第21話 翡翠(ひすい)龍の子(5)


 部屋に招じ入れられると暖炉で焚かれる薪の匂いに混じって、書物の匂いを嗅ぎとった。

 

 それから執務デスクにはグラスが二つ。

 カラヤンはその横に、持参した蒸留酒のボトルを置いた。


「ほう。これは美しい。紺碧のボトルとは、珍しい色ですな」

 イスに座ってムトゥ家政長が感嘆の声を洩らす。


「中身も器も、セニの町で友人が作った物です」

「ほほう……然様さようですか。興味深い」


 ムトゥ家政長は、ボトルを手に取るとワインオープナーを使ってコルク栓を抜いた。それからコルクを鼻先に近づけ、楽しみが増えた笑顔を浮かべた。


「熟成は若いながら、丸みと落ち着きが感じられますね」


「ムトゥ殿。だいぶお好きのようですね」

「ふふっ。寒い季節ともなれば、これしか楽しみがなくなりますゆえ」


 そう言って、トクトクと小気味よい音をさせて琥珀色の液体をグラス四分の一まで注いだ。カラヤンはグラスを手に取った。


「何に乾杯しましょうか」


「わが龍公主ニフリート・アゲマント・ズメイに」


 カラヤンに異存はなかった。

 この出会いはあの少女が引き合わせてくれたようなものだ。

 グラスを掲げ、お互いにす。

 そして今度はカラヤンからグラスに四分の一を注ぐ。


「次は何に乾杯しましょうかな」

「わが母、エディナ・マンガリッツァの健康に」


 そう言って、カラヤンはグラスを乾した。

 だが、ムトゥ家政長は口をつけず、見開かれた目でじっと見つめてくる。


「カラヤン・ゼレズニー。本名ではなかったのですな」


「通称です。ですが、おれはこの名が気に入ってる。本名は、アレグレット・マンガリッツァと言います」


「では、其許そこもとが〝ハドリアヌスの魔女〟の七兄弟で、十数年にわたり消息不明と言われながら、家族の危急を救ってきたという七人目の」


 やはりここに来て正解か。カラヤンはグラスを持ちつつ、もう一方の手で頭皮をかいた。


「いや、そう言われるとなんとも面映おもはゆいですね。風来の癖が治りませんで」

「……此度こたびは、それがしの首級くびがご所望ですか」


 カラヤンは陽気に大笑し、老人の懸念を笑顔で左右に振り払った。


「まさかまさか。この地に訪れたのはおれの独断ですし、誰からの指図も受けておりません。ましてや、ムトゥ殿の首級など手土産にすれば、母に叱られるでしょう」


 家政長は無言のままグラスをあおって、デスクに置いた。そこにまたカラヤンが琥珀の液体を注ぐ。


「では、カラヤン殿。串刺し旅団の頭目をお捜しの理由はなんでしょうか?」


「確かに、弟達の間では母の命を狙ったやから許すまじと息巻いております。ですが、それよりもおれは、なぜあのタイミングで串刺し旅団が母の暗殺を企てたのか、その真実が知りたかった。それだけです。

〝ハドリアヌスの魔女〟が、必ずしも万人から愛された存在ではないことは、母自身がよく存じておりますから」


 婚約式の後も母の眼前まで暗殺者を近づけてしまった。そのことで幹部おとうとたちの屈辱にまみれた怒りは収まらなかった。


 とくに二男のモデラートがひどい。串刺し旅団を根絶やしにしても飽き足らなぬ姿勢を崩さないのだ。正直、カラヤンも母も他の兄弟もまずいと思い始めていた。


 だがカラヤンの中では、すでに目の前の老人への敬意が醸成されつつあった。いわゆるこの男一流の〝人材欲しがり病〟であった。


 ムトゥはしばし浅くうつむいたまま押し黙ると、やがて目線をあげた。


「カラヤン殿。アスワン帝国の御家事情はご存じですかな?」

「御家事情、ですか……いいえ」


 カラヤン自身はアスワン海軍と戦ったり、ビハチ守衛要塞に囚われてみたこともあったが、本国事情までは興味がなかった。


 ムトゥ家政長はようやくグラスを乾して、息を吐き出した。


「こたびのカーロヴァック戦役の直前。アスワン帝国本国では、アスワン3世のお世継ぎスレイマン4世の養育を巡り、王妃ミロスラーヴァと、太后シャリアのいさかいが軍部まで飛び火して内紛にまで発展しそうな兆しがありました」


 カラヤンはうなずく。ムトゥ家政長は酒で少し唇を湿らせて言葉を継いだ。


「わが〝七城塞公国ジーベンビュルゲン〟は元首サルコティア・ズメイの政策の都合から、太后シャリアについたのです。

 一方、〝ハドリアヌスの魔女〟は、王妃ミロスラーヴァについた。より正確に申せば、数年前までは太后シャリアだったのが、仲違いをして王妃の肩を持つようになったのです」


 母とアスワン帝国太后が仲違い。聞いたことがなかった。


「母のくらえの原因もご存じで?」


「ふむ。正確な時期は定かならずですが、太后が帝王親衛隊〈ガイルラベク〉と結びついて王族の粛清をはかったようですな。鞍替えはその直後です」


 そこでカラヤンは膝を手で叩いた。


「思い出したっ。ガイルラベクか。帝王の親衛隊たぁ聞こえはいいが、帝国内の各都市にのさばっていて無茶な法律を出させたり、町の方針が気に入らねぇと暴動を起こして町の破壊に精を出す。あちこちで鼻つまみ者になってる不良将校だ」


 いつだったか、盗賊時代の話だ。

 ヴェネーシアからの交易品に非公式の関税や通行税を要求されたとかで、母の逆鱗に触れたバカ者がいたらしい。

『ちょっと組織を二つほど潰してきて』と〝お使い〟を頼まれたことがあった。


 シャンドル盗賊団も少し落ち着いた頃だったから、数人ほど連れて砂漠地域まで出張ったことがある。結局、剣すら使わず、「お前の愛人を寝取ったのはアイツだ」と告げ口するだけで共倒れしてくれたので、すっかり記憶から抜け落ちていた。


 おそらく、その時のことを根に持ったガイルラベクが、太后シャリアを丸め込んで母と仲違いさせたのかもしれない。


 だがヤツらは、母の怒りを甘く見すぎてたようだ。

 そのことをムトゥ家政長が説明してくれた。


「〝ハドリアヌスの魔女〟の支援先のくら替えとほぼ同時期に、通称〈ジャッラーフ(外科医の意)〉なる秘密警察機関もまた王妃につきました。

 これにより、太后と〈ガイルラベク〉。王妃と〈ジャッラーフ〉という敵対構図をとることになりました」


 反目させたのは、母だろう。根回しで諜報部隊を王妃につかせたに違いない。


「だからガイルラベクのヤツらは、王妃側の最大支援者〝ハドリアヌスの魔女〟暗殺をわざわざ他国に依頼せざるを得なかった。それが〈串刺し旅団ロマ・ツェペシュ〉だった。そうですね、ムトゥ殿」


 カラヤンは老人を見た。

 ムトゥはうなずくことはしなかったが、表情穏やかなまま目線を下げた。


「なるほどな。そういう真相カラクリだったのか」


 カラヤンは膝をバシバシ叩きながら会心の笑みを浮かべた。これをモデラートに報せれば、弟の溜飲はようやく下がるだろう。

 アスワン帝国には連日、血の雨が降り続くことになるだろうが。


  §  §  §


 カラヤンが納得したところに、いきなり家政長室のドアが開け放たれた。

 廊下からパオを着たニフリートが飛び込んできた。義肢も装着していた。


「おひい様っ!」

 後から追ってきたのは、カルセドニーという侍女だ。入口の前で礼儀正しく低頭する。


「おひい様、どうかなさいましたか」

 すがりついてきた龍公主を抱き留めて、ムトゥ家政長は笑顔を浮かべた。

「じい……っ。なんか酒の匂いがするぞ」

「ふふっ。なかなか良い酒をご馳走になっておったのですよ」


 穏やかに微笑むじいやに、ニフリートは赤子がむずがるように顔をくしゃくしゃにした。


「姫さん。甘い物は好きか?」

 カラヤンが腰の小袋から羊皮紙に包んだ物を差し出した。


「なんじゃ、それは?」

「携帯ケーキだ。小麦粉にクコの実や松の実、牛脂と牛乳をまぜて焼き、麦芽糖で固めたもんだ。子供にはちと固いが、少しずつかじると割と食えるぜ」


 ニフリートは羊皮紙を開くと棒状のケーキをみて表情を緩めたが、食べ物に懐柔されたわけではないと不満顔でかじった。


「ふむ。悪くない」

 そう軽口を叩いて応接ソファに腰掛け、かじることに夢中になった。


「あれも、ご友人の作ですかな」ムトゥ家政長がもはや呆れ口調だった。


「ええ。寒い場所では甘い物が不可欠だと言ってましてね」

「ふむぅ。──それで、カルセドニー。おひい様はどうなされたのだ?」


 ムトゥ家政長が訊ねると、侍女は恐縮した様子で肩をすぼめた。


「それが、あの。先ほどミルシア兵長から今朝、執政庁より宰相閣下名義で登城されたしとの請願がございまして」 


「なるほど、の」ムトゥ家政長の眼に一瞬、警戒の光がよぎった。


「じい。あんな所に行ってもつまらん。ワシが行ったところで何も変わるまい」

 ぼそぼそと携帯ケーキをかじりながら、おひい様は不平を言った。


「なれど、公務なれば。おひい様におかれては龍公主としての責を全うしていただきたく」

「いやじゃ」

「おひいさま」


「いやじゃいやじゃ、いやじゃ! じいたちは難しい話ばかりをして、ワシを一人置き去りにする。それならいっそワシが行かずとも話は進むのであろうっ。じいたちで勝手にやればよいではないかっ。ワシは行かぬぞっ!」


「これはこれは、大変だ」カラヤンが慌てた表情で家政長に言った。「ムトゥ殿。姫さんはお風邪をめされましたぞ」


「なんと?」

「外をご覧になったでしょう。雪が降りました。ですから姫さんは風邪をめされたのです。二、三日様子を見てはいかがですかね」


 侍女が不快そうに眉をひそめた。

「失礼ながら、あなた様は何を言って──」

「おお、これはしたり!」

 突然、老人もいささか芝居がかった大げさに嘆いてみせた。


「おひい様が風邪を召されれるとは、それがしも不行き届きでござったわ」

 ムトゥ家政長は、にっこりと笑ってうなずいた。


「登城を日延べしてもらうよう答申するとしましょう」

「ご家老さまっ!」

 カルセドニーは狼狽して、どこか生真面目そうな金切り声をあげた。

 ムトゥ家政長は侍女を宥めるように手を振って微笑んだ。


「ですが、おひい様。その間、少しお勉強をいたしましょうか。何について会議されているのか、おひい様にも知っていただかなくてはなりませぬぞ」


「勉強は嫌いじゃ。が、仕方ないのう」

「それ、おれも同席してよろしいですか」

 来客の申し出に、ニフリートが小首を傾げた。

「カラヤン。旅人のおぬしが訊いてどうするのじゃ?」


「勉強ってのは一人でやると理解が遅れるもんだ。おれもこの国の政治ってのがよくわかってない。是非知りたいですね」


 ムトゥ家政長が微笑んだ時、廊下からミルシア兵士長が飛び込んできた。


「伝令です。城壁町で狼の頭をした人間が現れて、騒ぎになっているとの由」

「魔物が城門から? 城門兵はどうしたのだ?」


 怪訝に眉をひそめたムトゥ家政長をよそに、カラヤンは両手を打った。


「カラヤン殿?」

「失礼。申し訳ありませんが、その者に迎えを差し向けていただけませんか」


「迎え? では、狼の頭というのは、例の用術家のご友人ですかな」

「ええ。ちょっと風変わりなところがありますが、これ以上の援軍はありませんよ」

 窓の外の雪は、勢いを増すばかりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る