第12話 徨魔討伐


「兄貴。怪物のメシが終わったみたいだぜ」

 となりでアンダンテが言った。


 怪物がまた、削げた鼻でしきりに臭いを探し始めた。先ほど手を焼いた獲物の存在を思い出したのだろう。


「ダンテ。これからヤツと踊れるか」

「……時間は」

「二時間」

「おい、兄貴。冗談だろ?」


 真顔で聞き返されたので、カラヤンは苦笑して革袋を見せた。


「コイツを、ヤツに投げてくれ」

「中身は、なんだ?」


「ただの水だ。より正確には、あの魔女が使ってた水筒だ。狼が試してみたいんだとよ」


 水筒は山羊の胃袋でしつらえたものだ。飲み口は細く、底は広くて丸い。首のないフラスコ状。底の直径だけで言えばソフトボールくらいであった。


「試すって。ガキの悪戯なんてしてる場合じゃあねえだろうがよ」

「ああ、昔よくやったな。度胸試しで、水の入った革袋を貴族の馬車に投げつけた。だが、こいつはマジだ。ヤツに捕捉されたら、おれもお前もあの馬と同じ末路が待ってるぞ」


「ふーん。で、こいつを投げたとして、何がわかるんだ?」

「怪物が苦しみだしたら、青。苦しまなかったら、赤。なんどさ」


「なんだそりゃあ?」アンダンテは太い眉をひそめる。


「スコールっておれの弟子が、狼の使いで町に戻った。何か取ってくるらしい。それが戻ってくるまでにヤツの性質ってのを確認しておきたいんだそうだ」


「わかんないねえ。さっぱりわかんねえな」

「ああ。おれもだよ」

「あんたが、弟子を取るなんてよ。そういうガラじゃなかったろう」


 そっちかよ。カラヤンは頬を熱くした。徹頭徹尾、弟の緊張感のなさに苦った。


「風下からやるぞ。気どられるなよ」

「へっ。そんなヘマするもんか。……兄貴は?」

「お前のサポートだ。木矢二連射で、お前の投げた革袋を破る」


 承知。二人は重心を低くして茂みを揺らすことなく移動を始める。


 それから数分後──。

 二人は怪物から三〇セーカーまで接近。低木の茂みに身を隠す。

 そして、アンダンテが強肩をうならせて投擲とうてきした。


 水筒は鋭角の放物線を描いて、静かに、そして急速に怪物の頭上へと到る。

 その瞬間を、カラヤンの放った二連の矢が素早く貫いた。


 革袋を破って噴きだした水は、彼らの意に反して大酒樽をぶちまけた鉄砲水ほどの量だった。

 たちまち怪物は馬の死骸と一緒に十数セーカーも押し流され、見えもしないのに何が起きたのか知ろうと、周囲に首を回していた。


「なんなんだ。あの水の量は。兄貴、一体全体どうなってんだ?」

「さあな。魔女の持ち物なんだ。考えるだけ無駄だろ。戻るぞ」


 困惑する弟の肩を叩き、カラヤンは悟った面持ちでその場を離れた。

 怪物は苦しまなかった。結果は、赤──。ということでいいのか。

 これが何を意味するのか、今はまだ、うちの狼しか知らない。


  §  §  §


「サラー。殿下は……」

「来ていなさるよ。あすこの雲の上だ」


 黄色の精霊は空を指さす。


「大精霊〝イフリート〟に貸しを作るなんて、狼もやるねえ」

 魔女アストライアが昂奮した様子で言う。


「偶然知りあったんだ。貸し借りというより、気に入られちゃったみたい。友達だよ」


「ふーん。じゃあ……ぼくも、友達ってこと?」

「あれ。俺のこと、気に入ってくれてたんだ。さっき別れ話したのに」


 そう訊いたら、ぎゅうっと腹を踏まれた。


「ちょ、調子に乗るなっ!」

「こ、今度ゆっくり話がしたいな。他の魔女に内緒で」

「なっ。内緒で……や、やらしいっ。この魔女たらしっ!」


 腹に両足が載った。実は俺には痛みも重さも感じない。完全に首から下の感覚がなかった。そこへ、カラヤン、アンダンテ、そしてスコールも一緒に戻ってきた。


「カラヤンさん。どうでした」

「結果は、赤だな。水筒の水に少し押し流されたが、怪物はピンピンしてやがった」


「そうですか……。スコール。頼んだ物はわかった?」

「うん。言われた建物に入ったら、ロカルダって人がいてさ。言われた通り、水酸化カリウムあるかって訊いたら、これだって」


 肩で息をしながら、スコールが差し出してきたのは、フタのついた陶製のビアジョッキだった。俺はさらに、その隙間を蜜蝋で目張りしていた。


「うん。スコール。これで間違いないよ。ご苦労様。俺たちは勝てるぞ」

 俺がうなずくと、スコールは嬉しそうに破顔した。


「おいおい、狼頭よぉ。ここで一杯やろうってのかい」

 アンダンテがオヤジギャグで茶化す。俺はカラヤンに言った。


「このジョッキの中に、石けんの鹸化けんか薬が入っています」


 カラヤンが眉をひそめる。

「ん。いつも海で作っていたヤツか?」

「違います。あれは炭酸カリウムといって、これの前段階の鹸化薬です。この水酸化カリウムは、あれをさらに一段階進めた、いわゆる毒です」


「これが……毒?」

「これを水でやったのと同じように、怪物に残らず浴びせかけてきて欲しいのです」

「すると、どうなる?」

「怪物が水を浴びている今なら、熱を発し、皮膚が溶けだします」


 その場にいるみんなが言葉もなく解せない顔で、ビアジョッキを見つめる。


「しかし今、重要なのはそこではありません。怪物が周りを腐食させているのが強い酸ならば、この毒がその酸と混ざることで、ある蒸気を発生させます。その蒸気にヘレル殿下で火をつけて欲しいのです」


 強アルカリである水酸化カリウムは、酸と混ざることで中和が起こり、〝水素〟を発生させる。そこに火をつけたら……。あとは中学校の化学実験だ。


 もっとも、歩くだけで周囲を腐食させるほど放出される強酸と、五営業分の石けんを作る強アルカリだ。水素爆発の規模が怪物を吹っ飛ばすだけですめばいいが。


「やってもらえますか」

「つまらん。たっっったそれだけのために呼び出されて、仕事は放火だけか?」


 カラヤンが返事する前に、みんなが頭上を見あげる。

 空から音もなく、炎をまとった青年が降りてきていた。


 俺は言う。

「殿下は、あの怪物を倒す最後の切り札です。もし俺の策が的外れで破綻した時は、殿下のお手を煩わせることになります。最終的な〝門の種〟の破壊をお願いします」


「ふん……ま、徨魔バグが現れたのだ。仕方あるまい」

「バグ?」

「この世界へたまに現れる、別次元の妖魔だ。ライカン・フェニアは〝バグ〟と呼んでいた」


「それじゃあ、あの〝魔導砲〟を向けるべき本来の相手は……っ」

「ふんっ。そのようなこと、今はどうでもよかろう。余は、お前の策が的外れであることに期待するとしよう。多少なりとも歯ごたえがあれば、よいのだがな」


 憎まれ口を叩いて、ヘレル殿下は再び雲の上に昇っていった。


  §  §  §



「うおぉおりゃああ!」


 水酸化カリウムをいれたビアジョッキは、封をしたままアンダンテに投げ放たれた。


 怪物は、視覚がまったく退化して、音と臭いにしか反応できないと踏んだ。

 よって、五感が感知しない場所からの攻撃に弱い。


 すなわち頭上だ。


 それでも怪物が天を仰いだのは、動物の本能か。はたまた二度の同じ投下物に注意が向いたのか。だが、見えないことで防御対応は鈍い。

 振り仰いだ顔の上で、陶器のビアジョッキに鉄の二連矢が貫いて破砕した。


 この作戦。怪物の体表から放出される腐食酸に、うまく水酸化カリウムが混ざり合ってくれるかがキモだった。だがそれは、杞憂に終わった。


 杞憂どころか、出来過ぎの結果だった。


 強アルカリの液体を浴びた強酸性の巨怪は、悲鳴を上げた。全身が湯上がりのように白煙を立ち昇らせて地面にのたうち回った。

 そこに天から雲を貫く一条の火閃が地上に突き刺さる。


 俺の所にも戦車の砲撃に似た、腹底にずしんと響く爆音が届いた。遅れて、凄まじい突風が数秒間つづいた。


 あの上位精霊イフリート、常日頃から欲求不満なのかもしれない。


 もう最初からヘレル殿下一人で足りていた。俺の作戦なんていらなかった。


 こうして、この事件──カラヤンに埋め込まれた呪法は終止符を打った。


  §  §  §


 今日はなんだか、疲れた。

 三人と精霊で丘を歩いて降りる。俺は首から下が動かないので、手首を軽く草でった縄でまとめられ、そこにカラヤンが頭を通して背負われた。


 誰かに〝おんぶ〟されたのは、いつ振りだろうか。いい歳をして、安堵と懐かしさに眠気を憶えた。


 魔女アストライアは、その後どこかに行ってしまった。

「三日後に荷馬車で来るから、報酬用意しといて。絶対だからね。なかったら──」

 くどかったので、以下略。


 ヘレル殿下は、あれきり現れなかったし。報酬を要求されることもなかった。

 スコールは報告へ戻ると、先に町へ戻った。使命感をもって残業に精を出す、長男のかがみ。彼にも正当な生存報酬を用意しないとな。


 残ったのは、ライオン頭と狼頭とハゲ頭と黄色頭。オッサンばかりの四人だ。


「あの、カラヤンさん」

「んー……?」

「メドゥサさんのこと、どう思ってるんですか」


 この際だから訊いてみた。カラヤンは少し黙っていたが、


「気持ちのいい女だとは思ってる。おれを気に入ってくれてるのが申し訳ないくらいにな」


「彼女の気持ち、気づいてたんですか」

「気づくも何も、父親の口添えつきだったんだぞ。おれも一応、男だ」


「兄貴。あの女とは、もう寝てみたのかい?」

 アンダンテが無遠慮に、だが真面目に訊ねる。そんなにやらしくなかった。


「一度だけな」

「えっ。そそ、そうなんですかっ!?」俺の声だけうわずった。恥ずかしい。

「変か?」

「あ、いいえ。男と女がいれば、何も起きないはずもないですよね」


 慌てて正当化している俺だけが変に気まずい。


「で、その後すぐだった。急に胸に差しこみが来てな。便所で倒れた」

「倒れた? そりゃいつのことだい」アンダンテが目を剥いた。


「もう三年も前だ。おれもあんなこと初めてだったんでな。今にして思えば例の〝門の種〟ってヤツなんだろう」


『──うちに秘めたる門の種は育ち、〝最上の幸福の地に至りて〟殻を割り、門をげんず』


 最上の幸福の地とは、場所のことではなく人生の幸福に満たされた絶頂期を表していたのかも知れない。


「〝門の種〟が本格的に動き出したのは、三年前だって事ですかね」

「うん、今にして思えば、な」


はなっから諦めてたのかよ。自分はもう長くねえって」アンダンテは鼻息をつく。

「だから、今にして思えばって言ってるだろう」


「と、いうことは……?」

 俺が先を促す。でもカラヤンはその先をなかなか言おうとしなかった。

 先にアンダンテが焦れた。


「兄貴。今さら迷うことじゃねえだろ。おふくろはあんた達のこと、とっくの昔に承知してるぜ」


 あっ。このライオン丸。俺の苦労を……っ。


「そうか。やっぱもうバレてたのか」カラヤンは驚かなかった。「やっぱり敵わねえなあ。あの人には」

「ったりめぇよ。おれらのおふくろだぜ」アンダンテはからりと笑う。「ところでよ。兄貴」

「ん?」


「婚礼調度に、ナディム・カラスの女房って女を運んできたんだが、ありゃあどういう意味なんだい」

「なにぃ?」


 あーっ。この人、このタイミングで計画をバラすかあ!

 俺はカラヤンの背中で寝たフリを決め込んで、会話の外へ逃げる。


「おふくろは、そこまで情報を集めていたのか。ロジェリオだな。くそ、まさか外堀まで埋められてたとはな」


 えっ、そっち? 俺は片目を開けて、耳をふるふるとそばだてた。


「おれはもう長くないと思っていたから、メドゥサの伴侶として直感的に良さそうな、あいつを連れてきた」

「兄貴……それ素面で言ってんのかよっ!?」


 ライオン丸のがなり声。俺も同意しておく。全然、カラヤンらしくない思案だ。


「笑えよ。おふくろはそこまで読んでたんだ。だから、ナディムの女房をこの町までお前に運ばせたんだ。まったく、おれの小細工をそこまで見切られていたとはな」


 いや、その発想はなかった……。周りに身を固めた人がいれば、結婚する気になるかなあって。結婚なんて、その場のタイミングとノリだって藤堂先輩も言ってたし。


「バカだねえ。あんたらしくもねえ。だいたい、そんな手前勝手な小細工、誰も幸せになんてなれるかよ」

「……」


「惚れた女を別の男にくれてやるような男は、いきじゃあねえぜ。あんたがおっんで別の男に乗り換えるかどうかは、女の勝手だ。あんたが決めることじゃあねえのさ」

「ふっ……ああ。そうだな」


 心から反省しているのか、二人の会話が途切れて乾いた道の足音だけになる。


「館に戻ったら、あの女にプロポーズしろよ」


 おっ。いいぞ。ライオン丸。


「おふくろの前でか?」

「おふくろだけじゃあねえ。向こうの両親や〝黒狐〟の小父貴。狼頭やおれ達の前でだ。そういや、神父もいたよな。そのまま式も挙げちまえ」


 ナイスだ。ライオン丸。自然な導入で俺の計画にも拍車がかかる。


「いや、さすがに今日は日が悪い。また今度だ」

「意気地なしですね」うなじの影から俺は黒鼻を突き出した。「逃げるんですか?」


「狼っ。寝てたんじゃないのか」

「寝れるわけないでしょうが。そんな大事な話っ。……誰のおかげで〝門の種〟を排除できたと思っているのですか?」


「お、おれも手伝ったろうが」


「それは怪物退治でしょう。その前です。〝門の種〟のとりこになったカラヤンさんを、一時は殺すしか方法はないところまで話は進んでいたのです。ねえ、アンダンテさん」


「おっ、そうだな。オレのこたぁダンテでいいぜ」

 一番の介錯推進派が、陽気な友人の笑顔で親指を立てる。


「プロポーズ、してください。それで今回の大きな借りはチャラにしてもいいです」

「お前ら。なんでそんなに、俺をメドゥサとくっつけたがるんだ?」


 うっ。思わぬ反撃に、俺はとっさに言葉に詰まった。


「それは……俺には、壮大な計画があるからですよ」

「ほほう。壮大ねえ。この世界のこともをろくに知らねえくせにか」


「ええ。カラヤンさんの子供を一国の王にするためです」


 最高の冗談を聞いたように、マンガリッツァ兄弟は笑った。

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