第19話 空が明日を分かつとも(19)


「御館様っ。よろしいのですか!?」

 執事ジキルが、テーブルを叩かんばかりに訴えてくる。

「あのような平民風情に当家を闊歩かっぽさせては家の名誉に関わりまするぞ!」


 ウジェーヌ公爵は承諾書の条件を読むのに忙しい。


「なら、お前が行って止めるなり、案内なりしてくればいい。ただし、衛士えじを連れて行くなよ。〝ハドリアヌス海の魔女〟が連れてきたあの息子達は相当できるぞ。とくに金髪の少年。彼の目はけっこうな場数を持っていたな。お前のいう平民相手にケガをするのは馬鹿馬鹿しいと思うがな」


「わっ、わたくしは別に……喧嘩をするわけではっ。公爵家として無礼な振る舞いが許せぬだけでございます」


「招き入れたのは私だ。そうそう、私がリエカにいた時に聞いたのは、ケンカと借金をする相手を選ぶ時は、マンガリッツァをまず外せ、だ。どちらも締め上げが厳しいそうだぞ」


 主人の前で、老執事はあからさまに舌打ちすると足早に部屋を出て行った。


「やれやれ。さっきの会話を聞き流すとは、ジギルも耄碌としかな……」


 家政として、そつのない老練な知見を持っているが、たまに格式にこだわりすぎて思考停止になりがちだ。出入りの商家達から時代後れの目で見られていても気にもしない。


 ウジェーヌ公爵は、子供の頃からあの家政のせいで、舌打ちする人間には頭にきたものだ。


 当主となった今は、彼から舌打ちがでると自分の下した判断がしごく真っ当なのだと思うことにしている。

 だから、あの老人をいまだに使っている。

 彼がいるお陰で、自分が貴族社会に染まっていないことを確認できた。フランチェスコに言わせれば「お前は貴族らしくないな。変わっている」と言われる。

 また、自分こそが公爵家を支えているように振る舞う態度が、他の使用人からの恨みまで一身に負ってくれた。まさに憎まれ役。まさに忠臣といえた。


 ウジェーヌ公爵は生来、楽天家だった。


「それにしても、アルセニコンとはな。盲点だった。さすがは〝ハドリアヌス海の魔女〟か。目の付け所が違う」


 承諾書の内容は、十七箇条あった。

 内容のほとんどが、冬の避寒を兼ねたリエカでの療養生活あれこれ。その中でサヴァイア=アオスタ家へのメリットは、この避寒に金一七〇〇枚が賠償金としてマンガリッツァ家から支払われる。という約定だった。


 妻を連れ去ろうという連中が身代金を支払う滑稽こっけいが、気に入った。

 しかも、春になればいくぶん快復した状態で返すとの約定だ。当家に損はさせないらしい。


 彼が初めて見た海はジェノアだったが、初恋を介して見たリエカの海の美しさはまだ胸に残っている。


 妻をあの海に返せればと考えなくもなかったが、妻自身がそれを断った。二人の子に恵まれ、良き妻良き母たらんとしてみずからに課していると言ってもよかった。


「まあ。今にして思えば、友の遺言とはいえ、公妾そばめを置いてしまったのが、彼女に負担を強いたかな……ん」


【第16条 メトロノーラ公爵夫人の書斎は、その一切を焼くこと】


 その条項にしばらく目が離せなかった。あの離れは、妻の喜ぶ顔が見たくて結構金をかけたからだ。リエカから持ってきた彼女と母親との思い出もある。それまで焼けというのか。


(アルセニコン。それほどまでか。後でエディナにもう一度、確かめるとしよう)


 最後に【第17条 エディナ・マンガリッツァは死亡につき、二度と御家には現れないこと】という誓約。そこに〝ハドリアヌス海の魔女〟の並々ならぬ決意がうかがえた。


「まあ、ここまでの往復は妙齢婦人にも難儀であろう。こっちから避寒に向かってはならぬとも書いていない。まあ、そういうことなのだろう」


 ウジェーヌ公爵は肩をすくめるのだった。


「リエカまでの国外旅行か。久しく旅行に出ておらぬからなあ。いくらかかるかな。これを機にマンガリッツァを通じてリエカの商家ギルドに絹取引を持ちかける好機にもなろう。

 次からは再誕祭までに執務をあらかた決済して、あちらでゆっくりするのも──。おっ。そういえば。ジェノアで避寒用に買おうとした物件。フランチェスコに先を越されてそのままだったな。ふーん……リエカ周辺の物件をちょっと調べてみるかな」

 ブツブツ独りごとを呟きながら、承諾書に羽ペンでサインした。


 ウジェーヌ公爵は生来、楽天家だった。


  §  §  §


 エディナが娘のドアをノックして、開けた。

 直後、確かに室内から病の瘴気に混じってニンニクっぽい臭いを嗅ぎとった気がした。


「誰……?」

「メトロノーラっ」


 十数年ぶりに娘の名を呼ぶ声が思わず強ばった。


「っ!? あっ……来ないで! どうして!」


 娘のしわがれた声が、ベッドから確かな拒絶を叫んだ。

 こんな声、リエカで一度も聞いたことがない。我知らず心がすくむ。


 ベッドに横たわる娘は、親を追い越して老いさらばえてしまったかのようだった。

 肌は異様に白く、荒れ、艶がない。頬はこけ、目は落ち窪み、自慢だった美しい髪は見る影もなかった。


 狼から聞かされた推測はここに至り、エディナの視界の中で像を結びつつあった。


「ヴィヴィっ。そこの本棚をどけてちょうだい」

「アイ、マム」


 布で鼻と口を覆った赤髪の末っ子が、手袋をはめた手で本棚を浮かせて横へスライドさせていく。書棚にはそれ一冊でも足に落ちれば悲鳴をあげかねない重さの書籍が並んでいる。それをテーブルでも移動させるようにずんずんと部屋隅に運んでいく。


 その書棚の後ろから現れたのは、何の変哲もない緑の壁。書棚がないところと比べれば日焼けの差だろうか。濃い黄緑と薄い黄緑だった。


「スコール」

「はいっ」


 金髪の少年が小さな革袋の中から黄色い固形物を出した。それを壁にこすりつける。


「っ……エディナ様、でましたっ!」


 思いのほか早く起きた検証結果に、エディナも呆気にとられた。

 濃い黄緑に硫黄が強く反応し、薄い黄緑には硫黄の黄色がまだ残っていた。

 悪魔の正体は、こんなにも単純なことだった。


「メトロノーラっ。メティ、見てっ。見るのよ! これがあなたを病にしていた呪いの正体よっ」


 エディナは無理やりに娘の肩を抱き上げた。すっかり痩せ細った。自分よりも軽いのではないかと思うと涙がこぼれそうになる。


「だめなの……もう、見えないのよ。お母さん」

 お母さん。また呼んでくれた。溢れそうになった感情をぐっと堪える。


「……ヴィヴィ。お願い。そっとよ。いいわね」

「ほいきたぁ」


 赤髪の末っ子がメトロノーラをベッドから抱きかかえる。そして、壁に近づいていく。


「壁が……黒くなってる?」

「ええ、そうよ。その壁紙にアルセニコンが含まれているせいかしら。あなたはその中毒症状になっているの」


「中毒……この壁紙に? わたしが?」目だけがぎょろぎょろと動く。

「ええ、そう。そうだったのよっ」


 狼の推測を裏づける物証を得た。となれば、もはや一秒でもここに娘をおいてはおけない。


「メティ。今日。あなたはこのお屋敷を出て、リエカに帰るのよ」

「リエカに……お母さん。でも、わたしはもう──」


「大丈夫。ウジェーヌ公爵とは契約をすませてあるわ。冬の間だけ、あなたはリエカで休息を取るの。ルドヴィカとともに」


「……休息。娘と」

「そう。冬の間だけだけど。その間だけ、わたくしもいよいよお祖母ちゃんを体験できるのね」


 やがて、娘が末弟の腕の中で赤ん坊のように泣き出した。エディナは骨張った娘の手を久しぶりに握り、ひたいを寄せた。


「帰りましょう。メティ。春になったら、また良い妻良い母に戻ればいいかしら」


  §  §  §


「よぉ、マスター。あの馬車、棺桶のせてたろ。ご領主様の館で何かあったのかい?」

「ああ。公爵夫人の母親が、亡くなったんだとよ。はるばるリエカからやって来ていたのにな」


〝落花生亭〟の主人が眠そうな目で走り去る大型の幌馬車を見送る。


「娘会いたさに命がけの旅になっちまったわけか」

「みたいだな。御館様はああいうお人柄だから、会わせてやったんだろう。わが子にひと目会いたしでやって来て、本当にひと目会って旅立っちまった。人生ってのは皮肉なもんだ」


 黒いリボンを付けた馬車が関門を素通りして、東の山合いへと消えていく。

 あの狼男に噂を流せと金貨三枚を渡されたが、こんなもんでいいだろうか。


「それにしても、あの馬車。棺桶を乗せてるにしては、えらく揺れてなかったな」


   §  §  §


「忘れてたよ。馬車ってこんなに揺れるもんだったんだ」

 ロギが青白い顔で軽口を叩いた。


 サヴァイア=アオスタ領から北に進路を取り、馬車はフレスヴェルグ山脈の西。霊峰ヴェズルフェニルを左に迂回するように登る。

 この左回りを登り切れば、ずっと下り坂。夕方に帝国領最初の町マティーニへたどり着く。そこから帝都までは、ほぼ平地だ。


 セニから乗ってきた馬車よりふた回りも小さくなってしまったが、うちの巨馬は相変わらずだ。四人が寝起きする空間も確保できている。


「狼ー。私、酔ったかもぉ」フレイヤが素直に申告してくる。

「横になってた方がいいよ。吐きそうだったら言ってね」


「狼って、デリカシーないわよね」

「これはこれは、大変失礼致しましたゲロ。フレイヤお嬢様。以後気をつけますゲロ」


 助手席のスコールが楽しそうに笑う。彼は日頃から〝梟爪サヴァー〟を操っているせいか、揺れにまったく動じない。しきりに帆布に描かれた絵を眺めている。


「狼。これ、見た?」

「ああ、うん。ラルゴの置き土産だね」


 A4サイズの板に貼りつけた絵は、軍帽軍服を着て右手で制式敬礼する少女。


 ハティヤだった。


 写真なみに精緻に描かれているので、俺はちょっと気持ち悪かった。

 部屋でロギがねだったら、あっさりくれたらしい。


「しかも章は白い星一つ。これって士官だよな?」

「うん、たぶん少尉か少尉補かな。士官学校を上位成績でしたんだろうね」


 実際の本人はまだ学校に入ってもいないはずだ。


「本人に見せたら、驚くかな」

「驚く前に、帝国外にいながらどうやって描いたかを訊いてくると思うよ」

「ああ。だなー。あのラルゴって人。ちっともよくわかんねー人だった。無口だし」


「えー。あの人、めちゃめちゃいい人だったよ」

 ロギが幌の中から弁護する。絵を弟に返すと、スコールは頭の後ろに手を回した。


「それより、あのヴィヴァーチェってヤツ。アイツとは次に会ったらきっちり決着ケリをつけないとな」

「やるとしても、どこかの島でやってもらいたいね。町中でやったら周りの被害が大きくなりそうだからさ」


 軽くたしなめて、俺はため息をついた。

 別れ際。俺も散々もふられてしまった。一度捕まるとあの怪力だ。逃げられない。


「でもさ。エディナ様を殺すって策は、やり過ぎなんじゃねーの?」


 俺は前を見ながら首を傾げた。正直今でもあれが最善だったのか迷っている。


「たしかにエディナ様の旅行死は、やり過ぎだったかもしれない。でもサヴァイア=アオスタ家を巻き込んで、あの緑の部屋からメトロノーラ公爵夫人を引き離した後にあらぬ噂を立てられないようにするには、ああするしかなかった。

 平民が貴族にとつぐって事は、これまでの生活や人間関係の一切を断つってことだからね。だから計画は、誘拐でもダメ。離婚別居でもダメ。

 向こうにしても、エディナ様が貴族の名誉を傷つけても、メトロノーラ様の身柄引き取りという横紙破りに、どこまで本気でやろうとしているのか知りたかったはずなんだ」


 決行前。エディナ様は貴族の家庭教師をしていたこともあり、その辺のことに詳しかった。


「どんな状態であっても、公爵夫人が単身で私的に館を出ることなど言語道断。あらぬ噂が立ち、そのことで家名が傷つけば、離婚問題。賠償問題に発展することすらあるかしら。貴族にとっては名誉も財産の一つなのよ」


 名誉が財産。庶民には分からない感覚だ。

 若い時分にたまたま獲れた新人賞や文学賞で、仕事を廻している大御所作家さんがいるけど。そういう名誉とはきっと違うのだろう。


 エディナ様の死を理由にして、メトロノーラ公爵夫人を領内から連れ出すという計画は、拍子抜けするほどあっさり成功した。

 夫のウジェーヌ公爵の型破りとも言える柔軟な理解力と、積んだ身代金が大きいせいもあるだろう。あと、こんな横紙破りは、これが最後だという誓約も。


 子供は十歳になる長女ルドヴィカと生後八ヶ月の二男を連れ出すことができた。長男は帝国の士官学校に入って留守らしい。そのため子供の世話役として乳母が付いてきたが、これは取り決めの範囲内だった。


「ねえ、狼。アルセニコンは魔法でなんとかならなかったの?」

 フレイヤの声を使って、ハティヤに言われた気がしてドキリとした。


「一応かけてはみたよ。でも、効き目があったかどうかは次に会った時だね」


 シャラモン神父から教わった解毒魔法〝清慰制毒クリアランス〟は植物毒や動物毒。つまり、アルカロイド系の毒に効くことはわかっている。

 けれどヒ素は、鉱物毒だ。ヒ素中毒や水銀中毒、鉛中毒が魔法概念である「すでに分かっていることにしか作用しない」定義にあたるのか否かは俺にもわからなかった。


 実はヒ素中毒を疑った時点で、俺が気になっていたのがメトロノーラが曝露ばくろ期間──ヒ素を空気中から吸入していた期間に出産したらしい二男だった。


 別れ際。この子に体内蓄積したヒ素毒をどうにかできないか、エディナ様と少しだけ相談した。乳幼児のヒ素蓄積は脳障害が出ると何かの論文を読んだことがあったからだ。すると、


『その心配はないわね。二男はメトロノーラ様の子供ではないかしら』

『えっ?』

『娘は今、カラヤンと同じ三五なの。だからもう子供を産める年齢じゃないの。産後の肥立ちが悪いのは、きっと別の女性の事かしら』


 それじゃあ、この旅の端緒は。俺が戸惑っていると、エディナ様は誰かの代わりに謝った。笑顔で。

 カラヤンもそこまで事情を知らないから、本気で手紙を信じていた。今さらか。


「なあ、狼。馬車だけ渡して、エディナ様についていかなくて良かったのかよ」

 スコールが言った。


「俺たちの旅も、のんびりリエカまで戻る時間はないよ。そのためにマンガリッツァに立て替えて、引き馬四頭とこの馬車を奮発して買ったんだ。ここが別れ時と思ってね」


 棺桶もあの町で一番上等なものを買った。中は絹布製のクッション素材なので寝心地は良さそうだった。

 実際にそこに寝て運ばれるメトロノーラが、「あ、こうやって運ばれるの、ちょっと癖になるかも」とか言ってなんだか愉しそうだった。

 ちょっと変わった人だ。ハティヤ系女子だ。


「そろそろ。ハティヤに会ったら何を言うか考えておかないとね」

「なら、狼はまず、お詫びから入らないとな」

「なんで、俺だけヘマしたみたいになってるのかな?」


 俺たちは、山脈からの広大な帝国領を一望しながら国境線を越えた。




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