第6話 星嚙みの獣と星読の巫女


 その日、平原は吹雪の宴になった。

 風の渦にフードローブの裾が右へ左へと引っぱられ、フードが後ろへはぎ取られた。頭の毛に割と固い雪粒が叩きつけられる。

 真っ暗な昼間だった。


「まぁーたぁ、独りで行く気かあ?」

 いい加減にしろよとスコールが顔を近づけてすごんでくれば、

「ありえないでしょ。おれ達も行くよ。面白そうだから」

「そったいそったい。神様、うちも見てみたいっちゃん!」

 馬車係とウルダも乗り気になって、俺一人では押し留められなくなっていた。おまけに、うちの巨馬にも服を噛まれた。馬にまで単独行動を心配されるとは。


「ちょっと確かめてくるだけだからさ……」

「「「却下っ」」」


 仕方なく、みんなで風雪の中を進む。

 空を見あげれば、厚い雲が目まぐるしい速さでとぐろを巻いている。


 この辺りも地熱を蓄えているせいか、雪が積もらない。代わりにどこを歩いてもぬかるんでいる。

 馬車で北へ十五分ほど。城壁が彼方に小さく見える平原で足を止めた。

 一区画だけぽっかりと壊された城壁の穴。


 カラヤン隊と四家の龍騎士団がヴァンドルフ領に入って三日が経っていた。

 俺はある可能性を待っていた。


 ライカン・フェニアを含めた三人の魔女が異説として困惑した俺の仮説。〝ケルヌンノス二柱説〟。ケルヌンノスが「何か探しているようだ」という大精霊の推測から、自身の片割れではないのかという仮説は、まだ誰にも言っていない。それを確かめるためにここまできた。


 その一方で、俺は〝星儀の魔女アストライア〟の預言にはいまだ半信半疑だった。

 死と再生の暗示。それがケルヌンノスのことだとしか考えられなかった。でも頭の片隅ではだからどうしたと、さほど大事には期待していなかった。


 思えば、ケルヌンノスを初めて目撃したのは、ペロイの森でだった。


 あれ以来、ふと思い出した時に探してもみるが、山ほどもある巨神の影を見つけることはできなかった。あの時は夜だったが、昼間に見えたらどんな風に見えるのか想像もできない。


 この辺で〝神蝕〟も起きた様子がなく、森の動物が凶暴化したという噂も聞かなかった。


〝魔狼の王〟騒ぎで少し疲れた。待ち人きたらずでもいい、頭を空っぽにする意味でも俺は荒野を進んでいた。そんな時だった。


 ──ぎゅっ、ぎぃいいい……っ。きぃ、ぎぎぃいいい……っ。


 鳴く風の音に、朽ちた帆船が荒れ狂う波の中で軋みあげるような気味悪い音がまじり始めた。

その異音が大きくになるにつれて、人工物の音ではないとわかる。


 ──ぎゅっ、ぎぃいいい……っ。きぃ、ぎゅぃいいい……っ。


 耳が尖り、左右に向けていた。あの不安をかき立てる音が、ユニゾンを始めだした。

 城壁の西の彼方を見る。まだ何も見えてこない。


 思わずリンクスの手を握った。誰かの手を握ってようやく自分が震えているのが実感できた。

 反対の手をウルダが埋める。その温かさに驚く。でもウルダは俺の震えに驚いた様子で見あげてくる。


「狼しゃん?」

「何か近づいて来てる。音、しない? ぎぃぎぃって音」

「音……風の音しかせんとよ?」


 俺はリンクスを見た。老婆もフードの中で顔を振る。


「知らない見えないってことの不自由は、時に幸せなのかもね」


「笑えないよ。こっちは知りたくも見たくもないってのに」

「それでも、狼はここに来た。それが全てだよ」


 リンクスが優しいのは手を握っていてくれることだけらしい。


 ──ぎゅっ、ぎぃいいい……っ。きぃ、ぎぎぃいいい……っ。

 ──ぎゅっ、ぎぃいいい……っ。きぃ、ぎゅぃいいい……っ。


 やがて、空気が変わった。


 雪が消える。風まで息をひそめた。


 雲と大地。薄灰色の世界に、ダークグレイが混じる。光の屈折で水が揺らいでいるような存在がやってくる。


 その山の頂に、鹿の頭を乗せて。

 また、城壁の向こうからも鹿の頭が姿を現した。


「来た。前方正面。距離三〇〇。ちょうど壁に穴が開いてるところ。向かい合ってる」

「ええっ。向かい合ってるっ? マジか。二匹もいるのかよ……っ」


 スコールがドン引きする。


 二柱の鹿頭は、再会を喜ぶでもなくゆっくりと接近をはじめる。

 まさに壁を境界にして、鏡ごしみたいに向かい合った。


 ゆっくりと自分の鼻先を相手の顔に埋め、それが互いの後頭部を出るのにさほど時間はかからなかった。

 ふたつの頭が一対背反になった双方の赤い眼が、ギョロリと俺を見る。見つめたままその眼が中央に集まり、前にせり出してきて新たな鹿の顔を形づくっていく。


「鹿みたいな頭が二つ重なって、一つになって……ずっと俺を、見てる」

「えっ」子供たちが俺を見る。


「敵意はなさそうだ。でも、すごい重圧。逃げる用意をした方がいいのかも」

「大丈夫だよ。向かってきた時には、どう逃げても間に合わないから」

 リンクスがにべもなく言った。


 手足のないナメクジだったケルヌンノスが、融合とともに手足を形成して二足直立を始める。上半身のあちらこちらから角が生えだした。


 それはまるで幽玄な大樹を彷彿とさせた。


 その間もずっと三鹿頭は、俺から目を離そうとしない。


 この世ならざる美しい禍神まがかみを復活させてしまった。確信したくない。予感だけでもう発狂しそうだった。それでも理性の瀬戸際に踏みとどまらせていたものは、神のごとき現象を見届けなければならないという、誰も得しそうにない使命感だった。


 俺だけがただ震えて、周りはそれを不思議そうに見ていることしかできなかった。

 その後、〝一体神〟が顔を翻した。東へ。


「ま、待っで。待ってくださび! そっちに行がないで!」


 俺は無我夢中で叫んで、城壁へ走り出していた。なぜか泣いていた。


「狼っ!?」

 背後から子供たち三人がかりで飛びつかれ、前につんのめる。それでも俺は引きずって歩いて、やがて声にならない感情を叫んだ。


「狼、どうしたんだ」

「うっ、うぐっ……ケルヌンノスは進路を東にった。たぶん中央都へ向かおうとしているのかもしれない」


「な、なんでそれがわかるんだよっ」スコールが叫んだ。

「死と再生の暗示──〝神蝕〟を起こすつもりだ」


 リンクスがハッとした様子で俺を見あげた。


「俺の知る限り、ケルヌンノスは白痴──つまり無思慮だと言われている。だけど実際は、彼なりの世界観と規則性があり、俺たちの次元では測り知れないだけなのかもしれない」


 周りが呆然としている中、リンクスがまなじりを決して俺の胸元を掴んできた。


「あいつらは、〝星嚙ほしがみの獣〟──徨魔だっ。この世界の連中があがめたてまつってるような神じゃないっ。いい加減に目を覚ましなよ!」


 俺は顔を振った。


「彼は、きみ達が[SAC―003]と識別している観測個体は、少なくとも徨魔じゃない」

「なっ!? いつの間にそんなことまでっ……それなら、否定するだけの根拠は!」


「攻撃性と飢餓性だ。ケルヌンノスにはそれがない」

 胸元を掴むリンクスの手を掴んだ。逃がさないように。


「〈ナーガルジュナⅩⅢ〉内に発生した時空歪曲亜空間にいた徨魔や、〝魔狼の王〟と戦ってよくわかった。徨魔には強度の破壊衝動や繁殖本能ばかりではなく、恒常的な飢餓性が認められた。そして、ヤツらの飢餓を癒やせるものは四次元精錬エネルギー物質。すなわち高次元知能生命体が体内で生成している、練成マナだと俺は考えた」


「ねっ、姉様みたいなワケ分かんないこと言うな!」


「だったらコペルニクスに会わせてくれ。彼女なら俺の理屈が通じるはずなんだ」

 リンクスは目を見開いて言葉を飲んだ。裏切られた目で見つめてくる視線が痛い。


「だったら……っ、なぜ徨魔は、練成マナを蓄えてるケルヌンノスそのものに取り憑かないのさ!?」

 

「リンクス。そうじゃないんだ。えっと……マナはマナでも、生命体が体内で練成するマナ。そのマナそのものをどう定義づければいいのか、俺にもまだわからない。

 そもそも【火】【水】【土】【風】の四大元素主義に基づく〝森羅〟マナは、物を創り出すエネルギーの燃料にできる精神物質だ。

 それとは別に、たとえば幸福物質であるエンドルフィンやドーパミン、興奮物質のアドレナリン。そういった感情に作用する脳内精製化学物質。これらによって科学練成される五番目のマナ物質を徨魔は狙ってるんじゃないだろうか。

 徨魔は草食動物や肉食動物でもいいのに、あえてヒトから上質なマナが摂れると理解して標的にしている節がある。ケルヌンノスは、そのための〝発信器〟として利用されてるにすぎないんだ」


「わけがわからないっ。要するにどういうことだよ?」


「要約なんてできない。これは俺がこれまできみ達に関わった中で考えた、やつら徨魔の社会システムだ。

 ケルヌンノスは、人々に寄り添って豊穣──すなわち動植物の食物連鎖に促進活力を与える代わりに、そこから余剰として生み出されるマナ物質を収穫する農耕者だ。

 ケルヌンノスもそういう意味では徨魔と似ているけど、強引に喩えるなら、ケルヌンノスは羊飼い。徨魔はオオカミと言ってもいい。共存共生の関係という意味でなら、まさに人にとってケルヌンノスは〝魔〟よりも〝神〟なんだよ。

 でもケルヌンノスは、羊から誤って攻撃されると、驚きや悲しみに近い感情信号を放出する。それも宇宙規模でだ。徨魔はそれを探知して時空の狭間からやってくる。ケルヌンノスの育てた作物や羊を食い荒らしにだ。

 このケルヌンノスの信号をたどって集まってきた徨魔は、人類を食い荒らす。ここがまさに「植物が呼びつけた〝人類の天敵〟」という図式が成り立ってる。

 だから、リンクス。徨魔の現れる前触れとされてきたケルヌンノスへの〈ハヌマンラングール〉の認識は、誤りなんだ。真実は、人類に徨魔と誤認されて攻撃されたケルヌンノスが放った信号をキャッチして徨魔達が捕食に現れている。語弊を畏れずにいうなら、ケルヌンノスはこれまでの異世界の、どこにでも現れうる〝存在〟なんだ。

 だからこそ、徨魔が自分たちの食糧を作っている生産者ケルヌンノスを攻撃しないのもそのためだ。よって〈ハヌマンラングール〉はまんまと〝獣の神〟も〝星嚙みの獣〟の仲間と見なしたんだ」


 するとリンクス婆さんは乱暴に俺の手を振り払った。

「狼、きみは気づいているか?」

「気づく。なにを?」

「その知識は、本当にってことをだよ」


 俺は、目をぱちくりさせた。


「リンクス。どういうことだ。この知識がまさか、ケルヌンノスからもたらされたとでも?」


 星儀の魔女はフードの下から挑みかかるように俺を見つめてくる。


「可能性の問題だよ。帝国魔法学会がケルヌンノスを研究対象にすることを禁忌にしてきたのは、そのためさ。ヤツは得体が知れない。きみに口寄せで、ぼくらに尤もらしいことを並べたてさせてるだけなのかもしれない」


「待ってくれ。ケルヌンノスには、ヒトの精神に感応して自分を崇めたてまつらせる能力があると? そんな立証不可能な言いがかりを持ち出してきたら、それこそキリがなくなる」


「なら、こう言い直そうか。その論説を、ぼくはもう、ある人からすでに聞いて知っていた。〝獣の神における農耕と星嚙みの獣における収奪の位置づけ〟ってヤツさ」


「それじゃあ、リンクス──」

 言い終わるのを待たず、胸元を掴む手に力が入った。


「狼。きみなんだろう? 姉様に造られたっていう魔造人間ディアブローグは」

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