第3話 凶兆


「どうして、ティボルがここにいるの?」

 ハティヤは訊いてみた。

 ティボルは帽子を押さえながら口許に笑みを浮かべる。

「仕事に決まってんだろう? 狼の要望通り、市場調査だよ。お前らこそ、ここをジェノヴァ協商連合ヴェネーシア共和国最大の都市と知っての遠足か?」


「遠足じゃないわ。狼に頼まれて、お使いで来てるの」

「アイツのお使いって、香水をか?」


 ティボルが小声で訊ねる。


「え、香水? この町で買うのは、石けんだけど」

「石けん? いやいや。だからさ、それずっと見てましたよね」

「うん。でも、これ。石けんでしょ?」

「違いまするぞ、お嬢さま」


 執事風に諫める、ティボル。目は痛々しい田舎者を見るそれだった。


「香水は体の臭いを消したり、想い人に好感を持たれるよう、さりげなく匂い飾る化粧品。石けんはついた汚れを落とす洗剤。おわかり?」


 だんだんティボルの声が大きくなる。ハティヤも気後れ気味に応じる。


「う、うん。でも、あれ。石けん入れてる瓶だよね?」

「はぁっああ? 瓶の形で化粧品か洗剤かなんて見分けられるわけねーだろっ」

「ええ? でも……」


 諦めきれないハティヤに、ティボルは帽子の間から生え際をボリボリ掻くと、


「いいか。高い香水も安い香水も陶器に入れたから、石けん作ってる店も真似して、陶器で売るようになってんの。そしたら高い香水の方が、真似られてイヤだったから石けんと区別するためにガラス瓶になったんだ。そのせいで値段がご覧の通り、バカみたいに高くなってんのっ!」


「コイツ何言ってんのかさっぱりだ。もう行こうぜ、ハティヤ」


 蔑む目を向ける少年に、ティボルはカチンときたらしく喚いた。

「誰だ。この非常識な田舎者を連れてきたのは。保護者を呼べ!」


「今日、先生もおじさんも、狼も来てないの。私たちだけ」

 ハティヤの説明に、ティボルは毒気を抜かれたみたいに表情を失った。


「私たち今、セニっていう町にいるの。もちろん、おじさんや狼もそこよ」

「セニ? なんで海賊の町なんかにいるのよ」


「カーロヴァックがアスワン帝国に攻められてて、近づけないの。その町で、メドゥサって女の人と知り合って、彼女の商売を手伝っているの。割と本気で」


「メドゥサ? メドゥサ・ヤドカリニヤか? ウスコクの怪力令嬢」

「本当に何でも知ってるんだ。すごい」


 ハティヤが目を見開くと、ティボルはどっとため息をついた。


「あー、はいはい。まぁた旦那がらみなわけね。まったく物好きなこった。いいか、お前ら。そのお嬢はな。『海賊なんて時代遅れだ』っつって実家に反発して商会を起ち上げたまではよかったが、やってることが闇塩売りで、ハドリアヌス海の商人から笑い者になってるんだ」


「笑い者……」

「ああ。けど、うちのボスがどういうわけか気に入っててな。手を貸したがってたが、いかんせん商売のセンスが絶無らしくて、さなぎが一皮むけるか腐るか見守ってたんだよ」


 ハティヤとスコールは顔を見合わせた。


「今、メドゥサさんの商会は軌道に乗りかけてる。マチルダが輔佐しながらやってるよ」

 すると、ティボルの商人の顔が強ばった。

「おいっ、ちょっと待て。冗談だろ。なんであいつが。マチルダはうちの商会で雑用しかしたことがねえ、丁稚だ。まだ商人なんかじゃねえぞ!」


「ティボル。違うの。あのね──」

「あのバカッ。商人の筋を曲げやがって。自分のケツもふけねぇ見習いが、イキって他人の商会に口出ししていいわけねぇだろうが。クビになりてぇのかっ」


 クビという単語に、ハティヤもスコールもびくりと緊張する。

 彼らの細かい事情は、二人もよく知らないので抗弁できなかった。むしろ不用意にマチルダの名前を出してしまったことに後ろめたさが強かった。


 するとディボルが大きな鼻息をすると、二人の前に手を出した。


「大銅貨一枚だせ。それで、この町の石けんがある店の情報を売ってやる。その代わり、オレをお前らの船に乗せろ」

「どうして、船で来たって?」


「ハティヤが持ってる、それ。入港許可書な。陸で来てるとそんなモノはいらねぇわけ。あと、お前らの靴が濡れてる。小舟だ。だったら第十七番埠頭辺りだな。第一〇番埠頭の入港管理局前で待っててやるから」


「大銀貨一枚だすわ」

 ハティヤが優男を真っ直ぐに見上げていった。要求額の四倍である


「だから、日没までにこの町の石けんを買い集めたいの。案内して。早く港に帰らないと舟で待ってる仲間が〝敵〟に捕まっちゃう」


「はぁ? あっ、くっ。お前らも別件でトラブってんのか……わかったよ、商談成立だ」

 ハティヤは頷くと、革袋から小さな銀貨を一枚出して手渡した。



 ハティヤ達が戻ってきた時、第十七番埠頭に自分たちが乗ってきたヤンチャールはなかった。


「やっぱり襲われたのかな」

 思わずその場に座り込みそうになる。


 おーい。聞き憶えのある声が海からではなく埠頭の外からかかった。

 振り返ると、駅馬車のドアからタコ坊主が赤バンダナを振っていた。


「あ、ヤストログだ」

 荷物を抱えて直して向かっていくと、坊主頭はすぐに中に引っ込んで、ハティヤ達を招じ入れた。そして、ドアが閉まると馬車は動き出した。


「悪りぃな。舟は別の場所へ移動させたんだ」

「うん。それはわかるけど、どこへ?」

「ヴェネーシアを出て、一〇キールほど北へ行ったところにコルテッラってヨット街がある。ここほど華やかじゃねえけど」


「ヨット街?」

「ヨットを川に係留して生活する自由民たちの集落だ。係留員のおっちゃんにさ。お前たちが出た後に、埠頭から子供が出て行かなかったか訊かれたらしい。俺ら子供ばっかで来たのが話題になってて。だからそいつらにうっかり話しちまったらしい。ってことを教えてもらってな。それ聞いて、バカラがすぐに埠頭を出ようって」


「そうだったの。それでヤストログが案内してくれるわけね」

「そういうこと」


「ところで……この駅馬車の駄賃はもう払ってあるの?」

 沈黙。ヤストログが急にこっちを見ようとしない。ハティヤはあえて圧す。

「ここまでの駅馬車代金、いくらかかってる?」


「……い、いや~。四ソルドって単位がわからなくてよ。ダチが払うって言っておいた」


 四ソルドは四八デナロで、デナロ大銅貨四枚。およそペニー大銅貨一枚・五〇ペニーになる。

 ハティヤは呆れて物も言えないとばかりに、赤バンダナの膝の上に荷物を置いた。


「うおっ、重っ。これなに?」

「〈ヤドカリニヤ商会〉の未来がかかってるこの町の石けんよ。一つでも割ったらひどいんだからね」

「で、このオッサン誰?」


 ヤストログが優男を見て言った。


「おいおい。おれはまだ三〇いってないんだ。オッサンはやめてくれないかな。少年」


 そうなんだ……っ。

 ハティヤもスコールも衝撃的な眼で随行者を見た。


「ティボルっていうの。私たちの知り合い……メドゥサさんのそばにマチルダって子いるでしょ。その子が所属している商会の先輩なの」


「は、これで商人なんか。マチルダって、あのそばかすのだろ。ふーん。でも、メドゥサの姐さん。チャラい男は大嫌いだから殴られないように気をつけろよ」


 ティボルは気分を害すどころか、不敵に微笑んだ。


「ほう。ふふふっ。それは楽しみだな。俺に堕とせなかった令嬢はいなくてね」

「オレは、姐さんに殴られて、アゴを砕かれた男を五人知ってる」

「砕きすぎだろ!」


「そんなことより、なあ、スコールが持ってるのは晩飯か?」

 ヤストログが横に座る少年の荷物に興味を持った。

「お前ら、先に食ってきてねえの?」


 スコールは心外そうに眉をひそめた。

「当たり前だろ。食事は冷めてても、みんなで食うのが美味いんだから……なんだよ」

「いや。やっぱ、そうだよな」

 ヤストログは屈託なく笑った。


  §  §  §


 河口を出ると、正面に灯台の光が見えた。

「あの明かりは?」

 ハティヤが訊ねた。バカラルは周囲の海を見回しながら、


「ロビニの町の灯台だ。……潮の様子がおかしい。──ヤスっ。帆柱マストからヴェネーシアのかたを見てくれ!」


 ヤストログはカンテラをくわえて帆柱にとりつくと、するすると半ばまで登って陸へ目を細める。が、すぐに目を見開いた。


「な。なんだよ、ありゃあ!? どうなってんだ」ヤストログは怖じ気づいた声でうめいた。


「ヤスっ!」


「海岸の周りが干上がっちまってるっ。ずっと向こうまで底が見えちまってるんだ。バカラ、取り舵三〇度っ。このままだと干潟に乗り上げちまう!」


「了解。ヤスっ。帆を上げろっ。潮に逆らっても、沖に出るぞ!」


「ヴェネーシアの潟は元もと遠浅の干潟だってきいたがねえ」

 ティボルがぼんやりと言った。


「オッサン。それは干き潮の時だろ。今はまだ満潮の時間だ」

「なんだって?」


「満潮ってのは一日に二回起きる。今朝、来る時の満潮は低高潮といって海面がそんなに高くならない満潮だった。だから夜、髙高潮。海面が高くなる満潮になるはずなんだ」


「なんでそんなことまで、わかるんだい」


「毎日その周期を気にするのが、船乗りの関心事なんだ。野菜を作る人間が天気を気にするみたいにな。満潮時の海面の高さによっては魚の位置が変わったり、物を運ぶ船の積載量が変わる。低いと船底が海の底の岩礁にぶつかりやすくなるからだ」


「なるほど。それで?」

「満潮の時期に、これだけ潮が引くのは、〝カリュブディス〟の仕業っていわれてる」

 するとにわかにティボルが笑い出した。


「ちょっと待てよ。オレを笑わせてぇのかい? 船長」


「ティボル。知ってるの?」ハティヤが訊ねた。

「〝カリュブディスの食事〟って、ハドリアヌス海周辺に伝わってる海のおとぎ話だ。海の満潮と干潮を作り出している渦潮の魔物〝カリュブディス〟。こいつが蟹だか岩魔人だかの姿をしてるらしい。そいつが一日に三回、海底で海水ごとあらゆる物を吸い込んで食っちゃあ、飲んだ海水を吐きだしている。

 で、食ってる時が干潮で、吐きだしてる時が満潮ってわけさ。ヤツの食事は三回だから干潮が三回で、満潮が二回だな。だからヤツが海底にいる時は海上では渦ができる。おとぎ話だ」


「それじゃあ、その食事が満潮時に起きるのはなぜだ」

 バカラルは舵を握って闇の先を睨みつけた。ハティヤはティボルを見つめる。


「えっ。満潮時に食事? ……ちょっと待て。確か……客が来たとかなんか」

「客?」


「す……すー、そうだ。〝スキュラ〟だ。上半身が絶世の美女で、下半身は巨大なタコの足を持つ。こっちも渦の魔物だ。だがお互いにソリが合わないらしくて、滅多に海底で出会わないが会えば必ず喧嘩する。

 その最中に運悪く海上を通った船は、その渦に航行の前後を挟まれて、どんな大型船でも飲み込まれて一巻の終わりだって話だ。で、船乗りが海上で渦に挟まれて進退窮まった時に言うらしい」


「ここはまさに〝スキュラとカリュブディスの狭間〟だ──ヤスっ、ホールドオン。ビーレイ!」

 舟が横風を受けて押され、右舷が海面ギリギリまで沈む。ぐんぐん速度を上げはじめる。

 バカラルは舵を抑えながら焦燥と困惑を混ぜた声で、うめいた。


「ウスコクは潮を見て、沖を思えと言われてる」

「潮を見て、沖を思え?」


「ウスコクは〝スキュラとカリュブディスの狭間〟を、渦潮うずしおに航路を封じられたことだけを言わない。沖でヤツらが喧嘩を始めた時、両者の間にある海底が揺れ、海岸の潮が干上がる。次に喧嘩が終わった時、その険悪な怒気が渦潮となって全解放される。それが一番恐ろしいんだ」

「渦潮の全解放……津波かっ!?」


 ティボルはゴクリと生唾を飲んだ。バカラルは少し楽しそうに微笑んだ。


「オッサン、おれの船乗り話を信じてくれるのか。あんた本当に商人か?」

「郷に入りては郷に従え。船に乗りては船乗りに従え。俺は平和主義者なのっ。そんなことより本当に津波が来るのか。どうすんだよ。これから!」


「沖から陸へ波をぶつけてくるんだ。こんな小型船ならあっという間に飲み込まれちまうんだろう。それまで足掻くだけだ」

「だから、どうやってっ!?」

「船に乗りては船乗りに従うんだろ? おとなしく船室に入っててくれ。手がたりなくなったら呼ぶ」


「目標だけでも教えてくれる?」

 ハティヤが真っ直ぐな眼差しで訊ねる。バカラルは、つと目線をそらせて、

「一か八か、リエカを目指す」

「リエカ。プーラの東?」

「そうだ。今、目の前に見えてる岬の向こう側だ。あそこまでいけば津波がきても、被害が軽微ですむ。かもしれない」

「わかった」

「……あと」

「え?」


 バカラルは一瞬ためらってから、どこか苦しそうに言った。


「うちの親父の与太話を思い出した。スキュラは、カルキノスって眷属けんぞくを従えてる。大海物同士の喧嘩が終わった後、船乗りにとって波に乗って陸にやってくるコイツが一番厄介だったって言ってた。もしソイツが現れたら頼めるか?」

 ハティヤはスコールと目配せしてから頷いた。


「ええ、もちろん。あなたたちの舵取りを、私たちは信じてる」

「ああ。金羊船英雄団アルゴナウタイの名にかけて」

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