼いで、また人を集められてた。何のためにオレ達をこんな
『うるせぇぞ。ザスタバ。おれの決めたことが気に入らねぇなら、今すぐ失せろっ。お前、ここに来て二日、何してた。酒と肉食って、悪態を垂れ流してただけじゃねえか。
『オレは猟師じゃねえ! 義賊シャンドル盗賊団ザスタバ様だ!』
『あぁ? てめぇ……この状況がわかってなお、おれに盾突いてんのか?』
『けっ、ペッ。ヤキが回ったなあ。ムラダー。ここにいる連中をよく見てみろ。てめぇみてぇに猟師になりたがってる面してんのか?』
『……っ』
仲間たちはムラダーを見ない。焚き火を見つめる者や暗い森のどこかに視線を泳がせる。
そのシラけた情況で、ザスタバだけが勝ち誇った笑みを浮かべて吠えた。
『シャンドル盗賊団は死なねえっ! このオレが立派に引き継いでやらぁ。てめぇはこの森で、あの〝
最後の言葉がムラダーの堪忍袋の緒を切った。頭皮が焚き火の照り返しよりも赤くなった。
『もう一遍言ってみろっ。このペド野郎っ!』
「ムラダー!」
俺は叫んだ。周囲の仲間が一斉に弓を構えた。鏃が一斉にムラダーを向いた。
『お、お前ら……っ!?』
愕然とするムラダーに俺は覆いかぶさった。
地面に矢が刺さる中で、俺の背中に二カ所、痛みが走った。
(ぐがっ。マジ痛ぇっ!)
また暗転だ。だが今度こそ、これで転生しただろ。
目覚めた先は、戦国時代だ。
§ § §
「そうだよっ。あの肉、食わずじまいのままだ!」
俺は会社に仕事の連絡ミスを思い出した気分で、ベッドから起き上がった。
そう言えば、あの夜。俺、何しに会社へ行ったんだっけ。急ぎの三稿チェックもなかったよな。
「なんで……俺、まだ生きてるんだろう」
記憶がアッチコッチヘ飛び回り、わけがわからなくなっていた。ヤケ気味にまた寝っころがり、万歳。
その時、ベッドの外に手が当たって、額に何か落ちてきた。
「子供の絵……?」
広げてみると樹の皮裏に木炭で簡単な絵が描かれて、下に文字が書かれている。だがその単語すら読めなくて泣けてくる。孤独で泣けてくる。
いや、待てよ……そうじゃない。
「これだっ」
俺は再び起き上がり、後ろを振り返った。同じように折りたたまれた絵が雑然と置かれて
「これ一枚で単語数が六語。それが十三、十四……三〇枚以上だから、一八〇か」
俺が大学で第一外国語の英語で三千。第二外国語としてロシア語を取った時、日常会話として機能し始めた単語数も三千ちょっとくらいからだったと思う。圧倒的に足りないが、スタートラインだから文句はない。あとは単語の発音と文法だ。
『何見てるの、狼さん?』
ふいに声をかけられ、応じる前に少女が顔を見せた。
年齢は十三、四歳くらい。痩身で、自分で髪を切っているのだろう。ツヤのない金髪が肩で不揃いなのが痛々しい。頬と額のむらのある日焼けも。
しかし、灰緑色の瞳の輝きに心を奪われそうになる。顔の造形が高貴なのだ。ラノベなら間違いなく美少女ヒロインポジション。
「あ、あの……これ見てたんだけど、なんて読むの?」
『えっ、ああ。私が妹たちに描いたやつ。絵、ヘタクソでしょ?』
「これ、なんて読むの?」
俺がしつこく指さす物は、たぶん〝リンゴ〟だ。
「えっ? ……ヤブカ?」
そのとなりの、たぶん〝猫〟を指さす。
「マチカ」
そのとなりは、魔法使いか。髪の長い、目を閉じた性別不詳の人が手から何か出している。
「……
「アパ?」
怪訝な表情。怖がられたかな。今度は、俺の顔を指さして訊ねる。
「
「だ、
「
「ネー」彼女は笑いながら首を振る。「
両手でストップのジェスチャーしながら部屋を飛び出していった。
きっと大人を呼んでくれる。そう信じてる。暴漢撃退用のスプレーとか猟銃持参とか、警察とかじゃありませんように。
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