第12話 魔狼の王(11)
ダンジョン山は、吹雪だった。
人が歩いて昇れば四時間かかるらしい山を体感十五分で登ってきてしまった。
とんでもない加速力。跳ぶよりも飛んでいるに近く、ほぼ振り回されている感覚。狼が大ケガをしなかったのはカラヤン兄貴に勝ったのと同じ理由だったのかもしれない。
とにかく、気づけばあっという間に山の頂にいた。
少し息があがって興奮状態だった。なんの考えもなしに山頂の崖から飛び出した。
落下。
しまったと思った時にはすでに遅く、背中を激しく崖に激突させていた。岩というより鉄の屋根にぶつかったような音がした。
気がつくと、再び飛び降りた場所に倒れていた。
たぶん下からの突風が、オレの身体を崖からここまで押し戻したらしい。気を失っていた。とっさに助かったという安堵。つかの間、この場所から出られない焦燥と恐怖で塗りつぶされて、息がつまった。
ここまで来たら、なんとかするのは自分しかいない。
「腹が……減った」
岩陰を探して、籠もる。モモンガマントを着たまま袖から腕を抜いて背嚢をおろし、マントの中、手探りで携帯食料を掴む。狼お手製の木実を
なんとかしないと。でもどうするかなぁ……。ない知恵を絞ってみる。
雪が右へ左へ、上へ下へと荒れ狂う。どっちが北か南かも分からなくなってしまいそうだ。
「おーい。風ぇ。オレは西に行きたいんだよお」
風に訊いてみた。
すると、急に風が強くなり、手に持っていた携帯食料の包み紙が吹き飛ばされた。
包み紙は空高く舞い上がって、またたく間に雲の彼方に見えなくなった。
「おお……おっ!? そういうこと? 急がば舞い上がれってこと?」
自分で言っててもよく分からん。でも、なんかひらめいた。
それになんだか、楽しそうだ。
マントに袖を通すと、すぐに次の強風が来た。
オレは岩陰から飛び出す。行き先とは逆の北へ走った。せつな、背中を巨人に蹴り飛ばされて、背中がのけ反る。たちまち足場を失った。
恐かったけど、今度は気を失わなかった。四肢をばたつかせず、力の限り張り出して風を受ける。身体がどんどん押し出されて、山頂がどんどん遠ざかっていく。雲へ。
「うおぉおおおおっ!」
押し上げられた風が突然、向きを変えた。風が胸に叩きつけられる。
オレは身体を縮めて捻り、体面を変えてまた四肢を張る。
背中が雲の中へと押し上げられた。
滑空しているのではなく天昇していることが、オレを興奮させた。
後で、このことを狼に話したら、おそらく帆布と毛布の間に偶然空気が入って膨らみ、翼の形状になったことで〝ヨウリョク〟が生まれたのだろうと言った。
なるほど、よくわからん。
あの時のオレは興奮しっぱなしで、伝令のこともしばらく忘れて空を目指していた。
目の前の雲を突き破りたかった。
いつの間にか、あの大きな壁を越えたことにも気づかず、上へ。上へ。
オレは無性に、真っ青な空を掴みたかった。
§ § §
気づくと馬車に揺られていた。
駅馬車の中で、マムの腕に抱かれ、目が覚めた。
マムは今でも、どこでオレを拾ったのか、詳細を話してくれない。
行きずりの狩人に引き取ってもらえないかと頼まれて、三ロットで引き受けた。
その場所は、山裾の草原に大きな牧羊の群れがあったと思い出すだけ。
「結局、メトロノーラを除けば男の子ばかりになっちゃったけど、それも運命かしら」
あの時の出会いを後悔したことは一度もないわよ。と、思い出すだけ。
最寄りの町はどんな名前で、どんな狩人からオレを買ったのか、言わない。
この二〇年。オレはマムに愛されてきた。
それは嬉しいことで、安らげること。
でも、窮屈だった。
家の外に出てはいけないし、来客が来た時には部屋から出てもいけなかった。
マムは、人との会話に笑顔を浮かべ、雨が土を濡らすほどに物憂げに悲しみ、猫が毛を逆立てたみたいに怒り、鳥が春を歌うように一日を愉しむ。そんな母だ。
オレの世界には、マムと兄貴達しかいなかった。
それでもオレは周りと違うと、わかった。
なんで違うのだろう。
その疑問を四男レントに投げた。
あの時は間違いなく、訊いた相手が悪かった。
せめていつも忙しい二男モデラートに訊くべきだった。三男アンダンテはテキトー過ぎるし、六男のラルゴはもう無口だった。
「そら、お前。獣人やもん。獣人引き取ったてわかったら、密取引になるからなあ」
「じゃあ、どうしたら人になれるぅ?」
「はあ、人ぉ? お前、人なんかになりたいんか」
「だって、人になったら自由にお外、出られるんだよなぁ」
「やめときやめとき。人なんぞ、なるだけ損やわ。一日中部屋でゴロゴロしといた方がなんぼか楽な生活できるさかいな」
「それが、しあわせ?」
「は、なんです?」
「しあわせって、人それぞれってマム言ってた。人にならなきゃ、しあわせになれない」
「ちゃうちゃう。そら違います。ヴィヴィ。よぉ聞きよし。しあわせっちゅうのはそんなもんやおへん。目に見えん尊いもんです。気をしっかり持ちなはれや」
「とうとい? でも人にしかないんだよなぁ」
「わては最初から人やったさかいに、ヨソさんのことはよう知らしませんわ」
「レント。でもオレ、獣人なんだろ。純粋な人になりたいんだ」
「あっ。……ははっ。じゅ純粋て、お前。いややわあ、わてとこんなに話ができとるし、もう立派な人やおへんか。なぁ。あとはそうっ。お母はんに訊いてみたらよろしで。ほなな」
レントは急にしどろもどろになって、逃げた。
オレは獣人で、人じゃない。だから、オレはしあわせに──、
「自由に、なれないんだ」
鏡を見つめ、頭の先についた赤毛の耳を見つめる。
「こんなのがあるから、オレは人になれないんだ」
オレは
あれは七つの時だった。
人になりたかったバケモノが、人になって愛が変わらずそこにあり続けたことを知った。
§ § §
激しい痛みで目が覚めた。
カラスがヘルメットごしに頭をつついてくる。
とっさに右手で払おうとして、動かない。力が入らない。
左の籠手を動かすとカラスが一斉に逃げ出したが、そばの枝に止まる。どうやらオレが食い物に変わるのを待っているらしい。ムカツクので鉤爪で狙おうとして、やめた。
頭がひどく痛い。眼鏡のガラスも割れている。銅製ヘルメットを左手だけで脱ごうとして側頭部の銅板が激しく歪んでおり、なかなか脱げない。
やむを得ず籠手のベルトを犬歯で外す。その作業だけで息が切れた。改めてあごからヘルメットの内側へ指を入れると、こめかみのあたりでぬるっとした感触に嫌な予感がする。
痛みをかみ殺し、ヘルメットの内側に指を滑らせ銅板を押し広げる。それから、ようよう脱ぎ捨てた。ヘルメットが雪に落ちるまでたっぷり三秒かかった。また息が切れるが開放感に息を吸う。
束の間に泳いでいた青空も、今はもう茜色になっていた。
「ごめんよぉ、狼」
狼の言いつけは、魔導具での大壁越え。青い空を目指して気分よく飛んでいいはずがない。風に乗って身体が浮くのに任せて高く飛び、いつの間にか飛行中に意識を失って風に流されたらしい。
スコールからも、飛行中は寝るなと言われていたのに。
おかげで夕暮れになってここがどこだかわからない。迷子になってる。自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。寂しくて泣きたくなる。
「痛てて……。でも、眠くなったら寝るんだよなぁ」
言い訳も独りで口にすると、寂しさが増す。周囲の静寂が自分の弁解を非難しているようだった。
とりあえず陽の沈む方角へ。西を目指そう。街道を探して、集落の明かりを探す。
もう魔導具を使って進む気にはなれない。あの速度は傷に響く。
左足がズキズキする。折れているかもしれないけど、引きずれば歩けないほどではない。
背中に狼の信頼を背負ってなければ、一晩くらいあの場で眠っててもどうということはない。むしろ軽いケガならそれで回復する。こういうところで人と違うことを喜んでいいのか悪いのか。
「オレは失敗したんだぁ。でも、オレはやらなくちゃいけないことは残っている……っ」
やるべきことをやらなかったのを失敗のせいにしちゃいけない。失敗はしたけど、やるべきことはやりとげるんだぁ。
狼をガッカリさせたくなかった。スコールの反対が正しかったと狼に認めさせたくなかった。
〝運び屋〟の初仕事として前金だってもらっている。大銀貨一枚。
マンガリッツァが、仕事をせずに巣へ帰れるものか。
「ローギーぃ!? 帰るよーっ!」
デカい女の子の声だ。声にも名前にも聞き覚えがあった。でもオレは信じられなかった。
「わかったーっ!」
意外にも近い茂みの向こうから声がした。聞き覚えのある少年の声に、涙が溢れた。
「ロギっ。ロギーっ。手を貸してくれぇ!」
「……えっ。その声、ヴィヴァーチェ!?」
茂みの裏から回り込んで出てきたのは、あの絵のうまい少年だった。
オレはとっさに全身の力が抜けて、雪の上に両膝をついていた。
「ヴィヴァーチェっ。うわっ、どうしたんだよ。その格好っ!?」
「ロギだぁ。本当にロギだぁ。よかっだ~ぁ……セニに戻ってこれだぁ」
まだ信じられなかった。出来過ぎてる幸運に、オレは泣いた。たった半日ちょっとで、公国を飛び越えて王国まで横断して、ここへ戻ってこれるなんて、まだ夢を見ているようだ。
「ロギ、頼むよぉ。ラリサか〈ヤドカリニヤ商会〉に連れて行ってくれよぉ。急いで狼の手紙を渡さなきゃ行けないんだぁ」
§ § §
「それは
セニの町・シャラモン家。
狼が寝起きしていた部屋のベッドに寝かされて、オレはここまでやってこれた事情を思い出せるだけ話した。
話を聞き終えたペルリカ先生がまず、そう言った。
部屋にはシャラモン神父やフレイヤ、ロギ、ラリサもいた。
「
シャラモン神父が訊ねた。
「ふむ。北風は北風だが、南から来る湿った温かい風──
この子は、その偶然気象である北風と南風が衝突する境を山頂で受けて、乱気流に舞い上げられた。そして西に向かったことで、黒北風にうまく乗り換え、その風に乗ってセニまで運ばれてきたのだろう。九死一生に匹敵する幸運と言えるな」
「では、もう一度こんなことができる確率は?」
シャラモン神父が美笑とともに訊ねる。
「たわけ。万に一つも、あるはずがなかろう」
ペルリカ先生はブゼンと言い、イスで脚を組み直して断言した。
「そもそも山の上から滑空を想定して狼も指示したのだろう。なら、そこに乱気流が発生していて、それを意図的に利用して空を飛ぶ発想が、あやつにあったと思うか?
しかし、ここにきてまた〝ケルヌンノス〟二柱説か。以前、狼からその仮説は聞いていたが、まさか実在する糸口が見つかるとはな。サルテコア大公が三〇年もその事実を近隣諸国にひた隠して、自領にのみ豊穣をもたらしていたのか?」
「むしろ、そうでなければ鎖国など、とても無理でしょう」
「狼も、数少ないケルヌンノスの伝説伝承から、よくぞそんな習性を導きだしたものだ」
「
「いや、まだ信じがたいな。〝七城塞公国〟を含めた東方諸国において、〝獣の神〟と〝魔狼の王〟に似た邪神の伝承は、割と
「では、サルテコア大公は、恣意的に邪神を呼びだしているのでしょうか」
「どうだろうな。昔から、世継ぎと神殺しは古式ゆかしい通過儀式だ。だが仮にも豊穣の神を囲い物にしていたほどの甲斐性持ちが、神にみずから手を出すとは思えん。やはり邪神を
「はい」
「明日の午後にも出かけてくれるか。狼の邪神探し、手伝ってやってくれ」
「はい。承知しました……」
「ただし、狼要望の全八〇名ではなく、半分の一個小隊を選抜。残りは留守居としてこの町に置いていってくれないか」
「と、おっしゃいますと」
「こっちの王国側にもいるのだよ。もう一柱の豊穣の神がな。そして、彼の者になんらかの危害を加えようと目論む魔女が一人いる。こっちにも邪神が召喚された時に、情報を集められるように備えておきたい。頼む」
「わかりました。商会にもそのように伝えておきます」
「うむ。すまんな」
それからペルリカ先生はオレの頭を撫でた。
「赤毛の〝ヴェアヴォルフ〟。まさかカルカラス族の生き残りがまだいたとはな」
マムがかけたオレへの〝魔法〟がいつの間にか消えていた。
久しぶりに見た自分の真姿は、十二歳のクソガキに見えた。
ペルリカ先生は、オレが風の中で気を失っている間に魔法が解けたのだろうと言った。身体が小さくなったことで体重が軽くなり、魔導具を下にして不時着したことが命を拾った原因だろうと。右腕の骨折も、頭のケガもその生存の代償だと。
「センセーは、オレの生まれのことを知っているのかぁ?」
「まあ、エディナ程度にはな。賢いがゆえに生きることよりも滅びを選んだ部族だ。人は彼らを〝怪物〟と後世に記したが、エディナも
「……残すために、滅びた?」
「そうだ。今から二〇〇年以上。いやもう三〇〇年になったのか。今後、お前を獣人と呼ぶしか能がない連中はともかく、ヴェアヴォルフの名を口にする浅学者すら、もはや限られているだろう。家に戻る時はその姿で〝母〟に会ってやるといい。もう大丈夫だと安心させてやれ」
「うん……でも、オレ。まだやることがある。狼のそばでいっぱい勉強したい」
「ほほほっ。そうか。なら狼の許へ戻る前に、ここから手紙を出して母にそう伝えてやるのだな。無茶はやっているが、一つ大きな仕事を成し遂げた。相変わらず元気だと、な」
ペルリカ先生はオレの頬をやさしく撫ると、部屋を出て行った。
オレは大きな息をついて、目を閉じることにした。
きっと夢は見ない。
空を飛んだことに後悔なんてしてないから。
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