第8話 堕落の聖杯(8)


 狼男が、現れた。

 都市の城壁まで、あと少しという所で小石が声をかけてくる。


「人の言葉を解すのであれば、聞けぇい!」

 声からして人語のようだ。そしてこのマナの揺らめき……。


〝なんじゃ。この感じ……アパ=シャムエルではないのかえ〟


 懐かしき天敵の陽炎を、女は忌々しく思う。


〝何だ。路傍ろぼうの木っ端よ。我が道をさえぎる愚行を死であがなうかえ〟


「わが名は、セニの狼。ティミショアラに身を寄せる魔造戦士なり。戦前口上つかまつる!」


 魔造戦士? 西方世界のダンジョンにその手の術書が眠っていると聞いたことがある。シャムエルの気配といい。もしかすると、これがあの〝流離さすらふ魔帝〟がうそぶいた〝時のくさび〟か。さても妙な物を置き土産にしたものよ。


〝ティミショアラ……聞いたことない町よな。領主の名は〟


「わ、わしじゃ! ティミショアラ翡翠龍公主。ニフリート・アゲマント・ズメイじゃ!」


 かたわらに立つ翡翠色の肌をした小娘が全身を使って叫ぶ。


「この地は〝七城塞公国ジーベンビュルゲン〟の領国なれば、その軍勢を滅ぼせしは、おぬしか!? いかなる存念をもっての所業か。返答せい!」


 たまの遊牧民が訪れる未開地が、いつの間にか国を成していたか。長く眠らされていた。忌々しいこと。


〝ふん。よかろう。なれば、こんな答えで、いかがかえ〟

 女は、ゴブレットを持たない左手で、そっと虚空を払った。


じゃれて、おやり〟 


 魔獣が鎌首をもたげ、一斉に息吹を吐きだした。

 七条の赤黒い閃光が二人の頭上を越えて、やがて焦点に集束。一条となってはるか後方の鎖国の壁を斜めに斬り裂いて夜空へ消えた。


 時空が歪曲し、ひき延ばされた一秒から、怒濤が始まった。


 十一セーカーの壁が内から赤黒く膨らんで、爆裂。禍々しい太陽が未明の静寂しじまを打ち破る。


 三〇年の間、頑なに外からの侵入を拒み続けた鎖国の壁は、わずか七連の邪悪な熱光によって、二キール分の壁が無に帰した。


 熱風の余波を浴びながら、狼男が小娘領主を脇に抱えて逃げ出した。


 地を滑るほどの逃げ足の速さに、女は侮蔑をかけるのも忘れて嘲笑わらった。家来に抱えられて踏みとどまる意思を喚き散らす小娘も稚拙あどけない。


〝待て。魔造の傀儡くぐつよ〟


 呼び止めるには遅い距離になっていたが、声は届いているはず。そのまま城壁の向こうに逃げ帰っても構わなかった。結果は変わらない。


 だが、狼頭の下僕は足を止めて振り返った。

 その悠然とした仕草が、なぜか女の感に障った。


「なんでしょうか」


 なぜ、こやつは怯えていない。所詮、傀儡だからか?


払暁ふつぎょうまでに、千の魂をわらわへの服従の証として貢献こうけんせよ。さすれば、この町だけは見逃してやろう。然様さよう、ほかに伝えておけ〟


 狼男は、返事をしなかった。再び走り出すと吸い込まれるように城門の中へ消えた。

 この時、女は城門が閉じられなかったことを不思議に思わなかった。


 それよりも……趣向を一つ思いついた。


〝払暁までの間。暇になった。余興であやつらを慌てさせてみるかえ〟

 女は右手で、闇の中に真円を描いた。それはまたたく間に幾何学的な紋様を描き出す。


〝来たれ出でよ。堕天の炎皇子──イフリートよ〟


  §  §  §


「おひい様っ!?」

 城内に戻ると、俺はニフリートを降ろした。すぐにバトゥ都督補が駆け寄ってくる。


「すまぬ。バトゥ。時間稼ぎにもならんかったようじゃ」

「なんの。あの魔獣めに一歩も引かぬおひい様の態度、見事でございましたぞ」


「ふふっ。ムトゥじいも生きておれば、同じ事を言うたじゃろうな」

「……っ!?」


 目をまんまるにして言葉を失う都督補に、ニフリートは恥ずかしそうに顔を振った。


「すまぬ。忘れてくれ。やはり元凶の敵前で威を張るのはちょっと怖かったのじゃ。里心がついたのであろう。許せ」


「は……っ」

「して、準備は整ったのか?」

「はい。黄金・白銀・翡翠の迎撃一万五〇〇〇。配置につきましてございます」


「訓示をして励ましてやりたかったが、聖女の歌があるから良いな」


「いいえ。城内にいる者はみな翡翠軍。おひい様が呼べば、すぐに集まりますぞ。みな、おひい様の言葉を聞きたいと申しております」


 俺が横からニフリートを覗きこむ。


「おひい様。払暁までにはまだ時間があります。あの爆炎を目の当たりにしてなおここに留まり、家族や友人を守らんとする翡翠軍が、おひい様の励ましを受けなければならないかと」


「うん。そうか。──では、バトゥ。よしなに頼む」


「はい。──伝令。みなを中央広場に集めよ。おひい様が訓示を述べられる。市民の臨席も認めるとな」


「はっ」

 幕僚三人が伝令に駆け出した。


「バトゥさん。ウルダとスコールは」


「大丈夫だ。さっき無事だと報告があった。しかし、所定の位置にはまだ着いていない。鎖国の壁をああも容易く打ち破ってくるとはな。兵達が魔王ではないかと騒いでいたぞ」


 俺はニフリートを一瞥してから、肩をすくめた。


「なら、殺せますね」


 バトゥ都督補はきょとんとした後、ニフリートがぷっと吹き出したのでその場に笑いが起こった。その時だった。


「敵襲ぅーっ!」

 城壁の回廊にいた兵士が、気も狂わんばかりに叫んだ。


「あの魔獣は、わしらを騙したのか」ニフリートがとっさに歯がみする。

「報告しろ、敵の数は!」バトゥ都督補が怒鳴る。

「敵数、1! 推定、炎の精霊!」


 俺は目を見開くと、自然と身体が城門へ駆け出していた。


「狼っ。無茶をするなっ」


「バトゥさん、おひい様をお願いします。精霊は俺がなんとかしますから、兵士たちには絶対に城外へ弓をひかせないで! 計画に変更はありませんっ」


 駆けながら後ろへ叫ぶと、俺は城門を飛び出していった。

 距離三〇〇。四五度上空。炎をまとった皇子は俺を見下ろしていた。


『次に会う時、お前の敵となっていたのなら、余を……殺せ』

『一応、お訊きしますが、炎の大精霊が死ぬほどの弱点とかありますか』

『それは、退屈だ』


 一キロ近い先の小高い丘から魔女の視線を感じる。

 払暁までの時間つぶしに、大精霊をあっさり呼びつけたってのかよ。


 おごりに酔った嗜虐しぎゃくの暴君は、下賜かししたものが絶望のつもりで、反骨の希望を与えたことに気づきもしない。


 なあ、まがいにしえの魔女さんよ。


 あんたは油断したんじゃない。戦略的な瑕疵かしを犯したんだ。

 その最強たまきずは、あとで後悔しても消えやしないからな。


「お久しぶり、でいいですよね……ヘレル殿下」

「……」


 ゆっくりと降りてくる〝友ジン〟に、俺は胸の前で氷で固めた両拳をガキンとかち合わせた。

「お帰りになる前に、ちょっと旧交を温めておきましょうか」


  §  §  §


 ドォンッ! ドォンッ! ドォンッ! ドォンッ!


 およそ人の形をした者から出ない炸裂音が、燃える壁の前で繰り広げられた。

 くり出される【火】に対して、【水】で対抗したために、温められた空気が過冷却によって水蒸気爆発が起きている、かもしれない。


 だからお互いに一発もらうと、必要以上に吹っ飛んだ。

 小細工なしの、泥くさい殴り合いだった。


「聞け! 翡翠の町に住むすべての市民よ!」


 俺は相手の顔面へダメージを積み上げる。対して、殿下は狼頭のもふもふ装甲への攻撃をそうそうに諦め、脇腹や鳩尾などのボディ攻勢で体力を削ってくる。しかも、蹴りあり。これが結構痛い。しかも休憩インターバルがない。お互いがふと距離を取る数秒の間で呼吸を整えるしかなかった。


  §  §  §


「未曾有の危機が城壁のすぐそばまで迫ってきていることは、皆もすでに感じていると思う。敵は、いにしえに封じられし暴虐の魔女が復活を遂げたと伝え聞く。中央軍九〇〇〇はそれを食い止めようとしたが、ティミショアラの手前で力尽きた」


「龍公主様。それなら、どうして中央軍の駐留部隊がこの町を襲ったのですか!」

 市民から声が上がる。兵士たちが取り抑えようとするが、それをニフリートが止めた。


「その問いは、わしが推測するしか手立てがない。まったく手がかりがないのじゃ。すなわち、いにしえの魔女が中央軍の到着に先んじて、ティミショアラを陥落せしめようと企て、駐留部隊の五〇〇〇を操っていたのかもしれん。それしか今は判断できない」


「駐留軍が、いにしえの魔女に操られていた?」

 市民たちは半信半疑だったが、ニフリートはさらに畳みかける。


「しかし、我々翡翠の民は、互いに助け合って町をよこしまなる陰謀から守りきっておるのだ。それゆえに首魁しゅかいいにしえの魔女みずからが業を煮やし、市民一〇〇〇人の魂で盃を満たせと要求し、この町に迫ってきておる。

 貴奴きゃつは現在、炎の大精霊を召喚して町を火の海に変え、破壊を試みてきた。

 だがっ、そうなっておらんのは見ての通りじゃ! 我々には〝銀狼の魔術士〟が守護していたことは兵士諸君ならもう知っての通りじゃ。彼の者は賢策を次々とわしやバトゥ都督補に上申し、この町を守ろうと奔走してくれている。そして、そして今も、炎の大精霊と戦っておるのじゃ!」


 ニフリートはそこで戦闘スーツの袖で頬を拭うと、言葉を継いだ。


「市民よ。翡翠の民よ。怖れてはならぬ。臆してはならぬ。屈してはならぬ。相手がいかに強大な魔女であろうと、我々は一歩も退かぬ。その決意を固めよ。家族や友を守るため戦うことの誇りを胸に誓え。決戦は今、この時じゃ。立ち上がれ。皆でティミショアラを守るのじゃあ!」


 おおおおおっ!

 中央広場に、拍手と歓声が夜気を震わせた。


  §  §  §


「まさか、駐留軍五〇〇〇の暴叛が魔女の差し金だったとは、驚きですな」

 カラヤンが、横のバトゥ都督補に声をかける。


「まったく。あまり、あの〝ウソつき狼〟から学んで欲しくないのだがなあ」

「くっ、ふふっ。〝銀狼の魔術士〟か。別に悪い傾向じゃあないと思いますがね」

「おいおい、これからも龍公主を補佐する家政長の身にもなってくれ。しかし……狼は本当に抛っておいて良いのか」


「ええ。応援要請がこねえようなんで、どうやら敵は知った顔だったみたいです」

「なに。あの大精霊と知り合いっ?」

「セニの町で、一人の女を巡って城壁をぶっ壊したほど殴り合いをした仲ですよ」


「女か……やれやれ。あの狼はいつでも破天荒だな」

「ええ、それが服を着て歩いてるようなもんです」


「ならば、本当に狼のやってることはただのおとり──時間稼ぎなのか」

「そうでもなきゃ、城壁の弓兵を下げろとはいわねぇでしょうね」


 バトゥ都督補はうなずくと、辺りを見回して、


「ところで、〝群青の魔女〟と〝星儀の魔女〟は、どこへついたのかな」

「二人ともサナダ隊の所ですね。高度な呪物を回収するんだとか」


「ふむ……」

「なにか、ご懸念でも?」


「いや、なに。英雄たちが割と本気で殴り合っていたとしても、戦局としては膠着こうちゃくとみるべきだろう。なら、指揮官はこの局面、次善策をどう考えるかな、とな」


 カラヤンはしみじみと何度もうなずいた。


「ご慧眼ですね。だが相手は魔女。魔法で来られると打つ手が見えやせんね」


「うん。だから魔女どの達に助言を求めようと思ったのだが」

「なら、シャラモンを呼んで参りましょう。あの者にも術策の心得がございますんで」

「そうか。うん。よしなに頼む」


  §  §  §


太夫たゆう。後方より敵多数です」

 慌てた様子もなく部下が報告する。


「斬れそうかい」

「斬らない方がいいよ。あれ、〝歩く死体リビングデッド〟になってるから」


 リンクスが報告の横から口を挿む。


「目標は、町かな」

「そりゃあ、ね。むしろ狼にぶち当ててあの殴り合いに巻き込んだ方が処理が楽かもよ」

「ふん。そうするか」


「あの。太夫。申し訳ありません。報告不足でした」部下が緊張した声を洩らす。


「なんだい」

「接近中の敵がその、数百規模なのですが」


 サナダは振り返り、東の地平に目をすがめる。


「中央軍、喰われたって聞いたけど?」


「ああ、それね」リンクスは肩をすくめた。

「空から見た限りだけどさ。あの魔獣。養分を消化したら、排泄物を口から廃棄するタイプみたい。三〇から四〇人くらいの塊が、あちこち転がってたよ。今歩いてくるのはその抜けガラ連中でしょ。表面溶けかかってる上に手足粉々だから、歩いてくるのは遅いけど」


「リンクスさ」サナダはスタイリッシュに洗練された魔女をみる。「自分で言ってて気持ち悪くならない?」


「なんで? あれだけ新鮮な状態なら、まだ腐ってるニオイしないよ。あのニオイ、服につくと取れないんだよ」


 判断基準がニオイか。よく分からない。でも価値観がおかしいとも言いがたい。か?

 すると、別の部下もやって来た。龍公主につけていたミヨシだ。


「太夫っ」

「なんだい」その慌てた口調でだいたいの察しがついた。


「……その誠に申し上げにくいのですが」

「伝令に来たのなら、その任務を全うしなよ。無駄足になるでしょ」


「はっ。その……龍公主様が」

 サナダはもう一度振り返って、今度は上空を見あげた。


「出たのかい」

「はい……赤銅と白銀もお連れです」


「口止めされたの?」

「は、はい。しかしながら……〝龍〟にかかわることでしたので」

「正解だね。その判断に免じて、不問に伏すよ」


 部下は心底ホッとしたように吐息した。可哀想に。龍公主に口止めされて、なお任務を優先したのだ。決断に苦しんだろう。

 うちの妹ちゃんは罪作りだねえ。


「空に飛ばれちゃ、いさめることもできないか。帰ってきてお灸を据えよう」

 ちょうど、この春からセーラー服を流行らせたいと思っていたところだ。



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