第53話 笑う魔女と惑う鬼女 前編


 彼女の正面に座っていたメドゥサ会頭が大音声だいおんじょうをまともに浴びて不幸にも卒倒した。シャラモン神父は困惑顔で耐える。


 一番離れたところにいた看板娘エイルとユミルはロビーでお互いの耳を塞いでうずくまっていた。可愛い……。ってなごんでる場合じゃねえっ。


「ペルリカぁ、ペ──リカ──さんっ。抑え──れ!」


 カラヤンが両耳を塞いで怒鳴るが、かき消えて制止の言葉にならない。グラーデンはどさくさに麦芽糖の壺を引き寄せようとするが、俺の手が壺を動かさせない。


 そこへヴェルビティカが手慣れた様子で水の入った銀の杯を置く。ペルリカ先生はそれを笑いながら飲み干した。その水、どこへ流れていったんだ。器用すぎるだろ。


「ふぅ~っ。また百年分笑わせてもらったな。狼」


 普段優秀な賢者だけに、なんてはた迷惑な性癖だ。誰もツッコめない。


「もうその辺で許してやってくれ。その男にはその男なりの筋の通し方があるのだ」

 急にマジメになられてもなあ。俺は憮然として肩を落とした。


「筋とは?」

「傾国の世きたらんとせば、王国の賢者。この暗愚を討つ。──そうだったな。グラーデン? ヴァンドルフが奸計に嵌らなければ、貴公が出る幕はなかったはずなのに」


「……フンッ」

 イケ爺がそっぽを向いた。ペルリカ先生はまたクスクスと笑って、長いため息を吐いた。


「どういうことです?」

「許せ、狼。我々は相互干渉できぬのだ。これ以上は、ただ含みの多い会話になるだけになる。さあ、彼を行かせてやってくれ」


 俺は不承不承、壺から手を離す。グラーデンはその壺を外套の下に引き込んで席を立った。


「ペルリカ……っ」

「勘違いするなよ、グラーデン。妾の診察代と狼の七〇〇〇ロットの話は生きている。悪銭ビタ一ペニーたりとて負けてやる気もない。ただ出世払いというだけだ。

 努々ゆめゆめ踏み倒そうなどとは思わぬことだ。我々を裏切ったらどうなるか想像しながら帰路につくがいい。では、お前にも星の巡りがあらんことを」


「くっ。他人事だと思って気楽に言ってくれる……今日のこと、覚えておけっ」


「言われるまでもなく忘れんさ。だが貴公も忘れるな。このような無謀な大攻勢を始めたのは、他ならぬグラーデン・フォン・ミュンヒハウゼンだということをな」


 グラーデンが店から出ると、店の外に十数騎の騎馬がグラーデンを取り囲んだ。彼らが走り出した時には、濁った水たまりに馬蹄の跡だけが残った。

 

 ヴェルビティカが何事もなく開店の準備を始めた。

 ペルリカ先生もよっこいしょと席を立つ。


「他人事などとは思っておらんさ。……あの悪魔を創り出したのは妾なのだからな」


 その独白の意味を、俺は測り損ねた。


   §  §  §


 その日の昼下がり。

 操業が止まった反射炉は、その存在さえかき消すほどに閑かに眠っていた。

 年末休み。今日から十日間らしい。

 代わりに、見慣れた赤いツナギの小さな背中が反射炉を見上げていた。


「博士」

 声をかけると、ライカン・フェニアが振り返り、どこか照れくさそうに微笑まれた。

 その笑顔が眩しかった。


「あのグラーデン某は帰ったのかや?」

「ええ。今朝がた。騎士に守られながら」


「そうか。どうせおぬしのことじゃ、ふっかけたのじゃろう?」

「ええ。金はないと言われました。ペルリカ先生のお口添えで出世払いになりました。その債務の重さに懲りて、しばらく大人しくしてくれれば良いのですが」


「まあ、無理じゃろうな。ああいう独善的に動いて周りを振り回す貴族殿は、自分の思う通りにならなねば癇癪かんしゃくを起こす。面倒なのに目をつけられたもんじゃのぅ」


「博士にも経験がおありで?」

「アスワンの帝王は大体そんなバカ殿ばかりじゃった。自分がこの国で一番賢く、精力的で、優秀な人間だと信じて疑わぬからの」


 俺たちはしばらく無言になった。


「では、やりますか」

「うむ。この世界を汚すのはちょっと気が引けるが、まずは人命優先じゃ」


 二人して目の細かい布で鼻と口を覆う。強盗にでもなった気分だ。


 炭焼き窯の焚き口に積まれたレンガを外す。

 一日早い炭材は火種を抱いてはいなかったが、いまだしっかりと熱を持っていた。革手袋をしてそれらをいったん外に出す。外気に触れると炭たちはパキパキと脆そうな音をたてて、寒さに文句を言った。


 それらを小さなソリで運び出すと、ホウキで窯内の炭粉も掃きだした。


 広くなった床面に再び長いまま残った炭材を二本並べ、その上に炭材を横へ並べて炭床を作る。そこへ砕いて大きさを揃えた石炭三〇〇㎏をスコップで敷き詰めて、さらにその上に集めた炭粉もかけた。


 そこまでが終わると、もう夕方になっていた。


 焚き口に薪を積み上げ、壁を塞いで通風口と薪の投入口を残す。やってることは炭焼きと変わらない。

 だが今度は窯内で薪の炎に加えて木炭の熾火おきびが窯内の高熱温度を底上げする。


 目標は、一二〇〇度で、二〇時間。


 ライカン・フェニアに着火をしてもらっている間に、俺は煙突に銅管を取り付ける。鋼鉄製の耐火装備にしたかったが、その鋼鉄をつくる作業だ。

 銅の融点は摂氏一〇八四度。石炭から出た硫黄やメタンを含む一二〇〇度の高熱ガスを受け続ければ、まず溶けるだろう。


 管に雪をかけて冷やすこともするが、道具を作る分のベンゼンやナフタレンが採取できるくらいには耐えてほしいものだ。


「着火確認っ、ヨシ」

「こちらも銅管設置、完了。ヨシ」


 銅管の中腹に穴を開けて、大壺を置き、その周りを雪で埋め尽くす。


 これでひと段落したので、薪をくべながら夕食に入る。


 熱せられた窯の上に置いていた小さな寸胴鍋を下ろしてフタを開けた。

 湯気立つその名は、トマト海鮮鍋なり。


 味付けは、塩と乾燥トマトに魚介のダシだけ。


「うん、しっかりうまいのじゃっ」

 ライカン・フェニアは嬉しそうに声を弾ませた。


「博士、ガーリックトーストも焼けましたよ」


 輪切りにしたバケットにニンニクバターを塗って、通風口から出る火で炙っただけのものだが、泡立つバターとニンニクの香りが狂おしいまでに食欲をかき立てる。


 いつかライカン・フェニアには味噌や醤油の味あわせてあげたい。俺と日本食の懐かしさを共感できるのは、この世界ではこの人だけだから。


 そう言えば、目の前の人。〝培養のプロ〟だった。


「ねえ。博士」

「うん?」

 トーストをかじりながら上目遣いで俺を見る。


「この世界で、醤油って、できませんかね」

 ライカン・フェニアは一瞬動きを止めた後、口許を手で隠して声をひそめた。


「狼。まさか今度は〝アスペルギルス〟の培養を企んでおるのかや?」

「ええ……ご存じですか?」


 アスペルギルスは、不完全菌の一群を指す総称で、その中に〝コウジカビ〟も含まれる。またその中に、〝肺アスペルギルス症〟という怖ろしいカビ性感染症もある。

 要は雑多にある菌類群の中で、日本人に〝発酵〟の恩恵をもたらした〝御カビ様〟をコウジカビと呼んだ。


「ふふ、誰に訊いておる。醤油と言えば、玉子かけご飯にラーメンじゃろう」

 ぐおぅ。醤油から連想する料理にそこをチョイスするとは、渋い。唾が湧く。


「その醤油に今、無性に飢えてるんですよ、俺」

「ええのぅ、ソイソース。ええのぅ……」


 ライカン・フェニアもほっこり微笑む。だがすぐに眉は寂しそうに萎れて俺を見つめてくる。


「じゃが、この東方世界は地中海性気候じゃからのぅ。育てるのは大変じゃぞ?」

「え、そうなんですか」


「うん。冬は寒いし、夏は乾燥する。吾輩が見た極東は夏の湿度が蒸し風呂。まさにアスペルギルス天国じゃった。ここはチーズやワインは、乳酸菌やブドウ酵母菌が文明適応しておるが、コウジカビとなると、どこまでこの環境に適応できるかは、狼の方で調えてやらねばなるまいの」


 ふぅむ。つまり設備コストか。そこに水を差すようにライカン・フェニアが表情を曇らせた。


「それに醤油は、Aspergillus sojaeソーヤという醤油専用の麹菌を育てる必要があったと記憶しておる。コウジカビに蒸した大豆とった小麦での。さらに麹菌だけではなく、乳酸菌や酵母菌の助けも必要じゃ」


 マジか。醤油に錬金術なみのプロセスが待ってそうだ。そりゃそうか。ヨーロッパの美食家を虜にした調味料だもんな。


「えっと。それじゃあ、どこから始めればいいんでしょうか」


「そうじゃな。さし当たり……パンカビから始めてはどうかや?」

「天然酵母、ですか?」


「いやいや。パンにはえるカビじゃよ」

「青カビですか?」


 科学の魔女はさらに首を振る。そしてニンニクバタートーストを見つめる。


「たまに黄緑色のカビが現れることがある。それが青カビであればハズレ。

 そこからペニシリンに振り直す目もあろうがな。その先もまた茨の道じゃ。


 紫、オレンジ、緑や青緑でもハズレ。黒は論外。

 アタリは、黄緑色。先に言った青カビとはコロニーが違うのじゃ。


 それを集めてふるいにかけ、摂氏三五度から三七・五度。吸水率三三パーセントのスチームライスに混ぜて、その状態でライスをならし均等に三〇度の温風で育てれば種コウジとなる」


 なるほど。それなら、おあつらえ向きじゃないか。

「実は、博士。昨日、米を大量に買っちゃいましてね」


「なんじゃ、もうライスを買うてあるのか。ならば、それでコウジカビを着床実験すればよいのじゃ。だがくれぐれも、青カビとコウジカビの違いを見損なうなよ」


「えっと……博士の眼をお借りしても?」

「ふふん。ならば安くはないぞ。吾輩が狼のつくった炭火で一番に焼きサンマを食うてやろう」


「うはっ。醤油のテッパンにして王道キターっ」俺は思わずのけ反った。


 そんなたわいもない会話をして、二人きりで雪のキャンプディナーをしていると、俺の耳が尖った。外から工房に入ってくる足音を捉えた。


 俺はおもむろに立ち上がった。


「狼?」

「大丈夫です。大した殺気じゃありません。博士はここにいてください」


 我ながら剣士気どりの言い草に、ちょっと恥ずかしくなる。

 窯の屋根から出ると、雪はみぞれになっていた。雪泥の中で闇を歩く音はピチャリピチャリと迫る。恐怖はない。

 ニオイで、知った相手とわかったから。


 夜の帳から現れたのは、ノエミだった。

 手には海賊刀。目は怨嗟の炎を燃やして血走っていた。


「嘘つき狼……っ! 土器を焼かせてくれるって、言ったじゃない!」


「それは何?」

「あんたをぶっ殺して、その窯をいただくわ!」


 海賊みたいないことを言う。


「そうか。なら俺をよく狙ってくれ。窯の傍にいる彼女を狙ったら許さないからな」

「なによっ、カノジョ同伴で炭焼きなんかして! 甘酸っぱい匂いさせてんじゃないわよっ」


 カップル狩りかよ。お前は一体ここへ何しに来たんだ。怒りの矛先が迷子になってるぞ。


「炭焼きじゃない。今は石炭を焼いてる」

「同じよ! わたしに器を焼かせてくれるって言っておいて!」


 何をそんなに焦ってるんだ。なんでそこまで土器にこだわる。


「じゃあ、土器は持ってきてるのか?」

「えっ?」

「焼くための土器は持ってきたのか。と聞いているのだけど」


「……あ、あんたバカじゃないのっ!? これが土器に見えるっ?」

「武器に見えるね」

「誰がうまいことを言えって言ったのよ!」


 不毛だ。何が悲しくてみぞれの降る夜に無観客漫才をしなくちゃいけないんだ。

 あと、うまいこと言ってないからな。それ。

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