第44話 狼、セニを駆け回る 後編
工房のある郊外から町中に戻ると、腹が減った。
生きてると実感するために、これ以上の行動原理がどこにあるというのか。
そんなわけで、〝なぞなぞ姉妹亭〟に行く。旧〝爆走鳥亭〟のことだ。
「いらっひゃいいまへぇー!」
木のトレイを持った前歯のない女の子がエプロン姿でとてとてやってくる。四、五歳くらい。愛くるしい笑顔が、開店初日から入店客の保護欲を鷲掴みする。
ぬぅ……。この子を看板娘に抜擢するあたり、経営者の商才は手堅い。
§ § §
ラリサが連れてきた子供たちは、みんな働く。
そう決まったのは、昨日の夜だ。
ズィーオからの薫陶が生きているからだろうが、乳飲み児を除いて、彼らは一人も嫌だとは言わなかった。
それと、俺が〝チーム・ヤドカリニヤ〟に頼んだことも少しはあるかも。
「彼らはこの町で誰からの庇護も受けられません。なら、自分の身を自分で守る
俺はメドゥサ会頭やペルリカ先生に頭を下げた。
意外なことにラリサは、俺が何をやっているのか理解できたらしい。横に来て同じように頭を下げた。日本人でもないのに。
「しかしだな。狼どの」メドゥサ会頭が言った。
「この子達の最年少は乳飲み児だと言うが、そんな幼い、非力なうちは何もできまいよ」
「仕事は何でもいいのです。些細なことで。それに報酬はお金である必要はありません。食事だったり衣服だったり、この子達に真っ当に働くことは生きるために必要だという意識を育てたいのです」
「そうねえ。どこかの誰かさんは、お金が欲しくてすぐに暗殺業に突っ走ろうとしたくらいだしねえ」
ハティヤが茶化す眼差しで、となりの傭兵を見遣る。スコールはプイッと顔を逃がしていた。
「ヴェルビー。どう思う」
ペルリカ先生が共同経営者であるヴェルビティカに意見を求める。
「そうですねぇ。やっぱりタダってわけにはいかないですね。私たちも明日開店ですから」
「もっともだな。さて、どうしたものか」
おとがいを摘まんで考えるペルリカ先生、艶っぽい。
「……ねえ、先生。狼は、料理も得意だって聞いてますよ。何かうちの店だけの特別メニューを考えてもらうってのはどうでしょうか」
「ふむ。あのバラのリキュールも良かったが、料理にも興味あるな」
「薬膳の、ですか?」
俺が訊ねる。ヴェルビティカはにんまりと福々しく微笑んだ。
「ううん。普通のお菓子がいいかねえ。それなら子供だって食べられるしさ」
さすが孫もいる魔法使いは配慮の厚みが違う。
「なるほどです。でも〝ロジャタ〟はもう無理ですよ」
「あら。そういやぁ先生の所に作って持っていかなかったのかい?」
「あの時は、試作段階で砂糖の買い直しに予算を食われてしまい、断念しました」
「あらま。じゃあ、あの試作は捨てたのかい」
「ええ、シャラモン一家の腹の中に」
「あれはおいしい失敗だったわよねえ」
ハティヤがまた何かを期待した目を俺に向ける。テーブルに笑いが起こった。
俺はラリサを座らせて、自分もイスに戻る。
「今度は失敗しにくい物にします。今ここに小麦粉と玉子は置いてますか」
「もちろん。砂糖もね」ヴェルビティカは抜かりはないと胸をそびやかす。「ヤギ乳は明日の朝に納入することになってるよ。あとお菓子になりそうなのはハチミツくらいかねえ。あんたが土産にくれたヤツさ」
俺はうなずいた。他の添加物はこちらで用意しよう。重曹が間に合わなかったのが悔やまれる。
「わかりました。あとで〝金床〟へ行って、専用の道具を作ってもらいます」
「専用の道具? 鉄鍋(フライパンのこと)ならあるよ」
「大した物じゃありません。いなご豆のコーヒーと一緒に出せるお菓子になると思います」
なにより、ツカサの大好物だった焼き菓子だ。マズいわけがない。
§ § §
その約束のお菓子は、開店初日の昼過ぎにお披露目することにした。
お店の客は、旧〝爆走鳥亭〟の常連だった漁師ばかり。懐かしんで入店したらしい。
ペルリカ先生は白いバラ模様のレース眼帯で目許を隠していた。
男客が彼女の美貌をチラチラ眺めながら、土器カップでいなご豆コーヒーやハーブティを所在なげにすすっている。彼らのウブな緊張感が可笑しい。
酒はあるけれどビールはなく、代わりに薬膳酒。しかも値段設定はビールとワインの間くらいとのこと。ちょっと手を伸ばせば届く辺りでガッチリ取る。うまい価格設定だ。
このまま彼らがペルリカ先生の美貌めあてに常連になれば、遠からず財布が彼女の下僕と化すだろう。
「おう、来たな。狼」
ホヴォトニツェの金床の店主カールがカウンターから振り返って手を挙げる。
「忙しそうだな」
「ええ。例の物は」
「ああ。注文通り三つな。大した細工じゃなかったから、負けといてやるよ」
俺は挨拶もそこそこにペルリカ先生からバンダナを借りると、頭に巻いて厨房に入る。
小さな木製ボウル三つに小麦粉、卵黄、卵白を分けて投入。卵黄にヤギバターをひと欠片いれて溶かし、小麦粉と酒石酸を合わせる。
酒石酸は、正式名は酒石酸水素カリウムという。たまにワインコルクの裏にくっついてる結晶のことで、造り酒屋に行けばワイン樽の底にこびりついている。もちろん無害だ。量はほんの数グラムでいい。
そこにヤギ乳を三回に分けて注ぎながら小麦粉を混ぜる。ドロさらっとした固さのところでハチミツを垂らし、さらに混ぜる。
次に、残してあった卵白に砂糖を少量加えてフォークで泡立てていく。
ここで俺は【風】マナでちょっとだけ発動。卵白がみるみる白濁し、クリーミーなメレンゲ生地になっていく。角ができるくらいの固さになったら、さっきの生地と合わせて木ヘラでさっくりさっくりと大きく混ぜた。
「カールさん。例の物を」
「お、おう」
〝金床〟店主に作ってきてもらったのは、小さな銅フライパン──の底がない器具。直径八センチ。壁の高さは垂直四・五センチほどの輪っぱ状。グリップは木製で垂直に立てている。
俺は底なし銅輪っぱの内壁にバターを塗ってフライパンに立て、輪の中に生地を静かに流し込んだ。すり切り目前まで入れる。
やがて生地がバターの甘い芳香を放ち、水面張力のように少しだけ膨らみ出す。
銅は熱伝導が優秀なので、フライパンの熱が壁にも伝わりやすい。なので、底が柴茶色に焼き上がる時には、壁にも焼き色がつき始める。
俺の空腹が暴れ出す前に、焼き上がるのを祈りながら待つことしばし。
底が焼き上がると銅輪っぱを外し、ヘラで生地をひっくり返す。柴茶色ヨシ。そして銅輪っぱをまた戻して、ヘラの角で傷を入れてみて、中の焼き加減も見る。
半ナマであればキズから生地液が溢れてくるし、刺したヘラにも生地が着く。
もう一回転、必要のようだ。
それから少しして、
「ヴェルビティカさん、お皿ください」
出された木皿の上に、円柱形のパンケーキを三つ載せる。
そこにティミショアラ産のハチミツをお上品にそそぎかける。これで、完成。
これで、餡のない今川焼き(回転焼き)と言うなかれ。〝厚焼きシフォンパンケーキ〟だ。メレンゲを合わせることで生地を膨らませているので、舌触りがとても良い。
「はい。では試食をお願いします。品評は後日窺います」
カウンターを潜り出るとバンダナを取らずに、俺は店を出た。
──おーいすぃーっ! ふわふわ~っ。おいしゅうございまふ~っ!
今日は忙しい。あいつの声が聞けて、俺も満足だ。
ああ、腹が減った。
§ § §
「なんか、狼から良い匂いがしておるのぅ」
昼休み中のホヴォトニツェの金床で、ライカン・フェニアの向かいに座るなり、開口一番言われた。
「さっき、〝なぞなぞ姉妹亭〟で出すお菓子を作ってましたから」
「もうそんな時間かや?」だめだこの人、時間忘れて作業してるよ。
「もう昼ですよ」
「そうか……。図面は引けたのじゃがの」
「銅じゃ頼りないんだってさ」
ロギが帆布に何かをデッサンしながら言った。
俺はライカン・フェニアの前に置かれた物体をしげしげと見た。
「これ、どうしたんですか」
「ん。見ての通り、肝臓じゃ。町市場に出ておったイノシシのを買い占めてきた」
赤い内臓肉が、多分三頭分。そこに縦横無尽の刃物傷があり、それを黒い糸で縫合されていた。糸は〝
俺は身が引き締まる思いがした。ライカン・フェニアはやはり、真摯だ。もう手術の練習を始めている。けれど本人は自分のことよりも道具が気になるらしく、
「銅は他の金属より抗菌性はあるはずなのじゃが、どうしても刃が
「縫合針はどうですか」
「こちらも細さに対して硬度が足りんかった。この柔らかな肝臓でも途中から針が歪んでしもうた。絹糸は申し分ないが、やはり腹部を閉じる用じゃの。肝臓の血管を
「内臓血管を糸で縛るわけですか」
「うん。時間はかかるが、その方が失血が少なくてすむのじゃ」
医学が弾圧対象になっているこの世界では、輸血の概念すらない。失血による急変は俺たちの敗北を意味する。
「手術時間。博士はどれくらいを見てますか」
「そうじゃの。五時間から八時間かのぅ。吾輩の腕が鈍ってなければ良いが」
俺は言葉を失った。わかりきっていたことだが、長い。
「患者と補助者の体力が持たないかもしれませんね」
「うむ。肝臓は血液の
補助者のほうは、手術室となる部屋にイスを用意してやってくれ」
「分かりました……ところで、博士」
「ん?」
「このレバー、昼メシにもらっても?」
「昼メシ? ……そう言えば吾輩も朝からコーヒーくらいしか口に入れておらんかったな。まあ構わぬが、とにかく生食はいかんぞ」
執刀医が今から絶食してどうするんだよ。だめだ、この人。誰か世話してあげないと明日あたり飢え死にしてるかも。
今日の昼メシはここの台所を借りて、こいつでレバ玉を作ろう。
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