第6話 迷い犬と踊れば 前編


 帰る家などなかった。

 だから、急に家に帰れと言われても、マチルダにはどうすることもできなかった。


「メドヴェさんっ。あたし、何かヘマをしたんですかっ!?」

「そうじゃねえよ。マチルダ。他の手代にも長い外廻りや帰省をさせてる。この店をいったん空にする必要があるんだ」


「でも、あたしっ」

「わかってる。お前は会長が取り立てた借金の形にここに買われてきた。だが事情はどうあれ、今のお前はもうこの店の看板娘だよ。会長が易々と手放すことはしねぇよ」


 そんなことを言われたのは初めてだ。嬉しいけど、番頭さんの顔の険しさがその場しのぎの言葉のように思えた。


「でも。だって、メドヴェさんは残るんでしょ?」

「俺は……帰る故郷がない」


「あたしだって、おんなじですっ」

「お前の親はまだカーロヴァックで生きてる」


「でも、もう親じゃありませんっ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。番頭さんはそれでも言い含めようとする。


「長距離の駅馬車で乗り継げば、二日もあれば着ける。とにかくお前は一度そっちに身を寄せてろ。店を再開する時は手紙を出すから戻ってこい」


 わたしはキッとなって、手許の革小袋を突きだした。


「じゃあ、このお金はなんなんですか! こんなにたくさん。手切れ金ですか」


「だから、そうじゃねえって。なあ、マチルダ。どうしたんだ。いつものお前なら、これくらい聞き分けられるだろう?」


「だって急に……。なんか旦那さんもメドヴェさんも様子が変だから」

「まあ、確かにな。……わかった。ちょっと、いやしばらく待ってろ」


 そう言い置くと、番頭さんは会長室に入っていった。「マチルダのヤツが、いつになくごねてます」ドア越しに番頭さんの声が聞こえた。


 廊下で待たされた。二人は揉めてる風でもなかったが、旦那さんの「まだ早いだろ」という声だけははっきり聞こえた。


 やがて会長室のドアが開いて、番頭さんがやれやれといった様子で肩を落として出てきた。


「なあ、マチルダ。お前、ここに来て五年だったよな?」

「は、はい。……そうですけど」


「正直、お前には市内の配達と雑用しか任せてない。だからお前に商人としての器量がどこまであるのか、俺も会長もまだわからん」


「はあ」


「そこで、これを機会にお前の商人としての器量を試してやろうと、会長が仰ってくださった。さしあたり俺に感謝しとけよ」

「えっ。どういうことですか?」

「お前が持ってるその金。明日から旅をして、二ヶ月で倍にしてこい」


「えっ、えええっ!?」

 驚きおののくマチルダに、番頭さんは銀色の板を差し出した。


「こいつは、会長がお前のためにあらかじめ用意してた、〝使用人鑑札〟だ」

 頭が真っ白な状態で受け取ると、手が震えた。

「つまり、あたし一人で……商売を」


「そうだ。お前も自分を試す、いいチャンスだと思え。戻ってくればまた雑用に戻るが、店の金を使って商売を経験してからの店前の掃除は気合いが入るぞ。俺も通ってきた道だ。気張れよ」


 そう言って肩をひとつ叩かれて、気合いを入れられた。


   §  §  §

 

 潮騒が遠くで手招きしている。気がした。


「もう……死にたいよぉ」


 港湾都市リエカにつくなり、商売の元手五〇ロットがはいった革袋を失った。

 昨日は、安宿で一泊して昼始めに起床。贅沢な時間を満喫して宿をチェックアウトする。朝昼ご飯に〝チェヴァピ〟を買おう。と腰に手をやったら、空を切った。


「あれ……ないっ、ないないっ。ウソ。どこ。どこに行った、あたしのお金っ!」


 荷物を全てひっくり返し、下着の中まで全部まさぐって、一ロットの金貨も出てこなかった。


 そのまま波止場沿いの潮風にやられたベンチで膝を抱えること、五時間。

 陽は水平線の向こうに沈みかけていた。


「よし。ここでこうしてても仕方ない……死のう」


 前向きなんだか後ろ向きなんだかよくわからない決断をし、ベンチから立ち上がると腹が鳴った。


「鳴いたってしょうがないじゃない。ないものはないんだからっ」


 自分を叱りつつ、歩き出す。どっちへ向かっているかなんてどうでもいい。あえて言えば、死に方も決めてなかった。そのくせ、ヤケのやんパチになっている自分も認めたく、なかった。


「おーい。お前、とっつぁんとこのマチルダじゃねえか?」


 車道で追い抜いた馬車から、名前を呼ばれた。マチルダは驚いて足を止めた。

 御者台で夕日に赤く照り返されたハゲ頭が振り返っている。


「ああ、やっぱりマチルダか。お前、こんな所でなにしてるんだ?」


 ムラダー・ボレスラフ──今はカラヤン・ゼレズニー。旦那さんの友達だ。そのとなりに、フードから飛び出た狼の鼻も間違いない。忌み人だが、優しい人。


 マチルダは、見つめていたハゲ頭がふいにぼやけた。


「カラヤンの旦那~っ! 助けてくださ~い!」


  §  §  §


「マチルダ。そいつは油断したおめぇが悪いんだぜ」

 事情を聞いてから、カラヤンは開口一番に彼女を叱った。真面目な顔で。


〝屋根犬亭〟──ふたたび。

「路銀の管理なんざ、旅の基本のキだ。額が一ロットでも五〇ロットでも、盗まれたお前が間抜けだったんだ。命や処女があっただけ御の字。いい勉強代と思いな」


 身も蓋もないが、俺も少女の弁護にまわってやることができなかった。


 前世界。日本でも、女性の単独旅行者を狙った強盗事件は後を絶たない。金品を盗むだけでは飽き足らず、暴行や殺害まで行う卑劣漢はどこの世界でも湧くようだ。


 この世界は旅行手段が徒歩か馬車、船だけなので、女性の一人旅の危険度はさらに増すだろう。

 カラヤンほど自己責任だと突き放すつもりはないが、準備を怠れば次は命を奪われない。命があったのは不幸中の幸いと、俺たちは外野席から気休めを言うことしかできなかった。


「あとな、お前にとってさらに悪い報せを、おれは持ってる」

「え……っ」

「バルナローカ商会が、魔女によって全焼した」


 ここで傷口に塩を塗っちゃうんだ。俺は思わず顔をしかめる。

 マチルダは目をぱちぱちとさせ、意味がわからないという風に小首をかしげた。


「どういうことですか?」

「つまり、お前の帰る家は、ない」

「ウソ、ですよね」

「ああ、うそだ」

「カラヤンさんっ」

 俺は牙をちょっと出して、むっと相棒を睨んだ。


「えっ? えっ、今の話、どこまで本当なんですか?」マチルダは混乱している。


 カラヤンは頭皮をかくと、

「魔女に店を吹っ飛ばされたのは本当だ。店に残ってたとっつぁんとメドヴェに命の別状はない。今、ロビニの港町に移ってる。とっつぁんは足の骨を折って重傷だ」


 マチルダは泡を食った様子でべッドから立ち上がった。


「えーっ! た、大変じゃないですか! あたし、今から……っ」

 そこまで言ってマチルダはその場に立ち尽くし、やがて萎んだようにまたベッドに腰掛けた。


「今から……今のあたしに、何ができるんだろう」

「さあな。一晩か二晩くらい考えて答えを出せ」

「……っ?」

「無一文の面倒を見てやれるのは二晩までだ。今ならこのまま進むか、ロビニに行くか。どちらかをお前が選べ。戻ればクソジジイの介護だ。メドヴェのやつも喜ぶ。

 この先に進むんなら、お前は無一文で世界を渡っていかなくちゃならねえ。やれることは何でもやらなくちゃいけなくなる。その勇気を持てるかどうか、自分とよく話し合え。いいな」


 カラヤンは少女の肩に手を置いて立ちあがった。

 俺も立ちあがってその後をついて部屋を出る。

 ドアを閉めると、廊下でカラヤンが背中ごしに振り返った。


「ついて来んなよ」

「偶然、俺も行き先が同じなんじゃないかと」

「あぁ?」


 俺はフードをかぶり直して顔を隠しつつ、その陰から覗きこんだ。


「話を聞く限り、彼女は商人らしく、旅費のことを考えて安宿にしたんです。宿の外に出てから金がないことに気づいたということは、チャックイン時に前払いする宿でしょう。

 あと、女のひとり旅です。寝る時は部屋にしっかりとまで寝ていた。


 日ごろ、朝早くから起きて仕事をする習慣のある人が、旅慣れていないにもかかわらず、翌日の昼までぐっすりです。そして、起きてすぐ宿を出た。

 だから彼女は服を着たまま、金の袋を腰に着けて寝たんです。それなのに、金だけが盗まれた」


 これって、おかしいですよね。俺は目を向ける。

 カラヤンは軽く舌打ちしたが、怒ってはいなかった。


「おれの気晴らしの、邪魔だ」

「だから行くんですよ。カラヤンさん、シロウト相手の弱い者イジメが嫌いですよね。端から見て、やり過ぎだと思ったら声を掛けますよ。それに今から探し回るのは面倒でしょう? 彼女が泊まっていた安宿まで、コレで追ってみます。早いですよ」


 俺は自分の黒々とした鼻先を指で叩いて、微笑んだ。


「こいつっ。言うようになったじゃねえか。……勝手にしろっ」

 そこへシャラモン神父が自室から現れた。


「これはこれは、お早いお戻りですね。先ほど女性の声がこちらまで聞こえてきましたが」


「すまん。ちょっとトラブルを拾っちまってな。カーロヴァックへはこれからだ。悪いが、おれの部屋にいる娘の面倒を見てやってくれるか。

 宿代はこっちで払っておく。バルナローカ商会の丁稚でっち(使い走り)をしてたマチルダだ」


「ああ、彼女ですか。無事だったのですね。いいでしょう。では、こちらでお預かりしますよ。宿代もバカになりませんし、子供たちも喜びます」


「ああ、助かる。──狼、マチルダにシャラモン達の部屋に移れと言ってきてくれ。おれは店の主人に話をつけてくる」

「わかりました」


 カラヤンはうなずくと、階段をギシギシと音をさせて降りていった。

「まったく。面倒見の良さは、呆れるほど底なしですね」

「なぜ、あれでモテないんでしょうか」

 俺とシャラモン神父は顔を見合わせて、首を傾げ合った。

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