第16話 瞳を閉じて君を想ふこと
「ええいっ。わかったよ、こん畜生めぇ! お買い上げだ。代金一〇〇〇ロット、いただけ!」
黒狐は残りの少なくなった髪の毛を掻きむしって地団駄を踏みならして、手代に喚き散らした。
精算作業が三たび行われる中、シャラモン神父は片時も魔眼の水槽から手を離さなかった。
「狼さん」
「はい」
盲目の神父は水槽の眼玉へ恋人にむけるのと同じ微笑みをなげかけていた。ちょっと怖い。
「このご恩は終生、忘れることはありません。ありがとうございます」
「お礼なら、俺の目を見て言ってください。その方が神父の真心が伝わります」
「ふふっ、そうですね。そうしましょう……ところで、ご店主」
シャラモン神父は、部屋から出ようとする黒狐を呼び止めた。
「あぁん?」
商敗した主人はキレ気味。こっちが客だってことを忘れかけてる。
「この魔眼の、売り主のことを知りたいのですが」
「神父さんよ。こんなオレでもな。守らなきゃいけねぇ商売の一線ってのがあんだよっ」
黒狐の眉間に火山が隆起していた。
シャラモン神父は静謐な面持ちで、推して名を口にした。
「もしや、その方は〝ポジョニ〟と名乗ったのではありませんか」
黒狐は即座にハエでも追い払うように手を振った。
「知らんっ。買い手に名を聞かれるだろうが、黙っておけと言われた」
「そうですか」
シャラモン神父は苦笑した。黒狐は部屋を出ようとして、怪訝な顔をした。
「いや待て……そういや。あの方にしては妙なことをおっしゃってたな」
「えっ?」
「あの方は『その魔眼をはめた時、その男は魔眼とともに一度死ぬ。そこから魔眼とともに歩む世界がどう映ったのか、いつか教えて欲しいものだ』とおっしゃった。オレにゃあ、なんのこっちゃかさっぱりだったがな」
シャラモン神父は、深々と頭を下げた。日本人みたいに。
「この魔眼と巡り合わせていただき、感謝します」
「けっ。感謝するなら、オレの目を見て言いやがれってんだ!」
そう言い放つと、ふんっとそっぽを向いた。
「なかなか面白いご店主ですね」
俺はムラダーにこっそり言った。
「だろ? だんだん性格がわかってくると、イジりたくなってくる爺さんなんだ」
やがて――、
「会長。精算作業が終わりましたっ。お買い上げありがとうございました!」
手代たちが金袋を抱えて頭を下げ、部屋を出て行った。
ドアが閉まるとすぐ、シャラモン神父の表情が魔性を帯びた。
「どなたか。今の刻限を教えてください」
「午後一時だ」
黒狐が懐中時計を見ながら言った。
シャラモン神父はひとつ頷き、詠唱をはじめる。
水槽の前に両手を広げ、頭上、右肩、腹部。左肩と、両手で円周を流転するように四つの印を結んでいく。
その結ぶ先々で、赤、蒼、緑、黄と小さな魔法陣が波紋のように浮かんだ。
神父の口から紡ぎ出される詠唱は、俺のラノベ脳から快楽物質を分泌させた。
これが、この世界で初めて見る、リアル魔法だ。
「 日輪と月輪の交わるこの刻より 我が血潮にかけて 汝との和合に臨まん
白羊宮の火13にミカエルを 双魚宮の水7にガブリエルを
処女宮の土5にウリエルを 宝瓶宮の風23にラファエルを配し
今ここに森羅和合の天球を創造せしめん
されば、かの天球にこそ星は巡り 時を紡ぎ
光と闇の交じり合う場所より 門を開いて至り
我 レイ・シャラモンの名の下に 汝が瞳に新たなマナの息吹をそそがん!」
――
すると、円筒形の水槽が立つテーブルに乳白色の魔法陣が出現した。
小さな魔法陣は、水槽に沿って上昇すると中の水溶液に浮いていた眼球が消えた。
それとともにシャラモン神父のまぶたの隙間から同じ乳白色の光が漏れ出した。
直後、シャラモン神父は首から床へ身体を叩きつけられた。
倒れたというよりも落下したといった表現の急墜落だった。
「おい、シャラモンっ! 大丈夫かっ」
ムラダーが思わず助け起こそうと動くが、俺は横から制して、首を振る。
「ダメです。魔法陣が消えてません。まだ、みたいです」
「魔法陣? ……狼。お前、見えるのかっ」
彼には見えていないのか。俺は再び神父に顔を戻すと、倒れ伏したまま激しく息を切らせて、か細い声ですすり泣きを始めた。
「なんだよ。脅かすな。おれは、てっきり……」
「死にました」
「は?」
「魔法使い〝水蜘蛛のシャラモン〟は今、確実に死にました。彼女とともに」
「彼女? シャラモン。お前なに言って……」
シャラモン神父は息も絶えだえに虚空へ手を伸ばした。
俺がイスを差し入れる。だが彼は這いのぼることもできず、座席に肘を乗せてそのまま身体を預けた。
「私たちが死ぬ直前。群がる観衆の外で、あなたがこちらに帝国式の敬礼をしているのを見ました。あなたの頭はまだ、ふさふさでしたよ」
「てめっ。髪の話はやめろっ。……見た、だと?」
ムラダーは顔を引きつらせて半歩、あとずさった。
シャラモン神父はゆっくりと起きあがり、今度こそイスに腰掛けた。
美貌が汗で濡れそぼり、ほつれ髪が頬にはりついていた。
そして、魔法陣が消えた。閉じたままの両眼の隙間からは、溢れた涙が頬をつたい、あごから床にとめどなく
「〝彼女〟は、あなたの背中を最後に見送ることができたことを心から嬉しく思っています。『ありがとう。生きていてくれて――私の
ムラダーは顔面蒼白となって全身を震わせ、わなわなと震える両手で元同僚の胸倉に掴みかかった。
「やめろっ。やめろやめろっ。シャラモン。正気に戻れ! 団長は死んだっ。もういないんだ!」
けれど、シャラモンは泣きながら慈愛とすら形容できる美しい笑顔をむけた。
「ムラダーさん。私はもう迷いません。この先、何百年でも子供たちと一緒に強く生きていけます。この魔眼――」
シャラモン神父は息を大きく吸いこみ、それからゆっくりとまぶたを開いた。
まぶたの下から、美しい灰緑色の瞳が現れた。
「ジナイダ・ロマノエヴナ・シエーラ・アウルスの〝
§ § §
「狂気の、沙汰だ……くそったれ」
二〇分後――。
イスに身体をロープで縛りつけられたまま、ムラダーは力なく呟いた。
ハゲ頭と頬にいくつか擦り傷をつくっていた。
シャラモン神父の開眼後、ムラダーは部屋で発狂して大暴れした。
その挙げ句、廊下から駆けこんできた屈強な用心棒二人に取り押さえられたのだ。
黒狐がイスに腰掛けて、自分の脂気のない頬を撫でている。
「まあ、なんだ。オレも魔法具はいろいろ扱ってきたが、魔眼の装着場面に出くわすのは初めてでな。常人から見てもあまり気持ちのいいモンじゃねぇだろうってわかっちゃいたが、正直おったまげたよ」
「ご店主。……ありがとうございました」
美しい灰緑色の瞳で見つめられ、黒狐は年甲斐もなく頬を染めてプイッと顔を横にした。
「そ、そんなことより八〇〇ロット分、オレを守ってくれるって話はまだ生きてるんだろうな」
「ええ。魔力も安定するでしょう。今からその魔法をかけます。何か変化が起きたら言ってください」
シャラモン神父は老店主に歩み寄り、彼の背中に触れた。
――カキーンッ!
金属が打ち鳴らされた硬質な音がした。
「ん……音がしたな。剣が打ち鳴らされるような音だ」
「では、これで完了です。低位の詠唱魔法なら三回。呪殺魔法なら一回。このお店ごと吹き飛ばすような中位の詠唱魔法なら一回だけ。あなたを守ることでしょう。
ただし、魔法を防御した際の衝撃風は、これに含まれていません。吹き飛ばされた先で身体を強く叩きつけられないように留意してください」
「え。その魔法は、詠唱なしですか?」
俺は、ついラノベ脳で興味深そうに訊ねてしまった。
「いいえ。対抗魔法は多様な属性魔法を跳ね返すことから、詠唱文がきわめて長く、別名〝
「へー。それで、なんという名前の魔法ですか」
「狼さん。もはや魔法使いでないあなたには、お教えできないのです。魔法を否定する魔法なので、秘中の秘なのですよ」
完全にシャラモン神父は、俺が元魔法使いだと定着してしまっているようだった。
「あ、わかります。あれ、わかっちゃマズいのか? とにかく不調法なことを訊いてすみません。――ムラダさん。もう気は収まりましたか?」
「うるせぇっ! おれが一体何をした。真っ当な人の感覚で逃げようとしただけじゃねえか。早く縄を解きやがれ!」
「まったく。魔眼に
「ジナイダ団長の幽霊でも見た気になっているんでしょうか?」
俺とシャラモン神父が呆れていると、ムラダーは強面を真っ赤にして叫んだ。
「お前らに、おれの繊細な気持ちがわかってたまるか!」
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