第15話 婀娜(あだ)めく龍となるために(15)


 エルネスト・ソルベイ。

 ベルギーの化学者で、一八六一年に電気分解を必要としない熱処理で炭酸ナトリウム(水酸化ナトリウムの前段階)の製法を考案した。


 この工程にアンモニア水を使うことからアンモニアソーダ法と一般的に呼ばれた。

 製法の発端は、工業用のガラス製造に炭酸ナトリウムが必要だったからだ。


 その炭酸ナトリウム水溶液に、消石灰(焼いた貝殻の粉)である水酸化カルシウム水溶液を合わせて加熱(複分解反応)すると、食用ではないが水酸化ナトリウムができあがる。


 できあがる。できあがってしまうのだ。固形石けんが。


 セニの町に帰ったら実験だ。そうだ、漂白剤を造ろう。それで白い布ができる。

あと、紙も造れるな。ああ、紙。なんて素晴らしい響きだ。

 次はいくら儲かるんだろう。想像するだけでちょっと元気でた。


 だが、それとこれとは話は別だ。

「水酸化ナトリウムが、どうかしたのかや?」


「いえ。俺から知識を引き出したいのなら、カラヤン・ゼレズニーを通してください」

「カラヤン? あのハゲ頭の?」

「彼が、俺の上司ですから」

「ふむ……ヨハネスの側についた男をなあ」


 黒眉の魔女は視線を上向けて嘆息した。


「なら、知識をくれとは言わん。せめて意見を聞かせてくれんかのぅ?」

「言葉が違うだけで、やってることは一緒ですよね」


 やっぱりダメか。ライカン・フェニアは悪戯っ子のように舌をぺろりと出しておどけてみた。

 仕方ねえ。コーヒー代の知識だけは払っておくか。


「アスワン帝国の〝キャノン〟を造ったのは、博士だと聞いていますが」

「誰から聞いた?」

「イフリートと呼ばれていた上位精霊から」


「ほほう、彼にも気に入られておるのか。吾輩も縁あって知り合いになってな。研究を手伝ってもらいながら、彼らについて勉強させてもらった」


「でも、博士があの大精霊を、あの砲塔の中に封じたのですよね」


 ずずずっ。音をさせながら、マグカップで不満げな顔を隠した。


「ああでもしなければ、彼らを帝国から逃がすことはできんかったのじゃ」


「逃がす? ……そういうことですか。精霊たちは随分戸惑っていましたよ。中にはライカン・フェニアに騙されたとも言ってました。〝キャノン〟には兵器という側面だけじゃなかったんですね」


「少なくともアスワン帝国の魔術師どもには、そう思わせておく必要があった。じゃからヴェネーシアから密輸までして兵器として運び込んだんじゃよ」


「自国では作れなかったんですか?」

「造ってもよかったが、それでは精霊たちの〝脱出棺〟だとバレる恐れがあった。そうすると吾輩の首が刎んでしまうでな」


 そのために海上で帝国海軍の将がカラヤンに撃破され、パオラ・タマチッチ夫人の家が破滅したんだが、この魔女にそれを言って通じるかどうか。


視線誘導ミスディレクションですか」

「んふふっ。まあ、最後は〈ガイルラベク〉に嗅ぎつけられてしまったがのぅ」


 そこで、こちらの意図を察したのかライカン・フェニアはソファに足を引き上げ、膝小僧に頬杖をついた。


「要するに、お前は、自分の知識が軍事転用されるのを警戒しておるのじゃな」


 俺は素直にうなずいた。

「火薬、電池、トランジスタと言えば、まず軍隊が掌握しましたから」

「まあのぉ。じゃが、吾輩の見識の限りこの世界に〝火薬〟は、ないな」

「本当に?」


「断言はせん。じゃから、見識の限りと条件をつけておる。アスワン帝国に十年住んだが、火薬のカの字も出なかった。舶来品の中にもそれらしい物もなかった。

〈ガイルラベク〉どもにマスケット銃の類いも渡らなければ、市場の珍品屋にさえ心管狭窄きょうさくの怪薬も置いとらんかったわ」


「そうすると。この世界の文化が、まだ火薬を戦争物資と見なしていない。ということですか」


「ふむ。それもあろう。だが、吾輩の世界でいうところの、中華帝国からこの地へ流れる陸海のシルクロード。ここを通ってもたらされるはずの荷物の中に一粒の火薬も載っておらんのは、何やら作為的なものを感じるんじゃがの」


 俺は飲みかけたマグカップを止めた。

「火薬の本質を知る何者かによって、極東の瀬戸際で流出が抑えこまれていると?」


 魔女は投げやり気味に軽く両手を広げた。

「そうとしか考えられん。もっとも吾輩もまだ極東地域へ入ったことはないがの」


 俺はマグカップを持ったまま下あごをもふった。

 確かにライカン・フェニアの推測は的を射ているのかもしれない。


 火薬。

 とりわけ〝黒色火薬〟の需要が爆発的に増えるのは、兵器使用されてからだ。


 本来、主成分である硫黄は、皮膚薬。硝石(ここでは硝酸カリウム)は、血管の狭窄症や閉塞改善の血管拡張剤(現在の硝酸イソソビルドなどに相当)の薬品だった。


 それらを混ぜた、一つの〝真っ当な薬〟としてヨーロッパへ運ばれたようだ。


 九世紀。中国唐代に書かれた道教経典『真元妙道要路』によれば、


【硫黄と鶏冠けいかんせき(二硫化ヒ素)と硝石・ハチミツを、火傷をしただけでなく自分の家まで焼いた者がいる。このようなことは道家の名誉を傷つけるからやめるように】


 という記述がある。やはり〝混ぜるな危険〟レベルの医薬品の性格が強かったようだ。


 だが、兵器としての火薬の世界的伝播が、それまでの戦争様式を一変させ、急速な殺傷効率を高めることになったのは、俺の世界では明確な歴史事実。

 そして火薬を母体にして、戦争が科学と結託してあらゆる殺人兵器を生み出した。


 その象徴ともいえる武器こそが、「銃」だ。


 配備当初こそ、黒色火薬の爆音で敵を怯ませる威嚇射撃が戦場での役割だった。

 それから雷管や照準、砲腔施条ライフリングが発明されたことで、銃の戦場価値は飛躍的に跳ね上がる。


 俺の知識は、その火薬と同じだ。


 電池一つでも、この世界で軍事転用されて広がれば、あっという間に罪のない人々に災禍を振り蒔く火種になるだろう。俺は本心から、戦争の臭いがするものに荷担なんかしたくないんだ。

 この場にツカサがいたら、なんて言うだろう。……ツカサ。何か言ってくれ。


「よし、わかった」

 ライカン・フェニアがマグカップを手にとって、コーヒーを飲み干すと言った。


「では、その知識。吾輩が全部引き受けよう。軍事転用はさせん。命を狙われるなら、吾輩のこの心臓一つじゃ。それならよかろう?」

「この場の口約束では、なんとも……っ」


 俺は露骨に難色を表明した。途端に、魔女は仕事人の顔になって立ちあがった。


「ならば、吾輩と第17階層へ行こう。見せたいものがある」

「えっ?」


 ライカン・フェニアは黒眉を引き上げて、不敵に見つめてきた。

「口約束ではないことを証明しようではないか。〝Vマナーガ〟を見せてやる」


  §  §  §


 俺は少しムッとして言った。


「博士。いい加減にしてください。俺の持っている知識が博士達のやっていることの動力源にならなかったら、どうするのです」

「……っ」

「ムトゥさんからも〝Vマナーガ〟という存在をほのめかされましたが、俺がここまで来たのは、カラヤンの代理です。ムトゥさんがカラヤンを情にほだして、第17階層にある生態スーツを──」


「えーい、うるさいうるさいっ! いいから来るのじゃ。吾輩はお前の知識が欲しいのじゃ。今この場で夫婦になっても聞き出してやるのじゃ!」


 火縄銃の話かよ……。


「では、その知識が役に立たなかったらどうします。結婚詐欺で訴えますか?」

「イフリート!」

 業を煮やす。そんな苛立ちを込めて、魔女がその名を呼んだ。


 すると、廊下側のドアが静かに開いて、赤髪の男が入ってきた。

 黒いスーツに真珠色のネクタイ。無精髭をたくわえた油田皇子が俺を見るなり、

「よっ」と手を挙げた。


 その男が誰かすぐにわかった。だって顔の造形がまったく同じだったから。

 マジかぁ。反則だろ。俺はおもわず天井をあおいだ。


「〝輝ける曙の皇子ヘレル・ベン・サハル〟っ!? 人になれるなんて聞いてねぇよっ! て言うか、なんでこんな所にいるんですか!?」


「ふんっ。人の意表を突くというのは、その者にまず情報を与えないことだ」


 質問に答える気がねえのかよ。

 俺が新客と顔見知りだと確認すると、ライカン・フェニアはさらに増長した。


「イフリート。狼を連れて吾輩についてくるのじゃ」

「わかった」


 殿下は俺のところに来て手を握ってきた。思いのほか柔らかな人の手の感触で、俺は思わずびくりとした。


「殿下。俺はこの件に関わりたくないのですよ」

「安心しろ。狼頭。余もケルヌンノスの討伐には、反対だ」


「「えっ!?」」

 魔女と俺は同時に聞き返していた。何の話?


「どういうことじゃ。イフリート。ヤツのことは話したじゃろうっ!?」

「フェニア。ケルヌンノスは帰りたがっている。たぶんな」


「なっ、なんじゃとぉ?」

 ライカン・フェニアの困惑をよそに、殿下は俺を見る。


「フェニアの願いに協力してやれ。狼頭にとっても悪い話ではなかろう」


 確かに、電気は欲しい。電気があればなんでもできる……けど。


「殿下。一体、何の話でしょうか」


「フェニアは、〝龍〟を使って徨魔の手先とされる〝ケルヌンノス〟を討伐しようと考えている。人の世界ではこれを──」


「〝神殺し〟」

 緊張で低く唸った俺の言葉に、殿下は気軽にうなずいた。


「では、殿下。それならば、あなたはなぜ博士に協力するのですか」


「フェニアは、人の身で最初の友だ。聞く話はいつも愉快だ。余を楽しませる。今回もそうだ。狼頭が海側にいた間、話に聞いていたケルヌンノスをしばらく観ていた。だが、フェニアの話とは少し違う気がしていてな」


「なっ、なんじゃと!?」

 ヘレル殿下は俺の手を握ったまま魔女を見る。


「森の大精霊とも話をしてきた。ここ三〇年、ヤツは同じ場所をずっと歩き回っているそうだ。まるで何か落とし物をしたようにな」


「落とし物じゃと?」


「森の大精霊は、仲間の糞を探しておるのだろうと言った。獣のようにな。だが、ヤツの行く先は常に滅びと再生の道だ。自分の糞さえ落ちているはずがない」


 俺は下あごに拳を置いて、考え込んだ。


「同じ道を周回している……。殿下。ペルリカ先生──魔女エウノミアは、ケルヌンノスは白痴だと言っていましたが?」


 ヘレル殿下は俺を見て、顔を振った。


「確かにアレは動物にしては知能は低い。だが、白痴ではあるまい。強いて言えば、植物に近い」

「植物? 歩いていましたけど」


「うん。だがアレは動物にある血流の鼓動をもたない。人から神とあがめられるに足る、樹木や風雨の鼓動に近かった。ゆえに、ほふるべきではない。アレは星の眷属だ」


莫迦ばかを申すなっ、イフリート!」

 ライカン・フェニアが半狂乱で叫んだ。


「我々〝ハヌマンラングール〟は、ようやく反撃の糸口を見つけたのだ。母星を蹂躙し、家族同胞を喰らった徨魔の巣を見つけるための手がかりが。それこそ自分の複製を何百体も拵えて、時間を超越して、ここまで来たのじゃっ」


「ふん。お前らしくもないな。フェニア。結果を掴むためなら、時間も仲間の犠牲も惜しまぬと言ったのを忘れたのか?」


「忘れておらんっ。だから、結果はもう目の前にある。もうすぐだ!」


「違うな。その結果は、幻想だ。この世界の友人として、もう一度言っておく。アレは屠るべきではない」


 呼びつけた協力者に計画を否定されて、ライカン・フェニアは顔を真っ赤にしてその場で地団駄を踏んだ。かわいいのに、可哀想になってきた。

 あと、このままではこの魔女は暴走しかねない。ライカン・フェニアもまた、ここまでの旅路に限界を感じているのだろう。


「ハァ~……わかりました」

 俺はため息まじりに言った。本当に、ため息とともに言った。

「〝Vマナーガ〟を見せてください。その上で、あなた方の交戦記録をあるだけ、すべて見せてください」


「こ、交戦記録? 徨魔とのか? そんな物を今さらどうするっ」

 冷ややかな目を向けられたので、こちらも冷ややかに応じた。


「あなた方の歴史を知らなくて、どうして協力できるっていうんですか。とっとと図面だけ描いて、子供たち連れて帰りたいんですよ。俺は」


 突き放すように言って、俺はライカン・フェニアを促した。

 その間も、殿下は俺の手を握ったままだった。

 どういうつもりかは、知らないけど。なんだか、恥ずかしくなってきた。

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