第2話 月と狼と香辛料


「あれ? お呼びじゃなかった?」


 シラけた空気の部屋に、俺は入っていった。

 1LDK。二人暮らしにはちょうどいい広さだ。調度品はどれもくたびれていたが、目に余れば買い換えるくらいのことはするだろう。


 とにかく安心した。国賓扱いまでとはいかないが、一般的な生活を保障されている。外からはぱっと見、虜囚生活だとは分からないだろう。


 シャラモン一家の四兄弟が息を飲むように俺を見る。


「随分早かったな、狼」

 振り上げたままの手で太腿のホコリを払い、スコールが言った。

「目当ての人が、留守だった」

「なんだぁ……」


 フレイヤが胸を撫で下ろす仕草をする。俺は彼女にハンカチを差し出す。


「顔洗ってきなよ。一階の炊事場で博士がカレーを作り始めてる。面倒見てあげて」

「うん、そうする」


 素直にハンカチを受け取り、フレイヤは部屋を出て行った。

 俺はイスに座って、スコールを見た。


「監視は」

 スコールは落胆した様子でかぶりを振った。


「だめ。全然気配を見せない。(出し)抜かれたかも」

「それとも最初からつけられていなかった、か。だね」

「完全にこっちを小者と見られてるよな」


「人畜無害と見なされたのなら喜んでいいさ。まだ当分はそう思わせておこう」

「うん。けど索敵も護衛も、半人前だな。オレ」

「気負うことはないさ。これから強くなっていけばいいんだから」


「無視しないでよ」

 ハティヤがうつむいてぼそりと言った。

「なんで、私を無視するの?」


 俺は耳の後ろを掻いた。


「いやぁ。正直に言うと、どう声をかけていいか──」

 言い終わるのを待たず、ハティヤが首に腕を巻きつけてきた。

「──わからなくてさ」


「バカじゃないの……バカよ、考えすぎ」

「うん。かもね」

 俺はハティヤの背中を包み込んだ。


「生きててくれて、ありがとう……ハティヤ」

 ハティヤは俺の頬毛で涙を拭うように何度も頷く。


「どころでさ。まだ入学してないんだよね?」

「そうだけど……どうして?」


 ハティヤが身体を離すと、俺は薄い木板を見せた。


「マダム・キュリーのオフィスに行ってきた。君があそこに顔を出すことが読まれていたみたいでね。これが置いてあった」


 薄い木板を見せる。置き手紙だ。


【進級試験調整のため、席を外します。質問等は殿下から直接伺うように】


「あ。進級」


 我が意を得たりと俺は頷いた。

「入学前に、進級させるなんておかしい。学校権限じゃ考えられないよ」


「あー。うん、だよね」

「受けるの?」

「一応。準備はしてる……だめ?」


 俺は頷いた。

「だめだね。ここは魔法学校じゃなく、士官学校なんだ。他の人より先に進むってことは、それだけ死地に向かうのが早まるってことだ」


「……そうね。確かに」


「俺もシャラモン神父も、きみが帝国に奉職することには反対しない。でも、最前線で戦うことは望んでいない。それだけは忘れないでくれ」

 ハティヤはこくりと頷いた。


「それは困るな」

 部屋に三人組の少年たちが入ってきた。


「ハティヤ・シャラモンには、ぜひ高等教育科に入ってもらいたい……のだ、が」


 俺は、ごく若い男性に対して、美少年という言葉を使うのは好きじゃない。

 だが、それほど美しい顔立ちの少年だった。

 細い骨格で頼りない。女性のようだ。そして目の輝き、頭もキレそうだ。


 ロギがとっさに彼を描こう身体の向きを変えたので、俺は慌ててその手を止めた。


「……っ?」

「彼はたぶん、この国で二番目に偉い人だ。その姿を描くには資格がいる。資格がないまま描いてしまうと罪に問われて捕まるんだ」


 ロギが落胆をこめて鉛筆を置いた。俺はロギを庇うようにイスからおりて床に片膝をつき、頭を垂れた。帝国式かどうかは知らない。


「名を名乗れ」


「はい。初の御意を得ます。ジェノヴァ協商連合都市セニの住人。ハティヤ・シャラモンの保護者名代。狼と申します」


「ヤドカリニヤ商会。狼とは……見たままだな。面を上げよ」


 命じられるまま顔を上げた。

 すると高貴な顔が目の前にあってギョッとする。


 貴公子の潤った瞳の中に、月が見えた。その月に、俺のよく知っている顔が現れた。

 何が起こっている。


「お前……どこかで私と会ったことがあるか?」


 やめてくれ。そういう冗談は嫌いだ。


「いいえ。帝国へは今回が初めてとなります」

「そうか……。では、狼よ。保護者に伝えよ」


 貴公子きゅんはひどく落胆して、次には元の自信満々で言い放った。


「ハティヤ・シャラモンはわがえある帝国のいしずえとなるであろう」


 ハティヤを含めたシャラモン一家の子供たちが言葉を失った。


「承知いたしました。では、そのように伝えましょう」


「狼っ。いいのかよ。こんな一方的に──」

 スコールが抗いを見せ終わるより早く、俺は彼の胸倉を鷲掴んで床に引き倒した。


「ここは帝国で、皇太子殿下の御前だ。許可のない軽はずみな発言は許されない。彼らに不条理に斬られたいのかっ」


 俺の一喝で、スコールもすぐにこの場が身分社会の中心にあることに気づいた。顔を伏せる。


「ほう、狼。貴様、元は人であったのか」

 貴公子きゅんは興味津々で俺を見下ろす。


「恐れながら、今も人でございます。タマネギとニンニクは食べられませんが」

「ふふ……なるほどな。ま、私も好き嫌いはある。牛肉とレバーだ」

 場をなごませるための雑談らしい。


(……まさかな)と思いつつ試しに言ってみる。


「家畜の血の臭いが、お嫌いなのですね?」


「ほうっ、よくわかったな。あの臭いが好きなヤツがいるのなら、出てこいという話だ。だが鶏肉は好きだぞ」


 牛肉の焼いた匂いにときめかないヤツがいたら、出てこいって話だよ。

 鶏肉。偶然か。偶然だと言ってくれ。俺は思わず顔を上げた。


「それなら、今の時期は鶏肉を使った鶏鍋がよろしいですね」

「ああ、実にいいものだ……。とくに──」


「とくに、鶏の髄からダシを摂った鍋に、柚子ゆず胡椒こしょうをたっぷりつけて……ぶおっ!?」


 そこまで言った時、仰いでいた顔を両手で掴まれた。頬がむにぃと伸びる。

 間近に迫った貴公子きゅんに俺は目を見開いた。


(なんなんだ、こいつ。これじゃあ、まるで彼は……っ)


「お前っ、柚子胡椒を知っているのかッ!?」

「えっ。えっとぉ……」


 頬を左右に伸ばされたまま目をそらせた。そういう帝国皇太子こそ、なぜ柚子胡椒というニッチな香辛料を知ってる。


つくれっ。私の夢に出てきた緑の柚子胡椒を創るのだっ。金に糸目はつけんぞ!」


 なんだ、夢の話……かよ。

 急に渇望し始めた貴公子きゅんを、側近二名が慣れた様子で引き離した。


「すまんなぁ。うちの大将は時々ワケ分からんこと言い始めるんや。堪忍したってくれ」


「ゼメルヴァイス。今、そこの狼が言ったぁ、柚子胡椒って言ったってぇ! やっぱり柚子胡椒はこの世界にもあるんだあ!」


「マルフリート。もうワシから彼らに話進めてええか?」

「頼む」


 部屋外の廊下まで皇太子を引りだして、女性の顔をした側近が低音ボイスで皇太子を叱っている。


「殿下。今日はそういう雑談をしに来たのではないのです。しかも初対面の相手にその話は持ち出さぬという約束でございましたでしょう」


 日焼け顔の青年がドアを閉めて、よっしゃとばかりに俺たちをイスに座らせた。


「改めて、ワシはツムギ・ゼメルヴァイス。このとなりの学校で春から高等科三回生になる。ちなみに、うちの大将とマルフリートは二回生や。

 ワシらはあの御人を皇太子と見ずに、学校の中だけ普通の学生として接しとる。せやから、あんま堅苦しゅうせんと付き合ってな。ま、大人はあんさんみたいに礼節を持ち出したがるがの」


 人懐っこい笑顔で、青年はシャラモン一家の警戒心をほぐした。若いのに手慣れている。


「ハティヤ・シャラモン。兄弟はこれで全部か?」

「一階に妹がもう一人。うちは七人兄弟です」ハティヤが応じる。


「そぉか。ワシは五人兄弟やった。郷里クニは西方世界でな。そしたら学校の話をちょっとしようか。

 まず、うちの大将を含めて、ワシらはДデー寮や。一回生から三回生まで寮でひと括りにされる。上級生が下級生の面倒を見るのが寮のルールや。学校の模擬演習訓練を主眼においた、各種行事や団体行動で評価を受けることになる」


 そういうことか。俺は思わず天井を仰いだ。


「なんや。狼? 天井にクモでも張り付いとったか?」

「ハティヤを貴族の事情に巻き込まないでいただきたいのですがね」


 ゼメルヴァイスは一瞬ニヤッと笑ってから、真顔に戻った。


「そら無理や。どこの士官学校いっても寮別で評価を受けるシステムは変わらん。しかも、あのマダム・キュリーに拾われてきた子なんやってな。そしたら、もう大将の傘下に入ることは運命やと思っといてくれ。春からのДデー寮総代はワシや。いの一番にハティヤ・シャラモンの名を挙げさせてもらうよってな」


 運命。簡単に言ってくれるが、他に言い返す言葉も見つからない。

 本当にハティヤは、なんの予兆もなく川の濁流のごとき勢いで帝国まで流されてしまったのだ。


 ゼメルヴァイスが言葉を継ぐ。


「話を戻すと、毎年高等科の新入生選抜は、各寮の総代が集まって決めとる。貴族は、各寮で伝統的に現実の貴族派閥がそのまま反映されて、すでに出来上がっとる。

 せやから貴族側は固定。選抜のメインはそこにくっつく平民や。こっちは測定能力の高い順から決める。毎年、奪り合いやねんで」


「あのぉ。貴族の方々は、あまり授業に出ないという話でしたけど」

 ハティヤがおずおずと手を挙げていった。ゼメルヴァイスは頷いた。


「授業には出てこんが、模擬演習や各種行事は強制参加やから、傍仕え付きで出てくる。とくに学校対抗の模擬野戦訓練──通称〝ヴァルハラ戦〟は、貴族どもが卒業後も語りぐさにするために家の威信までかけてくるで」


「ちなみに、昨年のД寮の結果は?」


 ゼメルヴァイスはたくましい胸板を誇らしげに張った。

「当然、勝ったったで。ドラグノフ士官学校とは僅差きんさやったけどな」


「それで、ハティヤの身体能力に目をつけて、入学を初等教育から高等教育科に引き上げたのですね」

 俺が指摘した。ゼメルヴァイスは悪びれもせず頷く。


「シャラモンは初等科に入っても規定年齢ギリギリやから、おっても一年や。それやったら能力に合わせて高等科に入れた方が、お互いにメリットがある。せやろ?」


「確かにそうですが。彼女は、敬礼の仕方や行軍の仕方も知りませんよ」

「だっはっはっはっ。んなもん、高等科にもいくらでもおるし、ワシもいまだによう知らんわ」


「は?」


「ここを出て、正式採用になっても教育科でまた半年から一年は基礎から再教育されるんは必然や。敬礼も行軍もそこで鍛え直されるはずや。

 そんなら、ここでは身体鍛錬と基礎学力。第二言語の習得。そして何よりも仲間意識の醸成をするんが重要やとワシらは思っとる。

 様式形式は貴族に任せといたらええ。次代の皇帝に、自分は独りやないことを噛みしめて卒業してもらわんと、この国のためにならん」


 次世代の皇帝を、育てる。

 彼らはただの皇太子の〝ご学友〟で思い出を語るだけの存在に納まる気はないらしかった。そして、そこにハティヤもくわえる気らしい。見込まれたにしては、出来過ぎてはいないか。まさに運命と言うほかない。


 ほかに質問ないかぁ。ゼメルヴァイスに見回されて、スコールが手を挙げた。


「オレも士官学校に入りたいって言ったら、入れてくれるの?」


 するとゼメルヴァイスが小首を傾げて、手を差し出してきた。

「自分、ちょっと手ぇ見せてみ。……ほーん。やっぱりか。自分、剣を相当使うやろ。顔にも修羅場をなんぼもくぐってきたんが透けて見えとる。そういうヤツは学校っちゅうところが退屈でたまらんくなるぞ」


「そう、なのか?」


「ああ、ワシがそうやったからな。相手がどんなに憎たらしくても、殺さず、傷つけず、脅さない。忍耐を強いられる牢獄や。わかるか? 振り上げた拳を加減して振り下ろさんとあかん喧嘩が愉しいかっちゅう話や」

 そして、彼は真っ直ぐスコールを見た。


「強いだけでは人はついてこん。賢いだけでも人はついてこん。その両方があって、弱い連中の面倒見る器ができて、やっと人がついてくるんや」


「あ、それ。なんかわかる。でも、それが難しいんだよな」

 スコールが屈託なく笑うのを見て、誰を想像しているのか俺にもわかった。

 ゼメルヴァイスもニカリと笑って、頷いた。


「やっぱり自分、学校には向いてへんで。それよりもごっつ世話になっとる人の下について、現場で必死になって学んでいった方がもっと強ぅなれるで」


「オレ、もっと強くなれるのかな」


「おお、なれるで。ここは純粋な強さを求める場所やない。組織の強さを学ぶ場所や。自分みたいな若いのにごっつ強い剣士をうまく使って、敵をり潰せるか。その知識を学ぶ場所や。自分の目指す道はもっと別んところにあるかもな」


 ゼメルヴァイスは不敵な笑みを浮かべた。ここまで雄弁に語るということは、内心で後悔しているのだろうか。忍耐を強いられる牢獄に入ったことを。


  §  §  §


「生のトウガラシじゃと?」

 ライカン・フェニアは台にのぼって、寸胴鍋をかき混ぜながら聞き返した。


「やっぱり、この時期にないですかね」

「うーむ、無理じゃのう。トウガラシは一年草で、夏に実をつける夏野菜なのじゃ。青い未完熟は保存には向かぬし、赤い完熟でも乾燥させねば保存は利かん……どうかしたのかや?」


「いえ。殿下が柚子ゆず胡椒こしょうを夢に見たそうで」


 見ため五歳児が鼻でせせら笑った。


「香辛料を夢に見るというのは、どういう心理なのかの。とにかく今は無理じゃ。帝国の食物保存方法は、他の国とさほどの違いはないのじゃ」


 俺は頷くと、一応お礼を言って、麻大袋から乾燥した赤トウガラシの袋を出す。それを木のボウルに十数本移して水にひたした。


「狼。どうしたのじゃ?」

「わかりません」

「ひょっ?」


「わからないんですけど。なんか殿下に作ってあげたくって……」


「ほほぅ。なんじゃなんじゃあ。あの殿下に恋心でも芽生えたかや?」


 俺は真顔でとなりのライカン・フェニアを見つめる。


「これって、恋なんでしょうか」

「いや、吾輩に聞かれてものぅ。……狼、大丈夫かや?」


 とりあえず、ある物で〝柚子胡椒〟を試作することにする。


 そもそも柚子胡椒における胡椒はトウガラシの古語で、黒胡椒とは別物だ。

 また、柚子の原産は中国と言われているが、日本では飛鳥奈良時代から栽培の記述があるくらい古い歴史のある果実だ。

 けれど柚子はヨーロッパで栽培されなかったし、俺もリエカやセニの市場で柚子を見た記憶もない。とにかく、香りの強い柑橘類で代用すれば雰囲気は出せるはずだ。


 十四から十七本ぐらいの乾燥トウガラシを水に十五分から二〇分くらい浸けて戻す。トウガラシをもどしている間に、おろし金グレーターでオレンジの外皮ピールだけを二玉おろし、果汁も搾っておく。おろし金でふやかしたトウガラシをおろしていく。今回は辛さ重視で種も包丁で細かく刻む。


 さらに、にトウガラシとオレンジ皮を入れ、塩大さじ3。果汁小さじ1。その場に偶然あった謎の蒸留酒小さじ2分の1を投入。発酵促進剤だ。軽く粘りが出るまで細かく潰すようにぐりぐりと混ぜていく。

 これを蓋付きの容器に詰めて三、四日ほど寝かせれば、オレンジ色の柚子胡椒の完成だ。


「博士。ここの人達は料理をしないのですか」

「そうみたいじゃな。食事は学校内の学食でまかなっておるようじゃの」

「学校が休みの日とかどうしてるんでしょう」


「町まで外食に出かけるか、部屋で一日飢えるかの二者択一ではないかのぅ。うちはハティヤがいてくれて助かっておるのじゃ」


 料理しないことにどうしてそこまでかたくななのか、意味が分からない。

 炊事場を見回す限り、おろし金などの料理什器はひと通り揃っていた。なのにどれもホコリをかぶっている。


「博士。帝国から押しつけられた研究テーマ。いつ頃結果が出そうですか」

「来年の今頃までに結果を出せと言われておる。その時は……また迎えに来て欲しいのじゃ」


「わかりました。ところで──」

「ん?」

「ご飯はどこです?」

「しまったっ! カレーのことばかり考えて、買い忘れたのじゃ」


 なるほど。誰も料理しなくなるわけだ。

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