第8話 本音と建前 前編
幌馬車が丘陵の上り坂をゆっくりと登る。後背にはハドリアヌス海の蒼さは欠片もない。
どこかやわらかかった潮の匂いは消え、虚無な砂風の匂いが枯れ野を走りすぎていく。
左で、派手な羽根つきのつば広帽が手綱を握る。右は、海風に荒れたボロの麦わら帽子を顔に引っかけ、黒鞘の剣を頼りにうたた寝していた。
「旦那。本当によかったんですか? 狼にひと言の相談もなく出てきちまって」
ティボルは横目で、あこがれの冒険者をうかがう。
カラヤンは軽く唸って寝ていたふりをすると、帽子の下から返事する。
「手紙は置いてきた」
「あはは……。あーぁ、狼のヤツが激怒してるのが目に浮かびますねえ」
「ちゃんと言葉を尽くして書いた。激怒される内容じゃねえ、はずだ」
「どうですかね~。アイツ、常識ないですけど、たまに旦那の理屈をあっさりひっくり返してましたよね」
返事がない。身に覚えが二つや三つはありそうだ。
「あと、奥様も」
「まだ婚約中だ。メドゥサには着いた町で手紙を書く約束で折り合いがついた。それに」
「それに?」
「石けん商売が、もうじき軌道に乗る。おれの出る幕はねえよ。だからパラミダの動向を探ってくると言ったら、悔しそうに承諾された」
ティボルはそっと嘆息した。確かに敵情偵察は必要なことだが、だからって婚約者の弱みにつけ込んで押し切ってもいいのか。そこに愛はあるのか。
「それじゃあ、シャラモン神父一家をカーロヴァックまで送る話は?」
「それも……手紙で頼んだ。スコールやハティヤも実力をつけてる。あの三人ならカーロヴァックまでなら、なんとかなるだろう」
確かにそうかもしれないが……。ティボルは微苦笑した。
スコールが自宅に押し入ろうとした強盗二人を、素手で二人とも叩きのめしたらしい。
養父のシャラモン神父に手放しで褒められて、顔から湯気がでそうなくらい真っ赤にして照れていた。
〝男子三日会わざれば刮目してみよ〟とは、年寄りの口からたまに聞くが、カラヤンの弟子になれば、あそこまで飛躍するのか。
捕まった強盗は、マンガリッツァ・ファミリーが一人三〇〇ロットで買い取ると申し出た。冒険者や賞金稼ぎに匹敵する賞金を得たことになる。
だが、少年はそれをはっきり断ったらしい。
欲しいものは金で買えない、と。あの暗殺少女のことらしい。
あそこまで師匠に似なくてもいいのにねえ……。
「旦那。あのウルダとかって灰髪の娘は、結局どうなりましたかね?」
暗殺少女は、偽ロジェリオとは別の〝棺馬車〟に乗せられていった。
その漆黒の無窓馬車は、裏の世界では、見れば魂が奪われるという伝説がある。
噂では、帝国魔法学会へ発注した特別仕様の馬車で、
中の虜囚が逃げ出そうとすれば、馬車から使い魔の両腕が現れて捕縛し、車内に連れ戻されて精気を吸われるのだとか。投げ込まれた者は地獄を覚悟するほかないらしい。
「狼やシャラモン一家からの嘆願がある。おふくろも、今じゃ狼を気に入ってるみたいでな。アンダンテの〝
血盟契約。俗称〝魔女の契約〟と言われた。契約違反は死をもって
言い換えれば、それだけあの娘が〝実力〟を持っているといえなくもない。
「でも、あの娘。巣を出るとは言っても、結局、古巣を売らなかったんでしょう?」
「ああ。だが、その意地がアンダンテのヤツに響いたらしくてな。『だが、そこがいい』って自分の傘下に置く気になってる。
もっとも、あの娘に苛烈な拷問をかけたモデラートは最後まで反対していたがな。敵を味方に引き入れるのは敵を増やすことだと。だから、おれから代案をだした」
「へえ、どんなです?」
「血盟契約の後、あの娘を狼の監視につけるように頼んでいおいた」
「はい? 狼の監視?」
どうしてそこで狼の名が出てくるのか、よくわからなかった。
「狼の頭脳は、今や他に取られては困る。おれがそう判断した。おふくろの同意も得たから、この決裁はあの娘が裏切らない限り覆らない。要はおふくろが狼に〝褒美〟をやったのさ。モデラートは監視の
「あいつがそんな大層なタマですかねえ。出しゃばり過ぎなんじゃねえんですかい」
ティボルはつい、馬車の外に小さく吐き捨てた。
この時、カラヤンは照れから、褒美の中に自分の絶体絶命を狼に救われた褒賞まで含まれていることを、あえて付け加えなかった。
また、狼は〝門の種〟という外法秘術を知ってしまった。その情報漏洩と口止めが必要だとエディナが補足したのだが、この場で言う必要もないと判断した。
ティボルがどう足掻いても、彼らの〝本音〟が聞ける立場にはなかった。
だから、カラヤンは今回の相棒が、ヘソを曲げかけていることに気づかなかった。
「出しゃばった程度のもんでもないだろ。株仲間になったからって、ヤドカリニヤ商会だけが、狼のもたらす商品で急速に大きくなられても困るというのが、弟達の主張だった。おふくろもその点にも同意したから、おれも反論しなかったよ」
どんな建前にせよ、狼にはマンガリッツァから一目置かれたことを意味する〝褒美〟が与えられた。これは揺るがない。
その褒美とは、金じゃない。マンガリッツァ首領暗殺の実行犯ウルダの助命だ。死罪獄門しかない組織の大罪人を救い出す横紙破りがまかり通るなど、狼への厚遇が透けて見えた気がして、ティボルは面白くない。
(見てろ。オレだって、あんな奴より旦那の役に立ってみせるさ)
自分でもよくわからない嫉妬だった。
無論、となりに座っているカラヤンに、ティボルの本音は伝わらなかった。
「当面、表立って狼の監視は伏せておく。あくまでも灰髪の娘の監視で通すつもりだ。
「ご想像にお任せしやすよ。少なくとも今のあっしじゃ、目が届きゃしませんからね」
そりゃあ確かにな。カラヤンは気軽に肩をすくめただけだった。
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