第十章 慕情越境

第1話 空が明日を分かつとも(1)


 目が覚めると、窓から見える空は知らない色をしていた。

 青色に灰色が混ざっている。同じ冬のはずなのに。


 ハティヤは教会みたいに白い天井に掲げた自分の手を見つめた。


(生き残れた……みたい)


 その実感からじんわりとしみ出すのは、敗北の、泥水の味。

 苦い、未熟な味。そっと目を閉じる。


 ドアが開き、人が入ってくる。単身ひとり。靴音のリズムから女性。

 彼女がベッドを右に回り、毛布を少しはぐり、手首をそっと掴まれた。


 敵意はない。ハティヤは目を閉じたままほっそりした手首を掴み返してから、捻り、背中からこちらの胸に倒れかかってくるところを抱きすくめた。


 そこでようやく目を開ける。

 簡素な白い帽子と白い法衣を来た女性だ。年齢は二〇歳前後。武器の所持は──愚問か。


「あ、あのっ。ハティヤ・シャラモンさんっ!? 落ち着いてっ」

 悲鳴ひとつあげる余裕なく、声を震わせる。


「なんで、私の名前知ってるのっ。ここ、どこっ」固い声音で訊ねる。

「病院です。えっと、ベロニカ記念病院」


 病院? こんなにきれいな部屋が。


「あなたの、それ……帝国語よね?」

「えっ。ええ、もちろん。ここは帝国領内ですから」


 軽く側頭を張られた衝撃が思考を揺らした。


「帝国領内ってどういうこと? 正確に教えて。ここはどこ?」

「っ……アウルス帝国、帝都ブダ=デブレツェンの、ベロニカ病院の四階です」


 アウルス帝国……って言った、今。


「ここへ運ばれてきて、何日経ってる?」

 動揺から拘束が緩んだらしい。女性は顔だけ肩ごしに振り返って、


「ここへ一日半くらい前です。眠っていたのは、今日の夕方で四日目だそうです」


 速すぎる。四日で、帝国帝都まで移動した。どうやって。


 交戦した場所はズレニャニン西の湖沼こしゅう集落。あそこから四日で帝国方面へ馬車を走らせてもセニにつくかどうか。どういう運び方をされたのか。


「悪いけど、私をここまで運んだ人を呼んで来てくれない? 教えて欲しいことがあるの」 


「では、主治医である吾輩から説明しようかのぅ」

 部屋に入ってきた小さな白衣をひと目見て、ハティヤは女性の拘束を解いていた。


「フェニアぁ!」

 跳躍一つで小さな白衣の前に着地。ライカン・フェニアを抱きしめた。

「よかった。よかったあ……あぁあああっ」


「ハティヤ……っ。くっ、苦しいっ。苦しいのじゃ」


 五歳児体型が十五歳の全力のハグを押し返せるはずもないので、ライカン・フェニアは両手をジタバタさせた。その後、看護女性から促されて、ハティヤは主治医を胸に抱いたままベッドに戻った。


「彼女には吾輩から説明するので、三〇分ほど二人だけにして欲しいのじゃ。マダム・キュリーには、そっちでその旨の報告を頼むのじゃ」


「わかりました」

 看護女性が一礼して、部屋を出て行く。そこでようやく、ハティヤもライカン・フェニアを解放してベッドの縁に座らせた。


「ハティヤは、ズレニャニンでの戦闘を憶えておるな」

「うん……喪服姿の女。マダム・キュリー」

「そうじゃ。我々はそのマダム・キュリーに、帝国に降伏した」


 ライカン・フェニアに改めて告げられ、ハティヤは唇を強く噛んだ。それを慰めるように小さな手がハティヤの手を包んだ。


「その後、ハティヤの容態が思わしくなくてな。それで、マダム・キュリーから話を持ちかけられた」

「向こうから。それって、取引?」


「いいや。見返りは要求されんかった。単なる親切心じゃったと思う。じゃが、吾輩はそっちの免疫がなかったのでひどく肝を潰したがのぅ」


 その提案とは、ダヌビウス川を遡上することだった。


 ダヌビウス川は、アウルス帝国、ネヴェーラ王国、七城塞公国を横断する大河である。古来よりどの国もこの川に敬意を払い、渡河中の戦時活動を禁じられた聖域だった。物流経済の生命線。また国の境界として政治面での基準として使用されてきた。


 川は西の帝国から東の公国へ流れ、東のポントス海に注がれる。


 ちなみに、狼はここをポントス海を湖だと想っている。これは地図の寸尺が違うための誤認であり、またポントス海すべてが七城塞公国の領有でというわけでもない。実際は、六カ国の大小国に跨がる「海」と認識され、たびたび領海水域のことで揉めてきた。


 マダム・キュリーは具体案として、この大河を眷属〝水蛟竜〟デヴィッセルでさかのぼって帝国に入ろうというものだった。


「でも、それってフェニアを帝国へ手っとり早く私たちを連れて行く口実よね?」


 ハティヤが腰まで毛布を引き寄せる。ライカン・フェニアは我が意を得たりと頷いた。


「あの場所を少し戻れば、橋があったろう。あそこから川を西へ遡上した。あやつ、吾輩とハティヤを両脇に抱えただけで、増水した川に飛び込みおったのじゃ。〝霊合〟ダイモーンともなると、考え方まで精霊側に近づくとは聞いておったが、まさかあそこまで人に配慮しなくなるとは思ってもみんかったのじゃ」


「ダイモーンって?」


「人が精霊と契約して、肉体を捧げる代わりに精霊の力を思いのままに操る降霊術じゃ。古代巫術師シャーマンが行った秘術だそうな。一度降臨させたら肉体が滅ぶまで離れられないというのを聞いたことがある。もっとも、精霊と同化することで肉体が滅んでも精霊の永命の中で自我を保っておる連中じゃ。覚悟の上で霊合を望んだのであろうがのぅ」


 そんな怖ろしい半人半霊に弓を引いたのだ。今も生きていることが不思議だった。


「ごめんなさい。フェニア。私が無茶したせいで……」


 素直に頭を下げた。

 ライカン・フェニアは大人がそうするように、気にするなと短い両手を広げて見せた。


「確かに、降伏はマダム・キュリーの手中にあったハティヤを助ける意味もあった。じゃがな。吾輩の目的はそのことだけではなかったのじゃ」

「別の目的? どんな?」


「うむ。イフリートが馬車の中で瀕死に陥っておったのじゃ」

「えっ」


「あの雨じゃ。あれは自然気象として降っていたものではなかった。そのことにイフリートは気づいて、自分と馬車の周りに防御陣を張った。これを〝界〟と彼らは言い習わしていた。これをイフリートは解いてしまったのじゃ」


「えっ、どうして?」

「ハティヤがその〝界〟から飛び出したためじゃ」


「あ……っ!?」

 弓を放つ時、とっさに馬の背を蹴って前に出た。


 ライカン・フェニアは窓の方をチラリと振り返って言う。


「〝界〟は外からの力には抗しきれるが、内から外へ出て行く力には脆いそうじゃ。狼が来るまで持ちこたえようと籠城を試みた。じゃが、まあ……不幸が重なったのじゃ」


 ハティヤは思わずうなだれた額を両手で支えた。


「やっぱり私のせいだったんだ……っ」


「ハティヤ。そうではない。事態の一部だけを見て断じるでないのじゃ。吾輩が降伏を申し出たのは、イフリートが瀕死になったから。と申したぞ」


「……どういうこと?」


 ライカン・フェニアは都会の空を見上げて、言った。

「イフリートはあそこで死ぬるつもりだったのじゃ。吾輩とハティヤを守ってな」


 精霊はマナを失うと死ぬ。それは大精霊であっても例外ではなかった。


「わからないよ……。どうしてそこまで」


 その疑問に、なぜかライカン・フェニアは顔を背けた。


「さあのぅ。これはただの推測になるが。マナが急速に欠乏していく中で、イフリートは狼の救援が遅れるだろうと見通しを立てていたのかもしれん。それで最早これまでと覚悟を決め、せめて狼が大事にしていた者たちを守ることにしたのじゃろう」


「だめよっ、そんなの……っ」

「うむ。運命とは皮肉なものでな。ハティヤがあそこで飛び出していったから、イフリートは〝界〟の再構築を諦めた。狼から補給を受けて助かったはずじゃ」


「助かったの?」

「さて。直に見届けたわけではないから何とも言えぬが、そんな気がするのじゃ。むしろ問題なのは……」


 ハティヤも窓の外の目新しい空を見上げて、


「うん。きっと大丈夫よ。私も間に合ったと思う」

「ふむ……そうじゃな」


 狼もあの殿下もライカン・フェニアが再誕する前と後で随分関係が修復されていた。


 するとライカン・フェニアが急にベッドに立ちあがり、腰に手を置いて小さな身体をふんぞり返した。


「しかし何じゃな。やはり都会とはよいものじゃ。しばらくぶりの都会を満喫することを思えば、これでよかったのかもしれんぞ?」


「ふぇにあ~ぁ。居直りすぎ~」

 ハティヤが妹にそうするように、小さな主治医のやわらかい頬を両手でつまんだ。


「半分は冗談じゃ。まあ、都会は本当に久しぶりだし、観察捕虜という足枷はついておるが職にもありつけた。おおむねこの先の自由を取り付けたも同然じゃ」


「もう、逃げようとは思ってないってこと?」


 ライカン・フェニアは真摯な目で見つめ返し、幼い顔を左右に振った。 


「どちらが逃げても逃がしても殺される。二人とも、な。だからハティヤ。お前は帝都に連れてこられたのじゃ。吾輩の足枷としてな」


「……そっか。マダム・キュリーって人、頭いいわね」

「うむ」


 マダム・キュリー。優しいけど、怖い人。寛容の中にも深謀遠慮な水の精霊。その手から逃れようとするには、自分はまだ未熟だ。辛抱しなきゃ。


「さっき職にありついたって言ってたわよね。どんな仕事?」

 白衣は着ているが、医師という感じではない。


 ライカン・フェニアはあっさりと言った。


「ニコラ・コペルニクスの再誕じゃ」

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