第51話 魔法使いが憩う店 前編


 脚気かっけ

 ビタミン欠乏症の一つ。病名の由来は、ビタミン欠乏が重度化すると心不全と末梢神経障害をきたす場合があり、その心不全による足のむくみ、神経障害からの足のしびれが起きることから、名づけられた。


 心臓機能の低下ないし不全を併発したときは脚気衝心かっけしょうしんと呼ばれ、最悪、死に至る。


 前世界。昭和の時代。

 日本のとあるコメディアン集団が、脚気検査をギャグにしたことで脚気の社会認知を爆発的に広進させたと、ツカサから聞いたことがある。一方で、彼らがその病気を笑い話にしたことで、日本人は脚気を死に到る病だったことまで忘れがちだ、とも。


 日本における脚気は、古くは『日本書紀』にすでに似た症状の記述がある。江戸時代にも、江戸で大流行し「江戸患い」と呼ばれた。

 この二つに共通しているのは〝白米〟だった。


 大正時代になると、脚気は結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。大飢饉ききんや物流の都市部集中。日清・日露と度重なる戦備増強などにより、地方の食糧事情が危機的状況にまで追い詰められた結果の脚気である。


 そして、治療や予防が可能になったのは、一九一〇年。

 農学者・鈴木梅太郎が米糠こめぬかをエサとしたニワトリや鳩を使った動物実験で、脚気の原因が白米から欠落したビタミン(B1)であることをつきとめ、『オリザニン』を発売した。


 ところが当時の医学界は伝染病説と中毒説を有力視していて、農学者の栄養欠乏説に耳を貸さなかった。このために、医療機関で病因特定が遅れたといわれている。


 こののち脚気による死亡数が千人を下回ったのは、大戦後になってからだ。それまでの死者の半数が乳幼児だったそうだ。


 その後も高度成長期にジャンクフードに代表される偏食によるビタミン欠乏。また九〇年代には点滴輸液中のビタミン欠乏によって脚気患者が発生し一部問題となった。


 総じて、中には遺伝子要因も絡む稀なケースがあるものの、たいていは栄養欠乏症なので食生活に気を配っていれば脚気とは無縁でいられる。と俺は知っている。


 だから戦闘糧食にも必ず、麦芽・胚芽はいが・玄米などのビタミンB群が含有された食品が付いていた。おむすびであっても、ちゃんと白米に麦が混ぜられていた。


 需品課は少ない国防費の中でやりくりしながら、かゆい所に手が届くいい仕事をする。


「なーぁ、ハティヤーっ」

 ナイフをあてがわれたまま狂紳士を見つめ、俺は厨房に声をかけた。


「なーにぃっ?」

「コンロの火、消したーぁ!?」

「これからーぁ」

「残しといてー。ちょっと実験に使うからーっ」

「りょーかーい」


 俺はナイフを握る腕をあっさり払うと、カラヤンに振り返った。


「カラヤンさん。まだ粉屋、開いてますかね」

「ん? いや、そろそろ閉まるだろうが、帰りしなに捕まえりゃあなんとかなるだろ」


 俺の思いつきにも慣れたもので、カラヤンが金貨を一枚、指で弾いてくる。

 それを空中で受け取って、俺は店のドアに歩き出した。


「なあ、魔人よっ。なんとかなるのかっ? できるのかっ?」

 グラーデンが動揺を隠せず、期待に輝いた目で俺に追いすがってくる。


「さあ? ペルリカ先生が一度さじを投げたんです。もう一か八かくらいじゃないですか。あとは、心の問題でしょう」


「なに、心だと?」


「その脚気を患っている人物がいるのは、カールシュタットの地下街でしょう。俺やシャラモン神父も行ったことがあります。あんな暗い場所にずっといたら、心を病んで、拒食症になったり咳が止まらなくなったりするんです。

 それまでずっと未来になんの不安もなく、清潔で、明るい部屋で暮らしていたのなら、尚さらね」

「……っ!?」

「あなたの反乱は、ご家族にとって失敗でしたね」

 そう言い置いて、俺は彼の顔前でドアを閉めた。


  §  §  §


 粉屋に行く。

 ティボルから聞いた話では、ヴェネーシア共和国の粉挽き屋はすでに水路の流れを利用した水車の力で石臼を突いて穀物を粉にしているらしい。


 粉挽き屋とは、この世界の製粉業者のことだ。


 セニには水路がない。なので農家から持ち込まれた麦やトウモロコシを穀物を驢馬ろばで石臼を回して粉にし、その手数料をもらう。

 

 またセニは、リエカやカーロヴァックの粉挽き屋とは違い、穀物販売も行った。

 メドゥサ会頭の話では、セニは小麦の生産農家が少ない土地柄なので、小麦の持ちこみも少ない。そのため穀物の販売もするようになったのだとか。


 だから〝粉屋〟と呼ばれた。主人は、マルセルと言った。


 俺が到着した時、ちょうど製粉所に戸締まりの鍵をかけているところだった。

 振り返りざま目の前に現れた俺を見るなり、マルセルは悲鳴をあげて腰を抜かした。


「なっ、なんだよぉ~っ。狼かぁ……っ。脅かすなよっ!」

 この間、会ったのに驚きすぎだろう。なにげに傷つくわ。


「こんばんは。夜分にすみません。もうお帰りですか」

「ああ。今年最後の仕事納め……なんだよっ。なにがいるんだ?」


 さすが商売人、察しが良くて助かる。


「乾燥麦芽と、あと、米なんですが……」

「米? 乾燥麦芽は、また〝焙燥ばいそう〟済みか?」

「ええ」


 マルセルには醸造酒を造った時にお世話になっていた。


 麦芽とは、麦から芽と根が発芽した状態のことだ。


 麦に限らず、穀物種子には糖化酵素であるアミラーゼが含まれており、発芽によって酵素が活性化される。この時、種子中の澱粉でんぷん質がアミラーゼによって糖化され〝糖〟が生成される。


 この生成は、乾燥させることでこの麦芽酵素を止められる。これが乾燥麦芽だ。


 とくに大麦の乾燥麦芽は、安価で入手できる穀物の中では最もアミラーゼの質、量ともに優れていることから、酒や酢の醸造や水飴の製造に古くから用いられてきた。


 また焙燥とは、焙煎ばいせん乾燥のことで、発芽した麦芽の芽と根を取って熱風で乾燥させたものだ。この熱をどこまで加熱するかによって蒸留酒の味や色、香りにも影響したりする。


「米は、去年の年明けに仕入れた未脱穀だな。こっちじゃあんま引き合いがなくてな。脱穀した物は置いてないんだ」

「ええ。それで構いません。どれくらいありますか」

「たしか……六六ポンド(約三〇㎏)で在庫全部だったかな」


 この世界で、米は百パーセント輸入物のようだ。だが未脱穀なら玄米が取れる。


「わかりました。全部もらいますよ」

「はあっ? まじかよ。えっと全部……大銀貨四の大銅貨三でどうだ?」


 俺は指の間から金貨一枚を出してみせた。ティボルにまた貴族商売だと怒られるかな。


「米の脱穀は玄米で二ポンド(約一㎏)。今から頼めますか」

「今からぁ? 勘弁してくれよ、狼。これから帰って女房と冬越しすんだよぉ」


「たった二ポンドの残業で金貨一枚ですよ。玄米なら三〇分もかからないでしょう? それに明日は今年最後の市が立ちますよね。奥さんに良い物買ってあげられますよ、こ・れ・で」


 マルセルはちらつかせた金貨を食い入るように見つめて、低く唸った。


 人の足下を見て、からの、スライディングタックル。ゴールの迅速最短を目指す。

 もちろん、俺は脱穀作業もちゃんと手伝う、いい狼だ。


 二〇分ほどで玄米と麦芽大麦の粉袋を両手に抱え、俺は粉屋から〝なぞなぞ姉妹亭〟へ戻る。


「残りの米は、年明けに引き取りに来ますので」

「ああ。良い冬越しを。御屋形様のこと、頼んだぜ」


 粉屋を出て、俺はその言葉に足を止めた。家族の元へ戻るマルセルの背中を見送る。

 いつの間にか噂は広まっているようだ。

 そして彼もまた、ウスコクの末裔ということらしかった。


  §  §  §


 うとうとしながら、麦芽糖こと米飴こめあめをつくる。


 発芽大麦も玄米もドロドロに煮ること、約八時間。


 暖炉に鍋をかけて沸騰させないようゆっくり煮ては鍋を下ろし、鉄蓋をして、上から鹿の革を巻き付けて保温。冷めかけたらまた暖炉にかけるだけの簡単なお仕事。


 アミラーゼが糖化を進める五〇度から六〇度を保つ。かき混ぜることもしない。


 そして、翌朝。払暁。

 半眠半起の状態で、俺にある仮説がひらめいて目が覚めた。


 寒かった。

 こんな信じられないことを考えつく人間が俺以外にいるのだとしたら、そいつは本当に狂っているのかもしれない。


 けれど、スミリヴァル会頭代行が肝臓を患った遠因は、それで説明がつく。

 俺は鍋を持って灰となって燃えつきかける暖炉の前から立ち上がった。


 糖化の具合を見て粗布でし、陶器の壺に入れてフタをする。その上から鹿の革に包むと革紐で縛る。これで、完成である。


 あのイケ爺にこれを押しつけて、お引き取り願うのだ。

 だが、うまうまと帰してはならない。あの男を調子づかせてはならないんだ。


 証拠はないが、あの男の姑息な計画をカラヤン達の前に引きずり出しておかなくては。俺の推測は、ペルリカ先生が補強してくれるのではないかと期待する。


 なにせ、彼女はあの男の債権者だ。

 しっかりお灸を据えて、甘言を労す前にその舌を痺れさせてやる。

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