第7話 堕落の聖杯(7)


 屈辱の眠りから醒めた女は、まず一番に自分の貌に触れた。


〝……骨?〟


 絹雫きぬしずくのごときなめらかな肌はなく、ざらりと乾いた軽石の感触。


〝よくもっ。おのれ〝秩序の魔女〟。おのれ、すべての帝国魔術師どもよ〟


 しかし左手にしかと握られた高坏ゴブレットの重みを覚え、少し溜飲を下げる。


〝これさえあらば、わらわは何度でも至高の美へと返り咲いて見せよう〟


 ゴブレットの底には少量の深紅のみ。それをなんとか口から嚥下して、甘みと酸味に渇きを抑える。喉に触れて指先に骨の感触を忘れ、肉を取り戻した実感に満足する。


 やはり、美貌かおよ。わらわはこの貌を取り戻さねば、始まらぬ。


〝さしあたり、この聖杯に千の殉血じゅんけつを集め、手近な都市を一つ堕としてくれよう。貌を取り戻した暁には、帝国へ終焉の凱歌がいかを歌って参ろうか〟


 女は、初めて〝魔獣〟を進めた。

 七首八脚の乗り物は、道に散乱した兵士の骸を踏み潰しながら南西へ向かう。


 目指すは、空を焦がす都市の灯り。ティミショアラへ。


  §  §  §


 日本刀の柄に手をかけ、サナダは魔獣の前へ飛び出そうとした。

 その背中へ音もなくおおかぶさると、俺は素早く右腕ごとヤツの首を足で絞め上げ、地面に倒れこんだ。

〝後ろ三角絞め〟。この柔道技は背後からやられると防御抵抗が難しい鬼畜技だ。


「た、タクロウ……なにをっ!?」


「何を、はこっちのセリフだ。お前が俺の馬車に手下を乗せた時点で、全滅覚悟の足止め策を考えてんのはバレバレだってのっ。偵察任務はすでに達成した。手下に撤収合図を出せ」


「いやだ……こっ、とわるっ」


 なら仕方ない。俺はさらに内腿うちももを絞って首をめる。


「お前らの貴い犠牲はな。はっきり言って時間稼ぎどころか、時間のムダなんだよ。いいから撤収だっ。帰って将軍たちに状況報告しろ」


「きみは……あの敵の怖さ、が、わかって、ないんだ」

「わかってるよ。ひしひしとな。おまけに、この数じゃ足止めにならねーことも、なっ」


「僕を、僕らアウラールを舐めるな……っ!」


「お前のそういう突拍子もない場面で見せるヤル気と自信には賛同できかねるね。家政長が一人欠けると、軍全体の士気に関わるんだよ。とくにお兄ちゃんを失ったエリダ様の情緒安定に支障が出る」


「……ッ!?」内腿に締め付けられながら、サナダの目の色が変わる。


「スコール。サナダの手下に指示だ。夜襲中止。総員、撤収準備はじめ」

「了解」


「た、タクロウ……恨むか、らねっ」

「あーはいはい、わかったわかった。あとでアウラール家の見せ場もちゃんと用意してやっから。ちょっと寝てろ」


 俺はサナダを容赦なく絞め堕とした。肩に担ぎ上げると馬車に向かって足音を消しながら走る。


「ったく、マジかよ。あんなの、魔狼の王の比じゃねえぞ」


 大きさだけなら軍艦そのものだった魔狼の王のほうが上。だが魔力の濃度というか禍々まがまがしさの濃縮度なら、こっちが段違いだ。


 あれは人の深層心理を不快にさせる怖さだけじゃない。はっきり強いとわかる怖さだ。


 俺は、この世界に来て初めて、正真正銘の〝悪い魔女〟を見たのかもしれない。


 乗り物のほうはみんなで頑張ればなんとか倒せそうだが、乗ってる魔女のほうはどうやって倒せばいいのかわからない。あれはもう、人知を超えている。


太夫たゆうっ!」

「太夫っ!? おのれ、貴様っ」


 サナダも慕われてるなあ。あと、どことなく抗議が時代劇っぽいのは誰の趣味だ。


「人数はそろったな。点呼は省略する。これより、あの魔女より先に町まで急速撤退する。第11班はすみやかに乗車。第12班は二人一組三班に分けて、監視を継続だ。目視できるギリギリの距離から魔女を監視。対策本部へ逐次ちくじ連絡を入れろ。

 なお、注意事項がある。監視の際はくれぐれも魔獣と魔女の両方と目を合わせるな。一発で正気を削られるからな。──あとこれ。携帯食料と水な」


「勝手に、貴様が我々の指揮を執るなっ」


 つっかかってくる影番衆を、俺は見据え返した。それだけで相手の気迫が尻尾を巻く。俺だって戦いの中で背後から刺されたり、足が飛んだりしてるんだよ。


「諸君の大将を絞め堕としたことについては、悪いと思ってる。だが彼の企画した即興的無謀な足止め策には賛同できかったし、ことは非常事態だ。無用の戦力損耗は極力避けなければならない。あと、大物のバケモノ退治経験だけなら、こっちが先輩だ。

 その上で、時間がない状況だってわかっていない者がいるなら、今ここでわめけ。俺がすぐにサナダの隣に転がしておいてやる。

 アレが都市まちに入ったら大惨事必至なのは、諸君もプロなら想像できたことだろう。つまらんホコリはこの際、ここではたいてから戻れ」


 影番衆は苦り切った表情を見せつつも押し黙った。 


「よし、では撤収するっ。第12班は携帯食料と水、忘れずに持ってけよ」


 合図とともに馬をあおって、都市に戻る。翡翠軍の馬を借りて八頭立てにしておいてよかった。 


  §  §  §


「なんじゃ、もう偵察から帰ってきたのか」


 ティミショアラ・ニフリート本邸。

 部屋の主人は灯りもつけず、ベッドの上で膝を抱えて寂しそうに唇を尖らせた。


 俺が部屋に入ると、犬猫が部屋の隅で小さく固まって寄ってこない。わびしい。


「ダイスケ・サナダ家政長が敵の足止めに決死隊を組んでいました」

「なんじゃと……決死隊っ!?」


 ニフリートは目を見開いて息を飲んだ。


「ご心配には及びません。直前で彼を昏倒させて防ぎました」

「そうか……決死の覚悟と無謀の捨て身とは違うのじゃ」


 心優しい少女。賢く、慈悲深い領主だ。


「みんな、この都市とおひい様を守りたいのでしょう」

 おためごかしではなく、本心から言った。


「……」


「アウラール家の家政長みずから命を省みず決死隊をもって魔獣討伐を試みたことは、バトゥ都督補とアッペンフェルド将軍もご存じないことでしょう。しかし、龍公主エリダの承認がなければ、サナダ家政長も実行には移さなかったはずです」


「のう、狼」

「はい」


「教えてくれぬか。わしは姉様あねさまたちのことがわからんようになってしもうた。いつもそうじゃ。姉様たちはわしの知らん間に勝手に決めて、ひと言の相談もなく物事を進めて、わしが意見を言える頃にはすべてができあがった後じゃ。姉様たちにとって、そんなにわしは頼りなく、お荷物なのかのう。そんなはずはないのに」


「はい。あなた様は良き龍公主であらせられます」

「なぜじゃ……姉様」

 ニフリートはぎゅっと両膝を抱き寄せた。


「先ほども言いましたが、皆様、あなた様を守りたいのです。三人とも」

「ふん……そうか、三対一では分が悪いのぅ」


 俺はベッドのそばで片膝をつき、顔を伏せた。


「でも、肝心なことはニフリート様がどう思っているか、なのではないでしょうか」

「わしか」


「はい。黙っていては伝わらぬこともあるのです。賛成反対という明確でなくともよいのです。自分にはこういう意見がある。この問題にはこんなアイディアがある。それだけでもよいのです。俺が古代聖歌の上申した時、真偽を疑うより試した方が早い。そう仰ってくださったようにです」


「カプリルはともかく、エリダ姉様やセレブローネ姉様は聡明な御方じゃ。口では勝てぬ」

「ふっ。別に議会で相手をやり込めるような論舌は必要ないと思われますが」


「それは、そうじゃな」


「それと。夜遅くに無礼を推しておひい様の私室までまかり越したのは、ロイスダールという人物のことなのです」

「ロイスダール……っ。うん、忘れもせん。わしら四姉妹に特攻を強いた男じゃ」


 やっぱり憶えていたか。


「はい。三人の龍公主様がニフリート様を過保護にしている原因は、そこにあるのではないでしょうか」

「えっ?」ニフリートは膝から顔を上げて、目を瞠った。「なぜそう思うのじゃ?」


「ロイスダールという男の、任務への忠実性と、その達成のためなら手段を問わない冷徹な判断力をもった人物です。彼はチェスをやらせれば、無類の強さを誇ったことでしょう」


「チェスか……。あるいはそうかもしれんの。ランズハルト・ロイスダール。気詰まりな参謀じゃった。わしの態度をみて、北千歳戦役の女司令を思い出すとうそぶきおった」


「えっ?」

 今度は俺が驚く番だった。


「随分昔のことじゃ。例の特攻の話が出た会議で、わしは『お前のチェスは犠牲を出すことしかできないのか』そう言ってやったのじゃ」


「そしたら、彼はなんと?」



『攻めに転じるためには、犠牲は付きものです。龍嬢』


『笑止じゃ。わしらがいつ守りに入った。確かに敵は攻めてくるが、チェス盤に乗るほどの陣形を取ったことなど一度もない。宇宙海賊と呼べる統制すらなかった。敵の手駒も見えておらぬうちから特攻作戦の決め打ちなど、取らぬ狐の皮算用。机上の空論ではないか。わしらを駒のごとく切ったり捨てたりしておるのは、貴公だけではないのかや』


『かつて、ジャパンの北千歳という基地で女性司令にも同じ事を言われました。貴君の欲得づくで駒になるのは癪だと。ひどい思い違いをされていました』


『どう思い違いだというのじゃ?』


『ご覧の通りです。私ですら使い捨ての駒の一つに過ぎないのです。しかもあなた方と違って、換えがありません』


『貴公より、わしらの命が軽いと申すか』


『命の軽重についての論議ではありません。これは、誰が犠牲になれば目的達成までのシーケンス達成に効率的か、という論議です』


『とどのつまり、貴公はやはり、わしらの命を軽くみておるのかや?』


『命という概念でこの作戦の是非を論ずるのは不毛です。我々の部隊に課された任務は、この採掘艦を防衛し、維持管理し、できるだけ早く巣を撃滅し、より多くの乗組員を母星に帰還させること。

 あなた方の任務は、徨魔の巣を破壊するまでのトライ&エラー。何度でもそのリトライが許されている。一度や二度の特攻に失敗しても、成功するまで何度でも特攻することができるのですから』


『なっ。なんじゃとぉっ!?』



「その後──、議場でわしより先にメカ長が掴みかかっていってな。アンドロイド相手に大喧嘩じゃ」


 複製体は何千年も前の会話をよく一言一句覚えていられるものだ。それとも、龍公主の記憶力が一般人よりも並外れているのかもしれない。


「しかし、どうしてその時、徨魔の巣への特攻という作戦企画が持ち上がったのですか。その後も採掘艦の旅は続いたのでしょう?」


「えっとな……確か、徨魔の巣らしき規模のコロニーが見つかったのじゃ」


 マクガイアやライカン・フェニアみたいに龍公主には艦内バイアスがかかっていない。これは聞いておいて損のない情報だ。


「巣の規模とはどのくらい?」

「あの時は、太陽系の木星ほどじゃったな」


 げぇっ。約十四万キロメートル。直径で地球の十一倍。体積比で一三二一倍だ。確かに巣だが、いくらなんでもデカすぎるわ。


「では、エリダ様たちがおひい様を区別するようになったのも、その頃から……」


「うん。飲み物に睡眠薬や下剤まで入れて、わしだけ出撃を遅らせられたりしてな。今回もその手になりそうな気配じゃったから、今晩の食事から何も口にしておらん」


 待てまてぇ。それって部活にありがちな部員からエースへの陰湿な嫌がらせじゃねえか。


「むしろそれで、よく仲良くできてましたね」

「ん? 薬はロシアンルーレット形式で、全員強制参加での。引いてしまっても文句が言えなかったのじゃ」嫌な予感……。


「ちなみに、おひい様のババ引きバースト率は?」

「うっ。0.758……くじ運がなくてのぅ」


 四回に三回ひくとか、完全に組織ぐるみのイカサマじゃねえか。


「もしかして、あれってイカサマっ!?」

「今、気づくのはおかしいだろっ」思わず俺はツッコミを入れた。


「おひい様。では、四姉妹は、その時に特攻に出られたのですね」


「うん。メカ長ほか反対意見は多数出たが、ロイスダールは母星に審議請求し、複製体ホムンクルスであることがむしろ特攻の効率効果を補強するとして決定裁可が下りた。ということになったらしい」


「それでは、その作戦は?」


「一応、成功はした。巣は破壊されたが、残骸からポータルと思われる脱出装置を見つけてな」

「つまり、木星の大きさの前哨基地だった。本当の巣ではないと」

「うん……」


 ニフリートは抱えた膝に爪を立てて、


「わしはもう、姉様たちがわしを庇って大破していく様など見たくはないのじゃ。あんな辛い思いをするくらいなら、わし一人で突っこんでいった方がマシじゃった。そのことをメカ長に言ったら……」


 言ったのか。よりにもよって人情家のマクガイアに。


「ロイスダールを殺すと?」


「うん……。でもその邪魔をしてくれた者がおったようでな。結局、実現しなかったらしい。だからわしは、その頃からあまり……心の内を口にしない方がよいのではないかと思っておった」


 俺はひざに爪を立てる少女の手をそっと取り、両手で温めてやった。


「ほかの龍公主様も、おひい様がいつまでも縮こまってないことを待っておられますよ」

「狼……」


「晩餐がまだでしたら何か作りましょうか。自分の殻を割る決意をこめて玉子料理とかどうです?」


「なんじゃそれは、願かけか」笑ったそばから、ぐきゅぅうっ。少女の内から賛同を得た。


「今夜。この町に迫ってくるのは、強敵です。かつてない魔力を蓄えた古代の魔女なのです。俺たちだけでは勝てるかどうかわかりません。ですので、おひい様のお力も是非」


 手を差し出すと、そこに彼女の心と同じ、温かな手が乗った。クワを握るので硬い地母神の手をしていた。


「よかろう。このニフリート・アゲマントが名策士であることを知らしめてやるのじゃ」




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