第4話 夜鐘
河口を出ると、正面に灯台の光が見えた。
「あの明かりは?」
ハティヤが訊ねた。バカラルは周囲の海を見回しながら、
「ロビニの町の灯台だ。……潮の様子がおかしい。──ヤスっ。
ヤストログはカンテラを持って帆柱にとりつくと、半ばまで登って、前方の陸へ目を細める。
「な。なんだ、ありゃあ!? どうなってんだ」
ヤストログは怖じ気づいた声でうめいた。
「ヤスっ!」
「海岸の周りが干上がっちまってるっ。ずっと向こうまで底が見えちまってるんだ。バカラ、取り舵三〇度っ。このままだと干潟に乗り上げちまう!」
「了解。ヤスっ。帆を上げろ! 潮に逆らっても、沖に出るぞ」
「ヴェネーシアの潟は元もと遠浅の干潟だってきいたがねえ」
ティボルがぼんやりと言った。
「オッサン。それは干き潮の時だろ。今はまだ満潮の時間だ」
「なんだって?」
「満潮ってのは一日に二回起きる。今朝、来る時の満潮は低高潮といって海面がそんなに高くならない満潮だった。だから夜、髙高潮。海面が高くなる満潮になるはずなんだ」
「なんでそんなことまで、わかるんだい」
「毎日その周期を気にするのが、船乗りの関心事なんだ。野菜を作る農夫が天気を気にするみたいにな。満潮時の海面の高さによっては魚の位置が変わったり、物を運ぶ船の積載量が変わる。低いと船底が海の底の岩礁にぶつかりやすくなるからだ」
「なるほど。それで?」
「満潮の時期に、これだけ潮が引くのは、〝カリュブディス〟の仕業っていわれてる」
するとにわかにティボルが笑い出した。
「ちょっと待てよ。急におとぎ話に入るのは、オレを笑わせたいのか? 船長」
「ティボル。知ってるの?」ハティヤが訊ねた。
「〝カリュブディスの食事〟って、ハドリアヌス海周辺に伝わってる海のおとぎ話だ。海の満潮と干潮を作り出している渦潮の魔物〝カリュブディス〟。こいつが蟹だか岩魔人だかの姿をしてるらしい。そいつが一日に三回、海底で海水ごとあらゆる物を吸い込んで食っちゃあ、飲んだ海水を吐きだしている。
で、食ってる時が干潮で、吐きだしてる時が満潮ってわけさ。ヤツの食事は三回だから干潮が三回で、満潮が二回だな。だからヤツが海底にいる時は海上では渦ができる。おとぎ話さ」
「それじゃあ、その食事が満潮時に起きるのはなぜだ」
バカラルは闇の先を睨みつけた。ハティヤはティボルを見つめる。
「えっ。満潮時に食事? ……ちょっと待て。確か……客が来たとかなんか」
「客?」
「す……すー、そうだ。〝スキュラ〟だ。上半身が絶世の美女で、下半身は巨大なタコの足を持つ。こっちも渦の魔物だ。だがお互いにソリが合わないらしくて、滅多に海底で出会わないが会えば必ず喧嘩する。
その最中に運悪く海上を通った船は、その渦に航行の前後を挟まれて、どんな大型船でも飲み込まれて一巻の終わりだって話だ。で、船乗りが海上で渦に挟まれて進退窮まった時に言うらしい」
「ここはまさに〝スキュラとカリュブディスの狭間〟だ──ヤスっ、ホールドオン。ビーレイ!」
舟が横風を受けて押され、左舷が沈む。ぐんぐん速度を上げはじめる。
バカラルは舵を抑えながら焦燥と困惑を混ぜた声で、うめいた。
「確かにおれ達はまだ、進退窮まっちゃいない。だがウスコクは潮を見て、沖を思えと言われてる」
「潮を見て、沖を思え?」
「ウスコクは〝スキュラとカリュブディスの狭間〟を、
「渦潮の全解放……津波かっ!?」
ティボルはゴクリと生唾を飲んだ。バカラルは少し楽しそうに微笑んだ。
「オッサン、おれの船乗り話を信じてくれるのか。あんた本当に商人か?」
「郷に入りては郷に従え。船に乗りては船乗りに従え。俺は平和主義者なのっ。そんなことより本当に津波が来るのか。どうすんだよ。これから!」
「大型船を飲み込んできた渦潮を陸にぶつけてくるんだ。こんな小型船ならあっという間に飲み込まれちまうんだろう。それまで足掻くだけだ」
「だから、どうやってっ!?」
「船に乗りては船乗りに従うんだろ? おとなしく船室に入っててくれ。手がたりなくなったら呼ぶ」
「目標だけでも教えてくれる?」
ハティヤが真っ直ぐな眼差しで訊ねる。バカラルは、つと目線をそらせて、
「一か八か、リエカを目指す」
「リエカ。プーラの東?
「そうだ。今、目の前に見えてる岬の向こう側だ。あそこまでいけば津波がきても、被害が軽微ですむ。かもしれない」
「わかった」
「……あと」
「え?」
バカラルは一瞬ためらってから、どこか苦しそうに言った。
「うちの親父の与太話を思い出した。スキュラは、カルキノスって
ハティヤはスコールと目配せしてから頷いた。
「ええ、もちろん。あなたたちの舵取りを、私たちは信じてる」
「ああ。
§ § §
唐突に、風が息を止めた。
星のない夜。波も
目の前にプーラの町。灯台の明かりが頼もしく。その後方に並ぶ町の明かりはまばらで、自分達がこれから被るであろう災難に無知であると知れた。
それは仲間との会話の、二五分後だった。
二人の水夫見習いは、沖に現れた〝兆し〟を見つけた。
闇の彼方にあっても、それは青白い水平線だとわかった。
「バカラッ。白波を視認。距離……七〇〇っ!」
「警鐘三唱っ、始めぇ!」
マストのそばに置かれた小さな青銅製の鐘をヤストログは木槌を叩きつけた。
カンカンカンっ! カンカンカンっ! カンカンカンっ!
これまでいろんなイタズラや悪さをしてきて、大人達を困らせてきた。
でも今夜は、自分達の見ているものは、大人達を困らせるものではないはずだ。
真っ当なことをするのは、こんなにも怖くて勇気がいるのか。
バカラルは舵を切り、ゆっくりと迫り来る白波に船尾を向ける。舵を握る手の震えをどうすることもできなかった。
カンカンカンっ! カンカンカンっ! カンカンカンっ!
ヤストログの打ち続ける警鐘で、プーラの町に一つ、二つと明かりが灯り始めた。
風がない。波も沈黙したまま。もうこれ以上、舟が進まない。
なら、あとは〝あの魔波に岸まで押してもらう〟しかなかった。
カンカンカンっ! カンカンカンっ! カンカンカンっ!
町が騒ぎ始めているのがわかる。防波堤に一人、二人と人影も見えた。
もういいだろう。鐘がうるさくて声が届かないので、バカラルは自分の靴を脱いで相棒の背中に投げた。
靴は外れて、ヤストログの背後を素通りした。
船上で警鐘は鳴り続ける。無心の横顔を向けて鐘を打ち続けるヤストログ。
バカラルはふいにヒリついた焦燥を覚えて、息を呑んだ。
次を外したら、アイツはどうなる。津波の接近に備えられないまま波に呑まれるまで鐘を打ち続けるのか。
「一人だけ、なんかカッコいいバカやって死のうとしてんじゃ、ねえ!」
逆ギレ気味に、最後の靴を投げつけた。
今度は見事に赤バンダナに当たって、「痛ぇっ!」とマジギレされた。
取り合わずに早く戻れと手で合図し、自分は舵から手を離さず腰かけて安堵の大息を足下に堕とした。腰に巻いた落水防止の安全ベルトを手で触れる。
これで海の力にどれほど抗えるかわからない。ないよりマシと思わなければやってられない。
「おいっ。マジ来るって、ヤベェのが!」
ヤストログがとなりに座った。
「わかってる。お前も一応、コレつけとけ」
「津波相手に、たったベルト一本かよお。おお、金羊船英雄団よ」
一人が大慌てしてくれると、なんとなく冷静を保てた。
「なあ、ヤス」
「あん?」
「お前。こんなことになっても、海、好きか?」
愚問だった。即答された。
「死んでもオレは海に行く。そこに海がある限りな」
どちらともなくニッと笑うと、拳をぶつけ合った。
直後、
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