第6話 カラヤン包囲網(5)
この館の食客のような接遇を受けて、はや二四日目。
朝からウスコクと傭兵らしき一団がやってきた。この家の東と西で競い合うように守っている。
当主から両陣営へ挑発行為、小競り合いの一切を禁じた警告が発せられた。
アウルス帝国語とヴェネーシア語で。どうやら傭兵はヴェネーシア共和国からも集められたようだ。
傭兵の統制はとれているようで、むしろウスコクの統制に
当主スミリヴァルから、今日一日は外出をせず、暇なら裏方の準備を手伝ってくれないかと頼まれる。気さくな人物で国籍にも分け隔てなく、海の男らしいからっとした好人物だった。
どうせ幽霊の身。暇だ。喜んで引き受ける。買い出しから戻った馬車からの荷下ろしに始まり、調度品の撤去。入れ替え。レイアウト調整などなど。かなり力の入った饗応だ。使用人の数人に何事かと訊ねたら、あっさりと知れた。
「マンガリッツァ・ファミリーとバルナローカ商会?」
「ええ。カラスさんはご存じないでしょうが、この辺りじゃ、御貴族様よりも丁寧な扱いが必要な方々なんですよ」
マンガリッツァ・ファミリーなら知っている。〝ハドリアヌス海の魔女〟だ。アスワン帝国皇室の何人かとも密かに
バルナローカ商会は、知らない。たしかネヴェーラ王国の大政商フェリツィア商会の先代会長がバルナローカという姓ではなかったか。同姓なだけか。
そんな
家人全員。否やはないらしい。自室でメイド一人に手伝ってもらう。
「あの……似合っているの、かな」
「ええ。ぴったりですよ。もちろん、ネヴェーラ人には見えませんけど」
その答えが、なぜか耳障りがよかったので笑ってしまった。
「あら、ようやく笑った」
「えっ?」
「ずっと幽霊みたいに沈んだ顔をされて、今初めて笑顔を見ましたよ」
「……」
「その調子で笑顔を作っておられたら、そのうち良いことありますから」
「……ありがとう」
メイドは会釈して部屋を出て行った。
「笑顔が良いこと、か……大佐もそう言っておられたな」
(──海の上で死ぬことは海将の誉れだが、海から戻った時は笑え。それが生きるということだ)
ならば、今の私は生きているのか。この異国で、生きていると言えるのか。
「おーい。カラスってお人はいるかい」
廊下からのっそのっそと歩幅の長い足音がやってくる。やがてヴェネーシア傭兵の鎧を着た大男が部屋に入ってきた。獅子のたてがみを思わせる風貌がこわい。
「おっ。お前さんだろ。ナディム・カラスってのは」
「一応」そう答えるほかなかった。「あなたは」
「おらぁ、〝
「いや、届け物と言われても、身に覚えは──」
「おっとぉ。そうそう。こいつはカラヤンが来てもまだ内緒にしてくれって話だぜ。──おーい、こっちだ。持ってこーい」
こちらの話を聞くつもりはないらしく、ライオン男は窓から外に手を振って仲間を呼んだ。
「一体、何が届けられたのですか」
「自分の目で確かめてみるんだな。おらぁ運んできただけだよ」
わけがわからない。もう抛っておいて欲しい。
ライオン男が行ってしまうと、代わりに二人がかりで荷物が運ばれてきた。
§ § §
白木の木棺。
それが壁に立てかけられると、男たちは挨拶もなく部屋を出て行った。
「おい。ふざけるな。ちょっと待ってくれ。どうして私に棺桶など──」
「……ナディム?」
棺桶の中からかけられた声に、心臓が止まった。
馬鹿な。信じられない。思わず後退り、窓際まで行って思わず雨戸を閉めた。なぜ部屋を暗くする必要があったのか、自分でもわからなかった。
「あ、アマル……っ? 本当に、君なのか?」
「ナディムっ!? あなたっ!」
中からフタを開けられないのか、ドンドンと板を叩く音がする。
だが本当に開けていいのか。罠じゃないか。妻の声はこの耳が覚えている。けれど妻が私の新しい名前を呼ぶなんて出来過ぎじゃないか。
だが、もう聞けないと諦めていた妻の声。ひどく懐かしい愛する人の声が胸をかきむしる。
「待ってろ。今すぐ開けるから。大丈夫。今ここには私しかいないから」
急いでフタの縁を手探りでなぞり、すぐ組木細工になっていることに気づいた。
つまり、この棺はフタを上にスライドさせると、フタが半分だけ動く。残り半分のフタは……いや、半分で充分だ。フタを半面だけ外すと、そこから涙で濡れた妻の美しい顔が飛び出してきた。間違いない。三ヶ月前に結婚したばかりの私の妻だった。
「アマル……っ!」
「あなた!」
お互いを抱き留めて、その場に崩れるように座り込んだ。和合するほどに強く、強く抱きしめる。どちらともなく声にも出さずに泣いた。無我夢中で再会の接吻を交わし、互いの虚ろに冷えた血流に命を吹き込んでいた。
「ああ、神よっ。アマル……っ。どうしてここに」
「この手紙をもらったのです。あなたに会ったらそれを見せろって」
妻は少し離れると手紙を差し出してくる。嫌な予感はしつつも受け取ると、雨戸から微かに漏れる光で文面を読んだ。アスワン帝国語だ。
【 ──お前の夫、魔女に目をつけられた。
今、ナディム・カラスと名を変えている。
命長らえるから、過去を殺しました。
お前、夫の過去の名前を呼ぶしてはならない。
その約束守れば、夫死なない。
頼みあります。お前夫にカラヤン・ゼレズニー協力する言う。
拒否するならば、二人どこかへ立ち去れ欲しい。
狼──】
たどたどしい文法だったが、読むには充分だった。
「あなた、この狼というのは?」
「私を助けたカラヤンという男の従者だ。頭が狼で身体が人間の人物だ」
「魔物ですか?」
「う、うん。あるいはスレイマンの
「あなた。これからどうなさいますか?」
「……」
「もはや首都スレイマニエには戻れません。わたくしも、死んで参りました」
「なっ。なんだって?」
面食らう夫に、妻はようやく心に余裕ができたのか嬉しそうに微笑んでみせた。
「ふふっ。メフメト橋から身を投げたのです。……父も戦死し、あなたの財産もお兄様方が残らず接収されました。わたくし達の思い出さえも……。そしたら川の中にいたのに、いつの間にか船に乗せられて、ここへ。ですから、今のわたくしにはもう、あなたしかいません」
胸が苦しくなって、妻をまた強く抱きしめた。
自分にとっても妻しかいない。いや妻がいる。
「ここは異国だ。彼らの下で、奴隷に落ちるかもしれぬぞ」
「あなたと一緒なら、どこへなりとも参りましょう。もう離さないでくださいませ」
二人でまた抱擁を交わす。その中でふと、そこはかとない恐ろしさを覚えた。
あの狼頭。私を屈服させたいのなら、妻を人質に取ろうと思えばできたはずだ。
なぜそれをしなかった。なぜここまでする。
カラヤンが配下に望んだからか。それとも自分は、妻と手紙で測られているのか。カラヤンが欲するほどの将器なのかどうかを。
わからない。だが……この世界を嘆くのはもうやめだ。
「アマル。腹は減っていないか。何か飲み物をもらってこよう」
ゆっくり頷く妻の手を引いて、ナディム・カラスは薄暗い部屋を出た。
その頃。下階では、包囲を完了した狼たちに予想もしない窮地が迫っていた。
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