第2話 狼、コーヒー片手に世界を眺める(1)


 婚約式から三日が経った。

 俺は丸二日間、ベッドの中で過ごした。

 その間に、ヤドカリニヤ商会は本格的に繁盛の道へと躍進したようだ。


 日産二千数百個の〝ペルクィン〟はプーラとリエカにも流れて、完売御礼。売上げも、うなぎ登りだ。


 メドゥサ会頭がわざわざ部屋にまで来て、「父上にこれまでの借金を完済する目処が立った」と手を握られた。握られた感覚があったので、回復を自覚する。


 それにしたって、たった二日なのに気が早い。

 彼女の自信と安定に満ちた笑顔に、なんだか俺の未来まで明るくなった気がした。


 それから、三日目の午後。


 ようやくマナ循環が平常運転に戻ったので、ベッドから起きて部屋を出た。

 居間にハティヤとシャラモン神父の匂いが薄い。外出中か。代わりにスコールがキッチンにいるようだ。弟妹たちの昼食をつくっているのだろう。


「スコール。ハティヤとシャラモン神父は?」


「あ、狼。ハティヤは、昨日からマチルダと一緒にヤドカリニヤ商会の売り子の手伝い。先生は、鳩屋はとやに手紙を出しに行くってさ」


「そうなんだ」


 メドゥサ会頭の話では、バルナローカ商会に直接、マチルダのレンタル移籍契約を頼んだそうだ。


 レンタル契約は、半年で二〇〇ロット。マチルダは元もと商会での地位は雑用係だったらしいので、その値段になった。

 主人〝黒狐〟としては、マチルダの商売修行の授業料分を差し引いた形だろうか。メドゥサ会頭のお気に入りでもあるし、かなりコストパフォーマンスが良い人材だ。


「あ。そうだ。朝にティボルが来てさ。アレ置いていったぞ。テーブルんとこ」

 フライパンをひと回しして、スコールが背中ごしに語りかける。


「あれって?」


 言われるまま鼻先を背後にむける。八人掛けのテーブル上に羊皮紙の束が革ひもで束ねて置かれていた。

 サイズはB5で、厚さは一〇センチ前後。いわゆる月刊漫画雑誌くらい。安いインクの匂いがする。


「うそだろ。生原稿なまげんかよ……」


 だいぶ前にバルナローカ商会に依頼していた、この世界の情勢調査だ。

 確かに俺は契約時に、校正ゲラ済みでくれとは言わなかった。それでも多少はこう、形になった冊子で渡してくれるものとばかり思っていた。


(俺が校正するのかよ。面倒くせぇなあ……ふふっ)


 俺はもふもふするうなじを掻くと、それを腰に抱えた。重さがまんま月刊漫画雑誌。重くて嵩張かさばるんだけど、内容が早く知りたくてちょっと胸おどる気分。


「おーい。チビどもーっ。メシだぞーっ」


 スコールがテーブルに山と盛り付けられたパスタの大鉢を置いた。すると大部屋から年少組がバタバタと飛び出してきた。八人掛けテーブルが二席を残して埋まる。

 いつもの日常風景だ。


「スコール。ちょっと〝爆走鳥亭〟まで出てくるよ」

「りょー、かい」


 キッチンからリンゴを投げて寄こされた。

 俺はリンゴをかじりながらシェアハウスを出る。

 しばらく歩いたところで、俺は動かしていた顎を止めて自宅の方を振り返った。


「いつもの風景……だったか?」


 さっき八人掛けのテーブルが


 子供らは年長組のスコールとハティヤを除くと、五人。スコールはキッチンにいた。ハティヤはいない。俺は原稿を手にしたまま立ってて、テーブルには座らなかった。


 計算が合わない。二日の間に一人増えてる? 新顔なんてどこに……もいないぞ。匂いにもかからなかった。何これ、恐い。


 でも、スコールは空席が二つなことに違和感を持ってなかった。ということは、シャラモン神父やハティヤも知っていることなのか。


「俺の見間違え……いやぁ。でもまあ、大丈夫、だよな?」


 言葉尻に疑問符がつく。でも確認しに戻る勇気がなかった。

 ここのところトラブル続きだったから過敏になってるんだ。そう思うことにしよう。


  §  §  §


「よお、狼の。やっと復調したかよ」


〝爆走鳥亭〟。

 ロジェリオがほくほくとした笑顔で迎えてくれた。


 彼はヤドカリニヤ家から新婦友人枠で招待状をもらって参列の名誉に浴した。ふだん着慣れない正装が、笑えるほど似合ってなかった。俺は彼が婚約式の直前からずっと男のうれし泣きに泣きまくっていた印象しかない。


 婚約式が終わる直前に、小難しい話になって妙に静かだなと思ったら、いなかった。どうやらその道すがらに町中で二人の婚約を喧伝けんでんし、自分の店で朝まで振る舞い酒までやったようだ。


 これでウスコクは安泰だ。ロジェリオが婚約式を見てそれを確信し、ウスコクの仲間へ報せに走ったのなら、少し可哀想ではある。


 カラヤンの采配で、ウスコクは体制保守から変革打破へと舵を切る。良くも悪くもロジェリオのような伝統的な海の民は、決断の船出を迫られる日は必ず来るだろう。

 そんな未来予想はおくびにも出さず、俺はカウンター席に座って応じた。


「ええ。おかげさまで。それより……あの三人、どうしたんですか?」


 後半の声をひそめる。奥のテーブル席に珍しい取り合わせが座っていたのだ。


 マンガリッツァ・ファミリー二男モデラートと三男アンダンテ。

 そして、シャラモン神父だ。


「さあな。それより何か飲むか」

 ロジェリオがいつになく素っ気なく話を打ち切った。耳寄りな話じゃなかったようだ。


「コーヒーください」

 気を取り直して、俺は声を弾ませた。ロジェリオにも笑顔が戻る。

「あいよ。あ。例のやり方な。メドゥサにも好評だったぞ」

「ロジェリオさんがうまいと認めましたからね。大丈夫だと思ってました」


 俺はうなずいた。ロジェリオは陽気に笑った。


「こいつ。おだてても何もでねえぞ」

 と言いながら、〝クラフナ〟を二つ載せた皿を出してくれた。


 クラフナは、この地方の揚げパンのことだ。ふんわりやわらかい穴なしドーナツに近い。中にアプリコットジャムやイチゴジャムを入れる。

 コーヒーとの相性は言うまでもない。


 改めて、この世界には、喜ばしいことにコーヒーが存在した。

 豆は、南大陸からアスワン経由でヴェネーシアからリエカに運ばれてくるそうな。


 ただ、俺がこの世界でコーヒーを発見して、最初にここで供されたのはトルコ式ターキッシュの出来損ないだった。


 専用の石臼で挽いたコーヒー粉をカップに直接入れてお湯を注ぎ、上澄みだけを飲む。とは名ばかりの、トルコ人が怒り出しかねない粗茶だった。


 俺は焙煎された豆を見て、マズい原因をすぐ理解した。


 豆の焙煎色が真っ黒。イタリアンローストだった。いわゆるアイスコーヒーやエスプレッソ用だ。砂糖が薬なみに高いこの世界で、イタリアンローストの泥溜まりでは脂も浮き過ぎるし、苦みが強すぎる。


 そんなドロコーヒーをメドゥサ会頭が所望しょもうするらしく、ロジェリオも仕方なく焙煎前の生豆を置いているのだそうだ。


 これはメドゥサ会頭もロジェリオも悪い。コーヒーを飲む習慣が都会で「ナウでヤングだから」と聞きかじっただけで、淹れ方を調べもせず漫然と消費していた状態だった。


 だが、待たれよ。

 うまいコーヒーの淹れ方なら任せて欲しい。

 ツカサ直伝の学園祭風コーヒー喫茶術を会得した俺には余裕だった。


 豆があって、あの味がまた飲めるのなら、俺に一切の妥協はなかった。


 ロジェリオにフライパンでシティロースト(中煎り)に焙煎するところから教えて、布ドリッパーも自作。ネルドリップ方式を伝えた。

 今では小遣いの使い道に、夕飯前のコーヒー代がくわわっていた。


 コーヒーができるまで、俺は羊皮紙の束をひも解いて〝仕事〟にかかる。

 一番上に折りたたまれていた羊皮紙は、この世界の地図だった。


  §  §  §


 地図は、左端と右端が白紙の、なんとも中途半端な世界をしていた。

 その狭い範囲の中に、上端と下端が海。十二もの国がひしめいている。


 領土は西のアウルス帝国が最も大きく。地図の約半分を占める。


 その東の国境にへばりつくように長細い領土のネヴェーラ王国。この国は北側もアウルス帝国に押さえられている。

 ネヴェーラ王国の東側に、〝七城塞公国〟ジーベンビュルゲン


 領土は二番目に大きい。が、ビハチ城塞まで出向いた俺の感覚では、森林に覆われた辺境国だと想像できる。南東に大きな湖を抱えていた。


 次に、ネヴェーラ王国の北へ目を向ける。


 アウルス帝国の飛び出た領土・旧スロヴェキア領を越えた先に、小国が三つ。

 ヴェイロン騎士団領。モヴァノ大公国。その北にディーヴォ自由都市同盟とディーヴォ海だ。


 目を南に転ずれば、ここセニの町を最北端としたハドリアヌス海沿岸にダルマチア地域はジェノヴァ協商連合の属領。そこから東南はアスワン帝国の大領土となる。


 ハドリアヌス海を挟んだ左岸の細長い半島に四領──ジェノヴァ協商連合は、アウルス帝国の南西に位置する。


 半島の領分は、北東部のヴェネーシア共和国。山岳を挟んで左にジェノヴァ共和国。南にビッシオーネ家とメディコ家が絡み合うように領地を分け合っている。


 ビッシオーネ家は、半島南端の島も領していて、けれどその南にぽつんと浮かぶ小島はバレッタ公騎士団という独立国だ。


 いや、もう一つ国があった。半島中央よりの、おそらく山岳部。四領から庇護ひごとも忌避きひともつかない距離感で、神聖サンクロウ教国がある。


 そして、ハドリアヌス海の下端にうっすらと描かれた海岸線。南大陸だ。

 世界は広いようで、こんなにも狭い。

 なのに、何が欲しくて戦争してるんだ、コイツら。

 地図を俯瞰ふかんすると、つい俺はそんなことを思ってしまう。

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