第18話 空が明日を分かつとも(18)


 サヴァイア=アオスタ家の朝は、早い。

 朝六時。前日の残務と今日の準備作業。

 それが終わると、朝食。時間をかけて八時までに終える。


 その頃あいを見計らったように門前にローブを着た一団が現れたと報せが入る。四人の男女でマンガリッツァを名乗った。


 ウジェーヌ公爵は、思わず目を閉じて眉間にしわを寄せた。

 フランチェスカからの鳩は届いている。

 おそらく、これが彼女にとって最後だろうと。

 最後。寂しい言葉だ。そして身につまされる言葉だ。


(メトロノーラ……お前はそれでよいのか。最愛の母ではなかったのか)


「御館様っ」


 応対に出ていた執事ジギルが血相を変えて戻ってきた。娘に家庭教師の授業を受ける時間だと言い聞かせて部屋に追い立てる。


「〝ハドリアヌス海の魔女〟が、エディナ・マンガリッツァが、今度は僭主ヴィスコンティ家の親書を持参して参りましたぞ!」


 当家の家政は普段そつがないのに、庶民──とりわけ魔女に対する偏見が強すぎる。ウジェーヌ公爵は無言で頷いた。書簡を受け取ると、その場で封を切った。


【 此度、エディナ・マンガリッツァの背後に、ゴブリン八〇〇〇を屠った狼の一団の存在がある。その者、表に出ず功をなし、恩を売る者。貴君にとり、一応の信を置いてみても面白いかもしれん 】


 時候も挨拶もなく、用件だけ。

 ゴブリン八〇〇〇とは、嘘くさい。狼の一団とは。


 会えば軽口ばかり叩くフランチェスカにしても、話が大きすぎる。しかも公式書簡で、この世迷い言のような話を信じろというのか。


(表に出ず功をなし、恩を売る者……一応の信を置いてみても、面白いかもしれん、か)


「ジギル。エディナ・マンガリッツァをここへ」

「御館様。よろしいのでございますかっ」


「メトロノーラの母であれば、わが母も同じだ。だがメトロノーラにはまだ話を通すな」


 郷里に病状を伝えて、なんとか妻を励まそうと手紙を送ったのは、この自分。そして実の母親の接見を拒絶しているのは他ならぬ妻なのだ。


(この情況。持て余していると口にできたなら、どんなに心晴れやかだろうか)


 やがてドアマンが、エディナ・マンガリッツァの来訪を告げた。

 ドアが開いて、銀のゴシックドレスに身を包んだ妙齢の婦人と、その背後に続く黒スーツの若衆三人が現れた。


「お久しぶりでございます。ウジェーヌ様」

「久しいな。エディナ。そなた、あまり変わらぬな」

「年相応になりました。陛下こそ、少しお痩せになられましたかしら」


 そうか、私は痩せたか。十七年。幸福で太ったと言われたこともあったのに。


「実は、此度。閣下に折り入ってお願いの儀があり、はるばるリエカよりまかり越しました」

「うん……」


 彼女の若衆が控えの間に下がらない。怪訝に思っている間に、エディナが言葉を継ぐ。


「公爵夫人メトロノーラ様を身請けに参りました」


 ウジェーヌ公爵は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「今、なんと申した。接見の所望ではないのか?」

「はい」


 それで思わず視線をそらして、若衆を見る。彼らはまさか……。小領といえども公爵家。よもや邸内で力尽くの狼藉がまかり通ると思っているのか。


「エディナ。まさか今すぐにというわけではあるまいな」

「いいえ。今すぐ、でございます」

慮外りょがい者があ! ここをどこだと思うておるか。無礼な平民め!」


 背後の執事が大音声で罵倒する。ウジェーヌ公爵はそれを手で制した。主人の耳許でわめくな。うるさい。

 彼女はこんな慮外りょがいな人物ではなかった。ある意味、彼女の知性と品格にも惚れ込んで、その娘なら間違いあるまいと確信したところもある。


 貴族社会では娘一人に僭主の地位を捨てたと言われているが、正直どうでも良かった。あんなもの、空席が続けば自然とお鉢が回ってくるものだ。

 逆にメトロノーラをめとったことで民衆から人気を博したことの方が重要だった。今代のラブロマンス。劇場化までされたのには、苦笑を禁じ得なかったが。


 リエカで婚礼パレードをしたお陰でこの領地に流されても人々に知られ、前以上に潤うようになった。領国を富ませるのは地位ではない。人だ。そう思い知らされたものだ。

 それに、男なら、わが子を思う母の必死の請願を無視してはならない。

 そう、妻の亡き父から教わった。


「エディナ……昨日、居酒屋で騒ぎがあったと聞いたぞ」

「ふふっ。もう閣下のお耳を騒がせておりますか。申し訳ございません。この場にて謝罪いたします」

「では、やはりあなたの手の者の騒ぎか」

「はい」


 領地は狭い。ちょっとした噂でもすぐに耳に入る。だから妻の病床の噂にフタをするのにもどれだけ労苦を割いてきたか。


 そういえば、居酒屋に現れたのも、狼頭の男だった。

 随分な怪力の持ち主だとかで、昨夜〝落花生亭〟に現れ、腕相撲で十七人抜きをした上、客に振る舞い酒をしたという。


(……狼。狼の一団……エディナが関係しているのか?)


「ふふふっ。相わかった。信じてみるのも面白いかもしれん」

「閣下?」


「エディナ。あなたにメトロノーラを任せよう。だが言っておく。私はメトロノーラと離縁するつもりはないぞ。彼女にはサヴァイア家の墓に入らせる。誰が何と言おうとも私の隣だ」


 エディナは笑顔で頭を下げた。そして次に顔をあげた時、魔女の顔になっていた。


「それでは、これより取り決めを行いましょう」


 エディナは褐色肌の若者に椅子をひかせて着席した。

 ウジェーヌ公爵も着席すると、金髪の若者が羊皮紙を両手にもって一礼し、羊皮紙を差し出した。

 受け取って開いた羊皮紙に書かれた内容に、ウジェーヌ公爵はあ然とした。


【 メトロノーラ公爵夫人様 解毒治療および宿下がり承諾について 】


  §  §  §


 商館〝白い荒野亭〟

 朝食のキッシュと、かまどの上に置いておいただけのミルクで紅茶のインゴットを溶かし込んだだけの飲み物を女性陣に供す。


「フレイヤ。調子はどうかな」

「ええ。おかげさまで、だいぶいいみたい」


 フレイヤは微笑むと、キッシュを美味しそうに頬ばった。もう心配ないようだ。俺は頷いて、妙齢婦人を見る。


「エディナ様。ご相談が」

「相談……急ぐのですか?」

「はい。メトロノーラ様のことについて。俺の取り越し苦労であればいいと思っています」


「今、聞くわ。なんのことかしら」

「まことに勝手ながら。昨夜、スコールとヴェルデをサヴァイア=アオスタ家に偵察に出しました」


「偵察?」

「理由は、魔法の構造を説明するように特異な事情です」


「特異な事情……。わんちゃん。包み隠さず話してちょうだいっ」


 俺は頷いて、町の買い出しでヴェルデが鳥から聞いたという公爵夫人の衰弱を話した。さらにその情報を信じて、俺が二人を偵察に出したところ、公爵夫人と思われる女性が緑の部屋で体調を崩して病床にあることを伝えた。


 エディナ様は朝食に手を付けないまま皿をサイドテーブルに置いた。


「メトロノーラ様と接触できたの?」

 身分が違うので、実母でも公爵夫人となった娘に尊称をつけた。


「はい。スコールが室内に潜入し、母親に会いたくないかと問いかけたそうです」


 背後でフレイヤが胸を叩いて咳き込む声がした。旅先で、夜も遅くに女性の寝室に押し入ったのだから、驚くのは当然だ。


「それで、メトロノーラ様はなんと答えたかしら」

 エディナ様の目が真っ直ぐを俺を見つめる。


「会いたくない、と。こんな姿を母に見られたら、もう死ぬしかない。そう仰ったそうです」


 俺のまっ直ぐ見つめ返す視線に、エディナ様は唇をぐっと噛みしめた。それから、俺の手を握った。


「わんちゃん。あなた何に気づいたのかしら。もしかしてその病?」


「はい。メトロノーラ様の病について、心当たりがあります。ただ、実際にその目で見たわけではないので、あくまで推測の域を出ておりません。ですが、これが的を射ていれば一刻の猶予もなく、公爵夫人を部屋から連れ出す必要があるかと」


「言ってちょうだい。間違っていても、わたくしの首一つ落ちるだけですみます」


 伊達や酔狂で言っていないのは俺の手に込められる力で分かる。腕相撲の握力ではない。わが子を助けたいという母の切なる愛情に圧倒されそうだ。


 俺はイスを持ってきて、腰かけた。


「エディナ様は、〝アルセニコン〟という物質をご存じですか?」


「アルセニコン……。たしか古代エルメネス朝時代からある、黄色い顔料のことだったかしら。その時代の黄色い陶器を焼く時の釉薬ゆうやくにも使われたわね」


 やっぱり、あるのか。この世界は、俺のいた世界と時代文化が違うだけで構成物質はほぼ同じらしい。なら、火薬の発明だけが遅れているのが本当に謎だ。いや、今はそんなことはどうでもいい。


「俺のいた場所では、その〝アルセニコン〟を〝ヒ素〟と言って有害な毒物でした」


 ヒ素。

 窒素族元素の一つ。半金属で、灰色、黒色、黄色、そして四ヒ素という同素体が四つ存在する。リンに似た性質を示すことから、あらゆる生物への毒性の由来になっている。

 そのため農薬や防腐剤の一成分として使用されるが、殺人毒としても悪用された。

 イギリスでは「愚者の毒」。フランスでは「遺産相続の粉薬」という異名があった。入手が容易で、現実に遺産相続者を狙った殺人が横行したためだ。


 一方、毒素が体内に残留するため容易に検出できることから、完全殺人には程遠い毒物としても知られるようになった。 


 俺が読んだミステリー小説にも「あえて発見される毒」としてヒ素は用いられた。ストリキニーネ、シアン化合物(俗に青酸カリ)と同じくらいメジャーな小道具だ。


「毒物っ!? それじゃあ、メトロノーラ様は……何者かにっ?」


「いいえ。他人の害意による可能性は低いと考えています。おそらく、そのアルセニコンを含んだ調度品から揮発きはつした空気を吸ったことによって、長い年月をかけて病を得ることになったのではないか。と俺は推測しています。その原因となっているのが、ご自身が居室にしている〝緑の部屋〟なのです」


「緑の、部屋?」


 俺はヴェルデが描いた図面を見せて、スコールが見てきた室内の様子を鉛筆で書きくわえて説明した。フレイヤがベッドから出て、遠巻きに覗きこむ。


「メトロノーラ様は、部屋の本虫を予防する手立てを要望し、内装職人がメトロノーラ様にすすめたのは、酸性亜ヒ酸銅を塗布した緑色の壁紙なのかもしれません」


「壁紙……それを見分けるにはどうすれば良いのかしら」

「この成分は、硫黄いおうなまりに弱く、触れると黒く変色する反応を見せます」


 俺は、小さな革袋を見せる。硫黄だ。まきに火を付ける際の木っぱに着火剤がわりに塗って使用する。この町でも割と安価に変える。


「でも、緑の壁紙なんて珍しいわね」


「はい。そのため室内は、独特の臭いを持っています。スコールとヴェルデからもニンニクの臭いを覚えたと報告があがっています」


 黄色ヒ素は、ニンニクに似た臭いを放つ。これに酸化銅の青を混ぜて緑を作り上げたのだろう。いわゆる、前世界で言う〝シェーレグリーン〟だ。


 シェーレグリーン。

 スウェーデンの科学者で薬学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが、一七七八年に初めて合成した。これが合成緑色顔料の嚆矢こうしとされる。


 もっとも、品質はさほどでもなかったようで、黄緑色を呈するが短期間のうちに褪色たいしょく現象が始まる。公爵夫人が三年ごとにする自室の模様替えに壁紙の張り替えまで含むのは、この褪色による可能性が高い。


 それでも、一時期はこれがインテリアの最先端色と見なされ、売れた。十八世紀から十九世紀の絵画に使用された緑の大半はこれだったと言われる。多分、一個単価が安かったからだろう。そしてある人物もこのシェーレグリーンの壁紙を使っていた。


 その人物の名を、ナポレオン・ボナパルトといった。


 彼はワーテルローの敗戦後。セントヘレナ島の幽閉生活で生涯を終えるにあたり、自宅の壁紙としてこのシェーレグリーンが使用されたようだ。当時はそれほどポピュラーだったと言っていい。


 死後、彼の毛髪から現代基準にして高濃度のヒ素蓄積が認められた。そのため彼は慢性ヒ素中毒による発がん。胃がんが有力とされている。

 彼の胃弱は生前から有名だったし。ヒ素毒で胃弱が悪性腫瘍に助長していても不思議ではない。


 閑話休題それはともかく


「わんちゃん。わたくしは何をすれば良いのかしら?」


 エディナ様の真摯な眼差しを向けてくる。

 俺は紙を畳むと、キッシュの皿の下に挟んだ。


「この後、ちょっと死んでいただけますか?」

「狼……っ!?」


 フレイヤが心配そうに見つめてくる。俺はエディナ様に言った。


「公爵閣下へ、俺からの提案が十六ほどあります。これが公爵家に認められたら、エディナ様は二度とこの地を訪れることはできなくなってしまいます。かまいませんか?」


「それでメトロノーラ様は助かるのね?」


 母親の希望がこめられた眼差しを、俺は顔で振り払った。


「ここまで話したことは、あくまで俺の推測でしかありません。本当にメトロノーラ様がアルセニコンによって身体をむしばまれているのか。他の病なのか。部屋を調べ、彼女に会って話してみないことには分からないのです」


 心配そうに俺とエディナ様を交互に見つめるフレイヤ。

 エディナ様は視線を下げたまま押し黙っていたが、やがて顔を上げた。


「わかったわ。それでメトロノーラ様の命が助かるのなら。喜んでこの命を捨ててみせるかしら」


 ゴッドマムの決断に俺は頷くと、イスから立ち上がって部屋を出た。

 用意するのは、入院承諾書の作成と、あと馬車と棺桶かんおけだ。

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