第15話 飼い主のない羊は群れの王になれず 後編


 船上火災からおよそ半日たった夜のうち。

 セニの町。〝なぞなぞ姉妹亭〟。


「この度は、当方の不始末につき、先生におかれましてはお詫びのしようもございません」


 ミュンヒハウゼン家第一家政フランコフカ・モドラが、ペルリカ先生に少し小太りぎみの腹を最敬礼で折った。


「モドラ卿。わたしに借金の言いわけ以外で、謝ってもらうような特段の事情はないがな。此度こたびのことは、ほとんど関与しておらんよ。実害もない」


「左様で、ございますか?」


「ああ。あの〝ムラヴども〟が一枚噛んでいたのは、さすがに驚いている。しかしそれは、連絡の鳩を飛ばしてたった一日余りでカーロヴァックからこのセニの町に貴公が到着したのと同じくらいの驚きだ。

 それで? となりのきみは、ナディム・カラスだったな。なぜ妾に謝っている?」


「はっ。私はヤドカリニヤ商会で専務を仰せつかっている身でございます。この度は、管理者でありがながら〝ペルクィン〟の製造レシピを奪われたこと、ラリサ第3班長から通報をいただきまして、まことにご迷惑を」


「ふむ。双方とも律儀なことだな。例の〝存在しない〟トランクケースをここで開陳し、その中に〈ヤドカリニヤ商会〉狼の石けんのレシピ原本があった。だからラリサに商会へ連絡にやらせた。ラリサはカラヤン隊の幹部。上司に対して当然の責務を果たしたに過ぎんよ。それより、スミリヴァル殿はどうしている?」


 褐色肌の大番頭は傾斜四五度に低頭して、応じる。


「はっ。守衛庁の方で、他に奪われた書類がないか確認のため、もう一日はご挨拶にうかがえぬ失礼を、くれぐれもお詫びしておいてくれとの言づてを受けております」


 ペルリカ先生はほっそりした肩を落として、フフッと笑った。


「まったく。慇懃いんぎんな紳士たちだな。そんなに妾の機嫌を損ねるのが怖いのか?」


「いいえ。先生。怖いと申しますか、やはり今回の不届き。誠に申し訳なく思っておる次第でございますよ」

「モドラ卿に同意いたします。本当にご迷惑をおかけしました」


 二人の紳士がまた頭を下げる。


 ペルリカ先生は笑顔を収め、面倒くさそうに口許をへの字にして肩をすくめた。それを彼女のそばで眺めているラリサはちょっと可笑しかった。


「あの。先生。〝ムラヴ〟ってなんですか?」

 教えてはくれないだろうなと思っていたが、案に相違してあっさり教えてくれた。


「魔法使いの生物実験の類いだ。グラーデンが魔法界で剣以外に名を上げた魔導実験でな。一般の者が聞けば、数日は気分の悪い話になるぞ?」


「触りだけでよいのです。後でカラヤン隊長にも報告書を出したいのです。彼らが難民街の消滅の原因になった重要人物と推察します」


 ラリサもカラヤンから、知るための正当な理由という上申法を叩き込まれた。機密情報において、下官が知りすぎるのは混乱を生む。それはカラヤンから口を酸っぱくして言われていた。


 だが、本当に報告書を上げておかないとカラヤンが絶対にヘソを曲げると、ラリサには確信があった。あの上司は奇妙で楽しそうな話が大好きだ。


 狼から、そう聞いた。


 ペルリカ先生も理由があると認めたのか、ふむと話す姿勢になった。ラリサも身が引き締まる。


「ムラヴというのは本来、虫の〝蟻〟のことを指す。これはわかるな?」

「はい」


「グラーデンはかつて、生きた家畜から人間の骨格を有する人造人間を作ろうとしていた」

「か、家畜から……ですか?」


 二の句が継げない。というか生理的に理解を拒絶した。


「そして、成功してしまった。四個体だ。たまたま同じ母体から生まれた個体だったので、兄弟としてまとめて名前をつけた。それが〝ムラヴ〟だ」


「どうして、蟻なんですか」


「グラーデンは、擬人化に成功し、十五歳程度の知能をつけるに至って魔法界から賛辞を浴びたが、脳の部位である扁桃体へんとうたいという部分に欠陥があることが分かった」


「欠陥……」

「端的に言えば、欲望を制御できないという欠陥だ」


「けど、それは人間でも欲望を抑えられない人はいっぱいいると思いますけど」


「うん、確かにな。だが〝ムラヴ〟の問題はその欲望という厄介な悪魔を操れぬまま、グラーデンの思考で行動してしまうということだ」


 ラリサは顔をしかめた。理解できなかった。


「申し訳ありません。自分には理解が及びません」つい兵隊言葉になる。


 ペルリカ先生はイスに座ったまま横に姿勢を崩し、背もたれに肘を乗せて眼帯をいじり始めた。同じ女性であるラリサががみてもあでやかだった。


「うーむ。なんと言えば良いかな。語弊を畏れず言えば、グラーデンが常日頃考えていることを〝ムラヴ〟たちが察知して行動に起こしてまうのだ」


「それって……例えば、犯罪とか?」


「まさにそれだ。モドラ卿。〝ムラヴ〟たちは婦女暴行、強盗、傷害、殺人、窃盗。合計何件やったのかな」

「二七三件でございます」小太りの紳士が即答した。


 また生理的に理解を拒絶してしまった。なのに本能的には全身から血の気が引いていくのが分かった。

 ペルリカ先生は言葉を続ける。


「しかも、グラーデンから妾が聞いた話では、金の価値、女の価値、人を傷つける意味、殺す意味──つまり社会倫理をまったく理解できないという」


「あの、女の価値というのは……」

「ラリサ。婦女暴行には性交がともなうよな」

「あ、はい。というか……それが男側の主目的だと」


「ところが、〝ムラヴ〟はそれが理解できない。だから服を切り裂いて、そのフリをするそうだ」


「フリ?」

「疑似体験だ。グラーデンの思考を読んだ結果、〝ムラヴ〟どもは彼の特定女性への性欲までは理解できた。だがそれが何をしているのか理解できない。生物として致命的な欠陥的思考だ」


 そうなのかな。ラリサにはよく分からない。でも、

「なんか、気味が悪い……主人の欲望を叶えるだけで、思考がないみたい」


「まさに、それが〝蟻〟なのだ。陵辱それ自体は野蛮かつ卑劣な行為だ。しかし、それを真似るだけのヤツらには、善とも悪とも仕分けることができない。ましてや、見た目がそろって十代前半の少年だ。

 グラーデンはこのことに気づき、研究論文を取り下げ、実験設備も破却した。ところがだ。肝心の実験動物たちが逃げ出した」


「どうしてですか?」

「思考を読まれたのだよ。自分達が処分されることを悟って、囲っていた部屋から逃げた。実に動物的だと思わんか?」


「それじゃあ、持っていたお金と石けんの製造レシピはどうなるのですか?」


 ペルリカ先生は腕を組むと、指でこめかみを押さえる。


「おそらく、グラーデンの思考を複写した欲望に過ぎなかったはずだ。あの男は領主としていささか小心な所があってな。

 集めた税金はすべて領民のためだけに使い、自分の財産はブドウ園栽培やワイン醸造で住民と直接取引をして収益を得て、その金で上等な服を買い、高級とされる店に行って飲食をした。時には兵すらも外から買ったようだ。自分の贅沢に周囲からとやかく言われたくないのだろう。家令の徹底した領主教育の賜物だと推察できる」


「過分なるお褒めの言葉、恐れ入ります」モドラ卿がぺこりとお辞儀する。


「だから〝ムラヴ〟どももその真似をした。父親がしていることを幼児おさなごが真似るようにな。

 その挙げ句が、この町にある石けんのレシピだ。それをグラーデンが欲していたから、その思考を複写して奪った。それだけだ。それがどんな価値を有していたかなど〝ムラヴ〟どもには理解できてはいなかったのだろう」


「恐れながら、先生。では、どうやって弊商会から盗まれたのでしょうか」


 ナディム専務の質問に、眼帯の女主人はたおやかな指でおとがいを摘まむと、


「そうだな……グラーデンがこの町に侵攻してきた時、もう難民街はあったのか?」

「はい。ございました」


「なら、その時だろう。カラヤンやレイを始め、石けんに携わった者達がグラーデン軍に注意が向いている隙に、石けんの製造レシピを盗んでいったのだろう」

「な……っ!?」


「もちろん、屋敷に入ったのは四人でだ。子供が一人であれば不審を向けるが、集団で行動していれば、長くは注意を向けていないだろうからな。

 あの日はわたしもそうだったが、スミリヴァル殿の大手術も控えていた。もうあの屋敷は、上は当主夫人、下は洗濯女までてんてこ舞いだったし、兵士となる男女も戦の準備で頻繁に出入りしていた。

 そんな中で子供の行動をいちいち注意を払っていられる者など、一人もいなかった。唯一、妙なところで勘が働く狼も、あの時はグラーデンの目標にされていたし、レイに病人扱いされて屋敷から追い払われていたしな」


「先生。ということは、〝ムラヴ〟たちは、この町に土地勘があったということになりましょうか」


 モドラ卿が訊ねる。ペルリカ先生はこともなげに頷いた。


「ラリサ。あの似顔絵を」

「はい」

 言われるまま、ラリサは小太りの老紳士に子供の似顔絵が書かれた羊皮紙を差し出す。


「……これはっ。確かに〝ムラヴ〟たちでございますね」


「狼がロギという少年に描かせたものらしい。セニの森の不告伐採で難民街の住人の一人をグラーデンが成敗した日だそうだ。

 レイのところのユミルという末っ子が遭遇した子供たちだ。同日、望遠鏡の貸し借りでケンカになり、望遠鏡を割られたので記憶していた。

 当時は、グラーデンの術策で、難民街の子供を利用した偵察という推測が働いたらしい。だが事ここに至り、別騒動の〝黒幕〟だったようだな」


「ということは、〝ムラヴ〟たちが下見を?」


「下見ならグラーデンもしていたよ。あの時は、孫のミカエルの脚気かっけを治す薬を妾に求めに来た時だったかな。その時にはすでに〝ムラヴ〟たちも下見をすませた後だったと思う」


 モドラ卿は似顔絵を見つめたまま、呆れて様子でゆるゆる顔を振った。


「しかし、これだけの期間がありながら、よくも転売されなかったものだ」

 ナディム専務がしみじみと嘆息する。


「うむ。さっきも言ったな。〝ムラヴ〟にはグラーデンの思考は読めても、どうしてそれが欲しいのか、親の深層こころが分からないのさ。原資素体は家畜だからな」 


「な。なるほど……っ」

「さて、ご両人。もう店を閉じてよいかな?」


 紳士二人は恐縮そうに頭を下げて、うやうやしく半歩さがった。


  §  §  §


 閉店のベルを鳴ると、俺は二階から下りた。ドアの前に立つ女主人にぺこりと頭を下げる。


「この度は、大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありません」


「なあ。狼」

「はい」

「そんなに妾のことが怖いか?」

「はい?」


 ペルリカ先生が俺の肩に手をおいてくる。


「男達は皆、妾の前で居ずまいを正して身構えるのだ。妾の何がいけない? 申せ」

「ははは……と言われましても」


「忌憚なく申せ。まったくここ数百年、妾にまともに接してくる男がグラーデンとカラヤンの二択では、人生に潤いがない」


 マジかあ。いや、ここまでの美貌、知性、品格を備えられると、あのティボルでさえ酔っ払っても神々しくてうっかり近寄れないだろう。


 今や〝秩序の魔女〟に眼球がないことは、ミロのヴィーナス像に両腕がないことと同義。ないことが美の構成要素。白い眼帯が容貌をひき立てて、その……エロティックだ。


「え、えーと。それは、その。女王陛下に花売りの娘をやれというのと同じでは、ないかと」

「なんだと!?」


 しまった。花売りはこの世界では売春婦のことだった。ちなみにエディナ様んちの花屋ともまた別の意味だ。


「先生は完璧すぎるのです。ほら、男も女も掌でそっと塞げるほどの隙がある方が、尽くし甲斐があるっていいますし」ツカサの受け売りだけどな。


「見ろ、妾はいつだって隙だらけだぞ。ほら」


 うりゃー。両手を広げてみせる。クール美女がたまに見せる、あどけないポーズ。可愛いんだけど、隙だらけって事じゃあないよな。


「それじゃあ、五分だけ。俺と踊っていただけますか?」

「うん? ふむ。よかろう……優しくいざなってくれよ」


 踊りと言っても大したものは知らない。

 相手を軽く抱き寄せて、互いの頬を押し当て、左右に身体をゆっくり振りながら回るだけ。


「う、わ。ふふっ……もふもふしているぞ」

 楽しそうにペルリカ先生が声を弾ませた。


 ペルリカ先生が俺の首に腕を回してきた。胸に胸が押しつけられる。

(うおっ。い、意外と、厚い。ものを、お持ちですね……っ)


「狼。憶えておくといい。飼い主の元を逃げた羊は、どんな群れに紛れ込んでも王にはなれない。なぜだかわかるか?」


「所詮、余所者、だからですか」

「それも、ある。だが真実は常に目に見えている物すべてではなかろう?」

 ペルリカ先生は耳許で囁いた。


「逃げた羊は、飼い主の元を逃げおおせたと思い込んでいるだけで、牧童が優秀であることを見落としていたのさ」


 神の挽き臼は緩やかではあるが、余すところはない。ということか。


「では、さっきのモドラという人物──」

 ペルリカ先生は俺の頬毛に顔をうずめるように押しつけてフフッと笑った。


「ご明察だ。鳩でも三日かかる道を、次の四日目で現れられるはずがなかろう。あやつが〝ムラヴ〟たちを燃やしたのだ。ヤツらはずっと逃げ回り、彼はずっと探していたのだろう。そして、新聞でムラヴ達の次なる目標に気づいた。ことが成就し、トランクケースの中身を精査して、この店の前にそれを置いた。妾に発見させ、関係各所に通報させるためにな」


「彼には、それができると?」


「フランコフカ・モドラは、グラーデンの懐刀コンフィダントにして切り札とされている正真正銘の〝魔人〟だ。白波を踏んで海を渡ることなど造作もないだろう。

 見た目はあの通り剽軽ひょうきんな男だが、主人よりも頭が切れる。真っ当な考え方をする穏やかな性格だが、〝捨て駒〟サクリファイズには非情なまでに容赦がない。決してあやつの正面に回ってはならぬ部類の剛の者だ……ところで」


 ペルリカ先生の唇が甘く囁く。

「お前の飼い主に、妾も立候補してよいかな?」

 俺は相手を見ないように言った。


「その身は離れても繋がる絆は断ちがたし──、お互いにそうじゃないですか?」


 すると頬をびにょ~んと左右に引っぱられた。

「そういうところだぞ。この野暮天おおかみっ!」

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