第6話 動乱の中を行く(4)


 珍しく雨がふった。

 冷たい雨だった。

 雪路の表面を溶かすでもなく、手袋に雨がしみて手綱を握るのもつらい。


 マルソニアを発って三〇分ほどして、小さな異変からそれは始まった。

 うちの巨馬が不意に足を止めたのだ。


 手綱であおっても前に進もうとしない。その先は、ちょっとした池くらいの大きな水溜まり。黒く濁った水が横たわっていた。


 嫌な予感がした。でも、はっきりした直感を与えない。だから予感なのだろう。

 俺は、忘れていたのだ。

 雨で鼻が満足に利かず、その黒い水が俺にとって〝悪夢の象徴〟だったことを。


「狼。どうした」

 幌カーテンからヘレル殿下が顔を出す。


「殿下は中にいてください。前の水溜まりの状態を見てきます」

「水溜まり……? わかった」


 俺は御者台から降りて、水溜まりのそばまで行く。

 水面は俺を映さない。とっさに理解が遅れ、悪寒が全身を駆けぬけた。


「これは……まさかっ!?」


 後退ってうちの巨馬を背中で押し戻すのと、雨に混じって火矢が降り注ぐのは同時だった。


 黒い水溜まりに火矢が次々と飛び込んだ。

 直後、黒煙と熱と赤い光が、俺の前に現れた。


 瞳の中で、紅蓮がたけり狂う。

 理性が瞬時に焼き切れた。全身を痙攣させて、その場に立ち尽くす。


 ──ドゴォッ。


 背後から強烈な衝撃をあびた。敵の襲来と理解するより先に、俺は炎の中へ突き落とされていた。

 なす術もなく、視界が真っ赤な炎に支配された。


   §  §  §


 火災報知器のベルがうるさい。


 編集部が燃えていた。

 炎の海の中にフルフェイスのヘルメットをかぶった男が佇んでいる。異星人の頭蓋じみた無機質な白い覆面。出来損ないの火炎ビンを持って俺を捜している。


(戻って、これた……あの日に?) 


 絨毯の安っぽい手触り。事務チェアの頼りなさ。机下に転がる同僚の私物。

 そして、充満するガソリンの臭い。


 戻ってくるにしても最悪なタイミングだ。またここから逃げなきゃいけないことに気が滅入る。


 俺はまた、筒状に丸められたヨガマットを掴み、低姿勢のまま編集部を出る。

 やっぱり廊下は濡れていて、目眩めまいがするほどの濃いガソリン臭に怖じ気づく。


 大丈夫だ。今度は失敗しない。壁際に寄って走る。


「見~つけたぁ!」


 背後からノイズの多い声。高いのか低いのか。男か女かもわからない。

 ガシャンッ。火炎ビンが自動ドアにぶつかって砕けた。


 男のミスではない。これは次の準備だったはず。火災報知器のベルがうるさい。 

 そして、開いた自動ドアの間から次の火炎ビンが飛んできた。


「ツカサ……ツカサっ。俺を守ってくれっ!」


 ビンが廊下で砕ける前に、広げたヨガマットで受け止めて包む。その上から手でバタバタと叩いて火を消した。


 やった……。凌いだ。今度は生き残った。生き残れたぞ。

 もう、あの世界に行かなくてもいいんだ。


 達成感と安堵を握りしめて、昇ってきたエレベーターに乗り込もう。

 あとは、あの分厚い金属扉が地上まで俺を守ってくれるはず。


 そう思っていた。


 ──チーン……ッ


 金属の扉が左右に開いて、俺は目を見開いた。

 エレベーターの中から白いフルヘルメットの男が現れた。


『バーカ。この世界にご都合主義な展開は、どこにもねーんだよ』


「そ、そんな……っ」


『お前、ガソリンの引火点を言ってみろよ』


 引火点とは、可燃性物資の液面に近づけたときに燃焼が始まる最低温度のこと。この引火点に達していなければ、火を液体に近づけても火は点かない。だが、

「ま、マイナス……四〇、度」


『ピンポーン。なら、この廊下でガソリン臭がしたってぇことは』

「揮発し、ガス化していた」

『ピンポーン。てぇことは?』


 悔しいのに、認めたくないのに言わされる。

「俺がマットで火炎ビンを受け止めた時、既に廊下は可燃性のガス室になって、いた? 俺がマットで火炎ビンの火を消す前に廊下のガス化したガソリンに引火。爆発して……いる?」


『またまたピンポーン。くっくくっ。わかってんじゃねえか。なら、あの時。投げたお前は頭で受けたと思っている。だが、その記憶が間違っていたのだとしたら?』


 記憶が間違い……っ? 俺は廊下に濡れたオレンジ色の液体を見つめた。


「俺の頭は、その爆発で吹っ飛んだ?」


『大正解~。もちろん、スイカみたく四散するだけが爆発じゃあねえよな。ガソリンの爆炎によって一瞬で黒焦げにされたんだ。もうお解り?』


「俺は、本当に。死んだ……のか」


『うっくくくっ。さあ、わかったらオレと一緒に、異世界の地獄に落ちようぜぇ』

 俺は頭を鷲掴まれて、エレベーターの中に引きずり込まれる。


「や、やめろっ」


 思わず暴れてその手を払った時、男の手が真っ黒に煤けた。その手が拳の中に握り込まれると、頬が衝撃でズザリと削れた。


『げぇっ。炭化した人間の顔を殴るなんて気色わりぃことさせやがって。クソが。いいからこいっ』


 俺の、顔が……炭になって……っ!?


『嫌だ。やめろっ。離せ。離せぇえええっ!」


 俺は手足をしゃにむに振り回したが、男の腕力が凄まじくエレベーターの中に引きずり込まれた。左右のドアが閉まると、俺の世界はまた闇に閉ざされた。


『いい加減わかれよっ。鋼タクロウという人間は死んだが、お前の魂そのものは、死ぬことを許されなかったんだってなっ!』


   §  §  §


「──かみ、狼っ。しっかりしなさい!」


 バチン!

 刺すような冷たい衝撃に俺はバチリと目を見開いた。

 起きて、目の前にあった少女にむしゃぶりついていた。


 間髪を置かず、俺の肩に箭が突き刺さった。だが離さなかった。


「がっ、ぐぅ……うううっ!?」

「お、狼っ!? 大丈夫っ!?」

「……なかった」

「えっ? 狼っ……泣いてるのっ?」


「前にいた俺の世界に、もう俺の頭がなかった。なくなってた。戻れなかったあっ」

「狼……っ。寝ぼけてる場合じゃないんだからぁっ!」


 両耳を掴まれて引っぱられた。痛みで焦点が定まった。鼻の先にハティヤの怒り面があった。


「狼っ。交戦中よ。集中しなさいっ!」


 泥だらけの手で顔を左右から挟まれ、ぐりんっと左に向けられた。

 その視界の先には十数騎の騎馬。周囲を旋回して逃げ場を失ったヘレル殿下とウルダの姿があった。あと、なぜかうちの巨馬も巻き込まれてる。


「あれ。ティボルがいない」


「彼は、あっち。樹の陰に隠れて、森の中から狙ってるボウガンを牽制してもらってる。彼の援護で、私がこうして狼を起こしに来られたのっ」


 俺は自分の顔を触ると、ボロボロと手に黒い粉がついておののいた。畑の泥だ。炭化した自分の皮膚と見間違えた。嫌な夢だった。安堵と同時に疲労感を覚えた。


「狼。いけそうっ? というか、動いてもらわないと困るっ」

「うんっ。大丈夫」


 俺はハティヤを抱えたまま馬車まで泥畑を駆けた。

 いつの間にか馬車まで十数メートル離れていた。石油炎を見て大パニックに陥り、この畑の中まで転がり出たらしい。

 箭が一度だけ俺のそばを駆け抜けた。焦って放ったのか軌道がだいぶ逸れていた。無視して速度をさらにあげる。


 水溜まりにもう炎はなく、例の燃料くさい臭いがいまだ熱をもって辺りに漂う。俺のトラウマをうずかせた。


 わが主様を幌に入れると、代わりに荷台の隅に寝かせていた魔法斧を掴む。


「俺はウルダの応援に行く。ハティヤは俺が飛び出した五つ後、ティボルの応援を。敵はどれだけいるかわからない。できるだけ森から追い出して」


「了解。狼も気をつけて」ハティヤは鋭く応じた。


 俺は馬車から魔法斧を出しざまに、先ほど箭が飛んできた森へを薙いだ。


 突風が雨も雪も泥も吹き飛ばし、遅れて馬の首ほどもある若い樹木が白い切断面を残してつぎつぎと倒れていく。


 箭はもう来ない。


 すぐ斧にマナを充填。畑を走りながら、包囲陣を敷く騎馬に向かって風を放つ。

 風は彼らの足下に着弾して、盛大に泥を跳ね上げた。馬が浮き足立って、包囲が崩れる。


 俺は頭を低くして少女の元へ疾駆した。


「ウルダーっ! 戻れっ」


 走りながら拳を掲げる。その腕に〝郭公ククーロ〟のザイルが巻きつき、二秒後にはウルダが俺の肩を蹴っていた。

 すれ違う時に、少女の頬と腕に刃傷を見つけた。


(んにゃろうっ。よくもうちの子の嫁入り前の顔に傷を付けてくれたな。許さんっ!)


 俺は蹴られた勢いにのって前へ加速。まさに正面。ウルダに追いすがってきた騎馬が三騎、気炎を上げて猛然と突っこんでくる。


 俺は足をつっ張り、泥を滑る。慣性に流されながら魔法斧をフルスイングする。


「風よぉおおおおっ!」


 振り抜くや、眼前に孤月型の白雲が現れた。

 三頭の馬首と三人の騎手の胴体が雨空へ舞った。


 さらに後方にいた仲間の一人が、運悪く飛んできた馬の首を避け損なって落馬。動かなくなる。


「お、狼頭だ! 獲って名をあげろ! ヤツの首に金貨三〇〇──」


 言い終わるのを待たず、叫んだ男の眉間に穴が開いた。


「不埒よな。貴様らの前にいるのが、おのれの生を賭しても挑むべからざる相手だと、なぜ解らん」


 ヘレル殿下が、うちの巨馬の背の上で胡座をかき、頬杖をついていた。

 指二本を銃に見立てたわけでもないだろうに、指先の小さな炎を吹き消す。


「狼頭……かまわんのだろう?」

「ええ。マナは弾みますよ」


「よしっ! 痴れ者どもが。余に仇なしたこと、地獄でとくと悔いるがよいっ」


 ヘレル殿下の背後に複数の火球が浮かび、たちまち火線を放った。

 その神々の暴虐に匹敵する行使を、俺に止める術はなかった。


 高次エネルギー収束帯は熱量が高く、城壁をバターのようにやすやすと斬り裂くのはビハチ城塞やセニの町でも実証されていた。


 そんなものが、体内の七割が水分である人間を通過すれば、どうなるか。


「ばっ、バケモノだ。に、逃げ──」


 瞬時に沸騰し、水蒸気爆発が起きるに決まってる。


 かくして、地上に目を覆いたくなるほどの不快な花火が炸裂した。


 俺は肩で息をしながら、畑の真ん中に座り込んだ。

 あとで大精霊から請求される維持費が怖いけれど、窮地は脱せたようだ。


 それにしても、最悪の夢を見せられたもんだ。


 普通の火ではなく、化石燃料の炎がトラウマの引き金になっていた。

 さんざん石炭を扱っておきながら、石油がこの世界にないと安心していた俺が浅はかだった。


 ライカン・フェニアと再会したら、心療内科、受診しようかな。 

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