第3話 空が明日を分かつとも(3)
俺は上司を見た。カラヤンの禿頭が前に動いたので、言葉を継いだ。
「ニフリート・アゲマントは、オイゲン・ムトゥが育てたカリスマです。そして、再起動した〝龍〟を持ってる。公国にとっては頼みの綱ともいえる龍公主と兵器がティミショアラにある。
そのことは今後、ヴァンドルフ家をはじめとする旧王国諸侯にとっての公国侵攻に大きな障害となり、帝国にとっても目障りな存在になるでしょう。
だから、開戦前に邪魔になる精神的支柱は排除しようと考えるのは戦略上自然な流れです。敵の旗は周りに人が集まる前にへし折られるべきだからです」
「狼、お前のことだ。周りにクギは刺してきたんだろう?」
カラヤンが言った。
俺は不本意だが頷いた。オイゲン・ムトゥは、ウルダが書状をもって俺の所に舞い戻るタイミングまで計算に入れて使者を送っている。だから素直になれない。
「成り行きでしたが、軍団長のコーデリアと右尚書令のカターリン枢機卿には個人的に。ダンジョンに帝国の魔女が潜入していたことを伝えました」
「うん。反応は」
「枢機卿は帝国の存在に気づいておられましたが、議会は帝国の
カラヤンは目を深く閉じて、太眉をしかめた。
「グラーデン侯爵の作戦勝ちだな。苦し紛れにカロッツ2世についたら、公国は終わる」
「つかなくても、二年くらいの延命にしかならないでしょうが」
「なおさら、公国にヴァンドルフ軍を破ってもらうしか、お互い手がねぇわけだ。とくれば、鉄がいるな。また〈ヤドカリニヤ商会〉がひと儲けできるかもな」
「カラヤンさん。ここはジェノヴァ協商連合の領内ですよ。公国に
「表立ってやれば、だろう?」
「表でも裏でもこのご時世に鉄を作れば、嫌でも煙が立ちます。セニでは無理です」
「なら、公国内ですりゃあいいじゃねえか」
「公国は特定の商会と取引はしないという話でしたが」
「ムトゥ殿の時代は、な。それにあの時はグラーデン侯爵も動いてなかった。それもくわえて売値をつり上げられるわけだ」
うちの上司が、商売上手な死の商人な件。
「それでは、鉄を売るのではなく、鉄を作るための反射炉の耐火レンガを売るというのはどうでしょうか」
ナディム・カラス専務が珍しく口を挿んだ。
カラヤンがニヤリと悪そうに微笑んだ。
「そいつは名案だな。ついでに技師も貸してやろう」
「俺ですか?」
「お前は先に帝国だ。ハティヤに会ってこい」
マジかぁ。あ然とする俺をよそに、カラヤンがティボルを見る。
「おい、こいつにハティヤの現況を教えてやってくれ」
§ § §
入院三日目。
そろそろ飽きてきたので、街に出たいと見舞いに来た主治医に言ったら、ダメだと言われた。
「溺水は、五日から十日の経過観察が必要じゃ。大丈夫だと思って日常生活に戻った翌日に呼吸が止まることが、たまにあるのじゃ」
「えー。ほんともう大丈夫だって。ちょっと弓が引きたいの」
「お前の弓は持ってきておる。いつでも引けるのじゃから焦らずともよいのじゃ」
「へー。結構、乱暴に連れ去ってきた割には、警戒甘いのね」
「降伏条件に、客待遇にせよと吾輩も言うたしのぅ。それにマダム・キュリーは、存外ハティヤを気に入っておるようじゃ。賢い娘は好みらしい」
「弓引いた相手なのに?」
「ほぼ精霊じゃから、損耗しておらねば気にもしとらんのじゃろう。矢が素通りしたと訊いておるぞ」
「うっ」
「マナ修練がたりとらんとも言っておったのぅ。あの養父殿から教わっておらんかったのかや?」
「うううっ。そっち方面は……鋭意修練中、です」
魔法劣等生なのは、触れてほしくない。家に現れて半年の狼が基礎を教わった数ヶ月後には新進気鋭の魔法使い。才能の女神はいつでも理不尽だ。
「あと、家に手紙を出すことを認めさせた。手紙を書く気はあるかや?」
「いいのっ?」
ライカン・フェニアはサイドテーブルに書簡用帆布を数枚と羽ペン、インク壺を置いた。
「うむ。もちろん検閲を受けねばならんがのぅ」
そこは虜囚者扱いらしい。ま、仕方ない。
「それじゃあ、住む家も探して、働きに出ないとね」
「家なら、吾輩は研究所の寮に部屋をもらえた。そこでよかろう。まだ部屋の整理もろくにできておらんが」
マチルダほどではないけれど、ライカン・フェニアも部屋の整理整頓はヘタだ。私生活より研究に頭を使いたいのだろう。やはりここでもハティヤの主婦力は必要らしい。
「だと思った。買い物とかできそう?」
「最寄りの店まで、乗合い馬車で片道四〇分か」
「割と遠いね」
「研究所の所員寮じゃからのぅ」
「マダム・キュリーはどこに住んでるの? 池の中?」
「これ。そういうことを外で言うでないぞ。あの者はここでは一般女性、しかも
「そうなんだ。でも、一度は追い詰められた相手に親切にされたり、私たちも色々気を遣ってるって何か、間が抜けてるね」
「ふふっ。かもしれぬ。気持ちの切り替えが早いのは悪いことではないのじゃ。すべては生きるためなのじゃ」
「うん。そうね」
頷くと、ハティヤはライカン・フェニアを膝の上にのせ、抱きしめる。
「ハティヤ……すまんの」
「謝らないで。フェニアがそばにいてくれて……よかった」
この先、たった二人きりのハグが癖になるかもしれない。魔物ほどの圧倒的な力の前に殺されかけて、知らない街に連れてこられた。ひとりぼっちでこんな場所に残されていたら、客待遇だろうが何だろうが、数日でおかしくなっていたかもしれない。
「私はきっと、これからもハティヤ・シャラモンを捨てられない。逃げ出すことができないんなら、逃げ出せるところまで駆け上がってやるんだから」
──コンッコンッ、コンッ
ドアがノックされて、返事すると外から入ってきた。
本当の担当医や看護婦ではなく、軍服を着た少年だった。その背後には若い将校が二名。
「ハティヤっ、皇太子殿下じゃ」
ライカン・フェニアがハティヤの膝から飛び降りた。
「えっ……!?」
どうすればいいのかおろおろしていると、五歳児が胸に手をおいて片膝をつく。
「いいよ。ライカン・フェニア博士。ここは病室だ。儀礼はナシにしよう」
気さくな言葉をかけてくる少年は、ハティヤとさほど変わらない年頃。小柄で、柔らかそうなブロンドと鳶色の瞳。目が合うだけで吸い込まれるような力があった。
「ラルグスラーダ・アウルスだ。ハティヤ・シャラモンだね。キュリー夫人から聞いてるよ」
手を差し伸べられて、ハティヤは指を握るように握手する。指先に剣だこを見つけた。きれいな容姿をして、剣は相当使うようだ。
「なにか?」
「剣だこ、ありますね」
「ほう。ふふん……なるほど」
「なるほど?」
「実は、キュリー夫人から面白い娘を連れてきたと聞いて来たんだ。ライカン・フェニア博士の友人なんだって?」
「はい。今は彼女が唯一の家族です」
皇太子殿下は、神妙に頷いた。仕事の顔は部屋の空気そのものを引き締めた。
「逃げなければ、それなりの待遇は考える。学校に行きたければ、手配しよう」
「学校……っ?」
ハティヤは思わず目を見開いた。
「どうした?」
「いえ。その発想は、ありませんでした」
「うん、そうか。なら、これからの選択肢に加えておくといい。帝国軍はいつでも優秀な人材を欲している。答えは十日後に頼む。春から通えるようにな」
そう言って、皇太子が将校の方に頷きかけると、帆布紙の束を渡した。
「士官学校に限らせてもらうが、六校ほどこちらで選ばせてもらった」
ハティヤは皇太子から直々に受け取った。数が中途半端だけど。
「あの、ライカン・フェニアと同じ家から通えて、魔法が習える士官学校がいいんですけど」
すると皇太子一行は顔を見合わせてた。
「それなら、スヴォールフ士官学校だな。春から私もそこに復学するんだ」
当の皇太子は気にした様子もなく宣言した。
「ちょい待て、ラルグス。そんな話聞いてへんぞ」
「帝国は、春になっても前線を動かさない?」
ハティヤが目をぱちくりさせた。
皇太子殿下は目を細めてニッと笑って頷いた。
「帝国は王国に入るまでもなくなったんだ。だからまた学校に戻れるんだ」
「うれしそうですね。学校、お好きなんですか?」
「無論だ。あそこは何も考えなくてもいい。今度こそ儲けてやるんだ」
「儲ける?」
「学生身分の免税特権を利用して商売に少し手を出してる。窓口は〈モトロフ商会〉という商家だ。ジェノヴァに店を構えている大店でね」
「損ばっかして借金だらけやけどな」男性将校が横から合いの手のように言った。
商売になるとヘタなのに愉しそうにするのが、狼に似ている。ハティヤはクスリと笑った。
「ん。今笑ったな」
「失礼致しました。私の知り合いにも商売のことになると愉しそうにする人がいますので」
「ほう。どこの商会かな」
「帝国にはまだ出店していませんが、〈ヤドカリニヤ商会〉といいます。今、〈バルナローカ商会〉と提携していて」
「思いっきり商売敵やなあ、ラルグス」
顔に傷のある将校が王太子の肩を叩く。それくらいにしておけという合図だったのか、皇太子はむむっと押し黙った。
「マルフリート。〈ヤドカリニヤ商会〉を調べておいて」
女性だと思ったら男の人だった。
「かしこまりました。というか、殿下。例の石けん〝ペルクィン〟を製造している商会では?」
「そうですっ。それ、狼がつくったんです!」
ハティヤは両手を拳にして、顔を輝かせた。
「狼?」
「さっき言った私の、知り合いです。狼の頭、をした……私の、大好きな、人です」
ぽたぽたと手の甲に雨が降る。止まらない。会いたいが止められなくて、顔を押さえる。
「博士。
「現時点でなんとも言えませぬが、ホームシックでもあるかと。それから、恐れながら狼なる者、狼の頭をした人間であるのは間違いございません。
側近二人が顔を見合わせる中、皇太子はどこか魂が抜けたような顔をした。
「殿下、いかがなされましたかな?」
ライカン・フェニアが声をかける。皇太子は時間が止まったように動かなくなった。ようやく動き出した時には、ひどく動揺していた。
「っ……いや、なんでもない。うん。それじゃあ、十日後に答えを聞かせてくれ」
「あの、ごめんなさい。スヴォールフ士官学校と研究所ってどれくらいの距離ですか」
止まらない涙を拭きながらハティヤは言った。
三人は顔を見合わせて、
「研究所員寮からなら、徒歩五分だ。研究所の所員が持ち回りで座学教師を兼任しているからね」
「なら、そこにします。申込書類をください。それから、お願いが──」
「お願い? 内容によるかな」
「たぶん。あと数日したら狼からの連絡係がこの町に私を探してやって来ます。フェニアの研究内容には触れないよう交流しますので、認めてください」
皇太子は、仕事の顔になった。ハティヤを飲み込まんばかりの眼力で見つめてくる。
「いいよ。ただし、手紙のやり取りをする場合は、連絡係の名前と人相書きを二名特定し、私に提出せよ。三名以上は認めない。これは君との公的な約定だ。ルール違反は、それ相応の覚悟をするように」
「はい。ありがとうございます」
ハティヤが頭を下げて上げた時には、皇太子一行はもう病室からいなくなっていた。
有能な上に優秀。行動する時はいつも一気呵成。疲れないのだろうか。
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