第71話 ラストフレンド
ヤドカリニヤ邸を出ると、外は青暗く、やや遠い海波だけが蒼白く光っていた。
「狼。どこへいくの?」
家とは違う方向へ歩き出した俺を、ハティヤが呼び止めた。
「〝なぞなぞ姉妹亭〟。博士にちょっと相談することがあるから。話は長くなると思う」
「そう。夕飯は」
「うん。向こうで食べるよ」
「わかった。あまり遅くなりすぎないようにね」
俺はラリサと一緒に海側へ向かった。
「なんか、ハティヤって狼の奥さんみたいだね」
「えぇ?」
俺は思わず聞き返す。
「だって。会話がそんな感じだった」
「そうかな。俺は飼育されてる感じがするんだけど」
「世の男どもの大半が同じ被害妄想を抱いてるらしいね。先生が言ってたよ」
「ペルリカ先生?」
「うん。男は女をうるさいと感じ、女は男をだらしがないと感じてる。でも面と向かい合うとそんなことは、おくびにも出さない。それが夫婦なんだって」
まったく、あの恋愛研究家は……。
「ラリサ。あんまりあの先生の恋バナは聞かない方がいいよ」
「なんで?」
「あの先生が言うと、男と女の真理のように聞こえるけど、実際はそんな単純なもんじゃないから」
「そうなの?」
「男と女が出会って、こういうもんだと割り切れるのなら、あの先生自身が幸せになってないとおかしいだろ?」
「ふーん……それもそうか。美人だしね」
ラリサはまだ気のない返事に留まる。俺は頷いた。
「ハティヤのことだって、俺はまだ恋愛よりも尊敬と畏怖のほうが強いよ。初めて出会った時から世話になってばかりだし」
「へぇ。まだって事は、少しは気になってるんだ」
ラリサもその手のことに興味津々らしい。
「まあね。でも彼女、隙がないんだ。こっちの出番は今のところなくてね」
「あー、それはわかるよ。だから、息抜きかい?」
「ラリサ」
俺は困惑の眼差しを向ける。ラリサは楽しそうに笑った。
「冗談だよ。でも、今日は興奮しっぱなしで寝られそうにないよ」
「受賞おめでとう、と言っとく?」
「うん。ありがとう、と受け取っとく」
「ラリサ、実際に矢であの風船を割ったんだろ? どうだった?」
返事はすぐには返ってこなかった。
「狼から聞いてなかったら、多分取り乱してたと思う」
「そんなにすごかった?」
「そりゃそうさ。空へ燃え上がる炎の中に重鎧を着た騎士が二〇人以上も、馬ごと空を飛んでるのが見えたからね」
大惨事じゃないか。俺は思わず目を閉じた。
「ごめん」
「なんで狼が謝るんだよ」ラリサはちょっと不機嫌な声をあげた。
「俺があんな物を造らなければ──」
「この町はめちゃくちゃになっていたよ。あいつらのせいでね」
俺の言い訳にかぶせるようにラリサは断言した。
「あいつらの話し声が遠巻きながらに聞こえてきたんだ。水浴びして寒いから、町に入ったら風呂屋を探して女でも抱いて人心地つきたいってさ。あたしはすぐに思ったよ。あ、こいつら殺してもいいようなクズ連中だってね」
意外と潔癖なところがあるのかな。それとも、男性に対していい思い出がないとか。
「彼らも最悪な状況下で、少しでも安心材料を得ようとして軽口を叩いただけかもしれないよ」
「だとしてもさ。あたしは狼の風船があんな大きな炎をあげる〝魔法〟を作ったにしても、あんたを怖がる気はないってこと」
「他の射手はどうだった?」
「そりゃあ、最初はデカい炎にみんなビビってた。だからあたし、言ったんだ。『誰のお陰で町が守れたと思ってんだ! あたしらはただ的に矢を放っただけだろ』てね」
「ラリサ。ありがとう」
「本当のことだよ。なのに、狼だけが表彰されなかった。あの人って目が節穴なのか、身内贔屓しかできない骨ナシかって思った」
ほらな。こうやってちょっとずつ恨み買うんだぞ。メドゥサ会頭。
「でも、狼とあの人の部屋に入って。あの人、頭下げてた」
「うん。あれは誰にでもできることじゃないよ」一応メドゥサ会頭をフォローしておく。
「それに、狼も怒っただろ? 床を踏みつけて」
「あれは……っ」うまく説明できない。跋が悪い。
「スコールもハティヤもウルダも、びっくりしてたよ。でもあんたの怒りは、あの人のために怒ってた。あたしにはそう見えたけど」
「そう思っていただけると、こちらも助かりますね」
「なんで怒ったの?」
「えっ」
「別に雇用主じゃないんだろ。隊長(カラヤン)の奥さんってだけだし。あんたみたいにいろいろ物を作れるヤツなら、他に雇用主はいくらでもいるんじゃないのかい」
いないだろうな。俺のこの顔を見ても真っ当な仕事をくれるのは、マトモな人間じゃない。
「ラリサ。俺はね。カラヤンさんに救ってもらったんだよ」
「あんたが、あたし達をこの町に置いてくれたようにかい?」
「そう。俺はカラヤンさんを裏切れない。だからカラヤンさんやシャラモン神父のした英断を、つまらない私情で台無しにして欲しくなかった。
それにね。彼女が俺の作った石けんで店を大きくしたことと、俺が物を作ってることは厳密には関係ないんだ」
「なんでさ。あんたが作った物で、あの人どんどん儲けてるんだろ?」
「その結果に興味がないんだよ、俺は。俺の興味は、自分の作った物がこの世界──はちょっと大げさか。いろんな町の人達に受け入れられたということが、俺にとって重要なんだ。それで儲けるか儲けないかは、ヤドカリニヤ商会が判断すればいいことだから」
「よくわからんけど……やっぱり変わってるよ。あんたって」
「うん。俺が本当に欲しいのは手に余る金じゃなく、自分の楽しい嬉しいを他の人達と共有できることじゃないか。と最近になって思い始めてる」
「共有……やっぱりあたしの頭じゃ理解できないかも。いるの、そんな人?」
「うん。今からその人と、例の風船の反省会だよ」
二人で〝なぞなぞ姉妹亭〟が見える場所まで来た。
その看板の下で子供三人がラリサに手を振る。
「しぇんしぇ~っ。もふもふもきましたーぁっ!」
エイルは見張りの仕事をしていたらしい。
すると俺たちが入口にたどり着く前に、白い眼帯を巻いた清楚な女主人が飛び出してきた。ブラウンのロングスカートを少し持ちあげて駆け寄ってくる。
「うちの先生、なんでモテないんだろう」
「いや、まったく」
二人でしみじみ思っていると、ペルリカ先生が俺たちの前で雪に足を滑らせた。俺とラリサで反射的に背中と腰を受け支える。
「もう、先生ぇ。何やってんですかあ」ラリサが呆れた声を洩らす。
「狼っ。フェニアを追ってくれ!」
「えっ」
俺はペルリカ先生を抱き起こした。ペルリカ先生が俺の服を掴む。
「ついさっきだ。彼女が店を出て行った後に、五人の男がその後を追っていった。身のこなしからこの町の人間ではない。戦闘経験者だ」
「えっ。先生、見えてるの?」
訝しむラリサを、ペルリカ先生のきれいな手が制する。
「狼。フェニアはずっと監視されていたのかもしれん。追ってくれ。西だ」
俺は返事する間ももどかしく走り出した。
走りながらライカン・フェニアの匂いの糸を探す。
よし、見つけた。まっすぐ西門へ向かっている。そのまま町を出る気か。
その彼女の匂いにまとわりつく知らない匂いが五つ。猟犬の臭い。今までこの町で知らない臭いが三つだ。新参者か、それとも匂いを消す特殊な訓練を受けた者。
後者なら、もう匂いを消す必要がなくなったというわけか。
その理由は一つしか思いつかない。
(博士が危ない……っ!)
「イフリートぉおおお!」
足に【風】のマナをかけて凍りついた黄昏の路面を滑走しながら、大精霊を
小さな町のくせに西門までの距離がひどく遠くに感じた。その時だった。
横道からソリ馬車が現れた。
とっさに跳躍で躱し、幌屋根を滑って再び着地──走り出す。
一般相対性理論は、俺に味方しなかった。二秒のロスに歯がみする。
馬車の幌屋根で掴んだ雪を【水】マナで補強して氷槍を作った。人数分はいらない。一人に投げて、ひるんだ隙に博士をかっさらって逃げればいい。
「いた……っ」
見慣れた背中が、背嚢を負って西門を潜るところだった。なんで今日に限って西門が閉まってない。腹が立つ。
「博士ぇーっ!」
叫びながら、俺は槍投げの要領で彼女へ氷槍を投げ放った。ただし、曲射ではなく平射。野球なら剛速球のレーザービームだ。
俺の声で、科学の魔女が振り返る。氷槍が彼女のすぐ前にまで迫った。
と、氷槍が突然の虚空に刺し止められた。氷がみるみる赤く染まる。
やがてボロボロと黄昏が剥げて、人の姿が現れた。
「なっ、なぜ、だ……ごはっ」
男は口から血を吐いて、その場に崩れ落ちた。
「ひぃっ!」
博士は、おののいて後退りした。
俺は博士に、あと五メートルまで迫る。その時だった。
衝撃が背中に落下してきた。自分の身に何が起きたのかは無視。走る。
あと三メートル。
「狼っ!?」
ライカン・フェニアの怯えた顔は、自分のことではなく俺の危機を見てだった。
あと二メートル。
「博士、逃げ──」
俺はついに凍てついた地面へ押し倒された。そこでようやく振り返るとフード姿の男たち複数人の体重で取り押さえられていた。
肩越しにあったフードの中の顔は、〝霧〟のグリシモンだった。
「お前ぇええええっ!?」
俺が怒りを込めて吠えると、俺の監視者の顔が恐怖で引きつった。
「わっ、悪く思うなよ。これでも、あんたとこの町のためにやってんだ」
「離せ、離せっ! 離せぇええええ!」
俺は【土】マナを発動させた。拘束を受けたまま彼らを持ちあげて進む。
「なっ。嘘だろ……こいつっ!?」
「足だ。足を押さえろ!」グリシモンが悲鳴じみた声でがなる。
邪魔だ。
あと、一メートル。──手を伸ばす。
俺の指が触れる三センチ先で、ライカン・フェニアが雪泥にひざまずいた。
胸には細いナイフの柄が根元まで突き刺さっていた。
〝おのれ。逃がしはせぬぞ、下郎ども〟
突如として
遅れて姿を顕した人影は女だった。冷たい路面を四つん這いで方向転換。二足歩行へ進化する前にその細首を炎の足に踏まれ、不快な焦音をさせて焼き切られた。
「博士……はか、せ?」
俺は彼女の華奢な身体を雪泥から両手で掬いあげた。横から小さな頭と上体を背嚢ごと抱きしめる。
──『真空パックのコーヒー豆が奇跡的に発掘できてな。しかも統一暦二〇二〇年物のアラビカじゃぞ。お前も飲みたければ、そこの給湯室に置いてあるからドリップするといい』
──『これは……カマメシじゃ。あの時のサケカマメシじゃ! ははっ。こんなにマズかったのか。懐かしい……懐かしいのぅ、懐かしいのぅ』
──『ふふん。ならば安くはないぞ。吾輩が狼のつくった炭火で一番に焼きサンマを食うてやろう』
──『博士。今日は何が食べたいですか』
──『そうじゃな……〝ファミレス〟にあるようなジューシーなチーズハンバーグ』
──『おお、もふもふじゃ。手術前にこれに触っておきたくてな……だから、泣くな』
ライカン・フェニアは、この異世界に来た〝鋼タクロウ〟にとって、最後の〝友達〟だった。
「いやだぁ……いやだぁあああ! 博士ぇ!」
「おお、かみ……か」耳許にか細い声が囁きかける。
「博士っ!?」
「お願、い……迎えに、来て……。もう、独りで、目覚め……寂し、すぎ……から」
次の瞬間。科学の魔女ライカン・フェニアは、俺の腕の中で白い人形に代わり、ついでドロリと崩れ朽ちた。
雪に混ざって消えるまで、タンパク質の焼けるようなひどく人間くさい臭いがした。俺の両袖が溶けて腕がピンク色になった。複製体であることを隠滅する強酸だ。
跡には、彼女の背嚢だけが遺された。
俺は、三日月に吠えた。
(第9章 了)
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