第2話  赤牙猪(ワイルド・ボー)


 森にはいってすぐ、嫌な気配を感じた。

 シャラモン神父は、御者台からほろの中に振り返って声をかける。


「ハティヤ。スコール」


 すると、幌カーテンから金色髪の少女と亜麻髪の少年が顔を出した。どちらも、十四、五歳ほどで、寝端ねばなを起こされてぼんやりしている。


「今、ペロイの森です。起こしてすみませんが、見張りをお願いします」


「はい。──ハティヤ。お前、先生のそばにいろ。オレは後ろ見てくる」

「わかった」


 少年はさっと幌に引っこむと、弓と矢筒をひっつかんで幌の後ろへ向かった。それから後部の幌カーテンをはぐるなり声をあげた。


「先生っ。ハティヤっ。後ろだ。赤牙猪ワイルド・ボーが突っこんでくるっ。かなりでかいぞ!」


 直後、馬車の横にはっきりと獣の臭いが併走を始めた。大きい。幌馬車の三廻りありそうだ。

「ひぃっ!」

 ハティヤがしがみついてきた。赤牙猪の迫力に圧倒されたらしい。

 赤牙猪は気性の激しいイノシシで、普段は人里に近づかないが、その巨体で森の恩恵を食い荒らすことで嫌われていた。後ろからの突進をまともにもらっていたら、幌馬車ごと夕空へかち上げられて、大破していたかもしれない。

 やがて巨大イノシシはボロ馬車など目もくれず、どんどん右へ進路をとって遠ざかっていく。

 遅れて、その後を七騎の騎馬が、雄叫おたけびをあげて追撃している。


「ハティヤ。〝馬追い〟ですか」

 やれやれとシャラモン神父は手綱をあおるのをやめて訊ねる。


「そうみたいです。あの大きさをたった七騎で。この辺の狩人じゃないみたいでしたけど」

「赤牙猪はどのくらいありましたか」


「この馬車の三つ分はありましたよ。八年。ううん、一〇年物以上だと思います。一頭だけだったから、たぶんオスかも」


「馬車三つ分とは……大きすぎますね。嫌な前兆です」

「嫌な前兆なんですか?」


「私のただの勘です。それよりも秋節が始まって間もない発情期のオスへ仕掛けるとは、無謀なことです。とにかく私たちは一刻も早くここを脱けましょう」


 シャラモン神父は再び老馬の腹を手綱であおった。

 そこにスコールが幌カーテンから顔を出してきて、


「けどさ、先生。この時期の赤牙猪の牙って、かなり高値で売れるんですよね?」


 少しの間、長男は町で働いていただけに、少し耳学問をしてきたようだ。


「ええ。秋は冬ごもりの蓄えに、また繁殖でメスを争うためにオスのからだは大きくなります。でも、まだメス争いもしていない八年物以上の成獣なら、さぞ立派な牙が手に入るでしょう。もちろん狩るのも命がけでしょうが」


「でも、先生。この辺で魔物の牙が取引されるのは聞いたことないですけど」


 ハティヤが疑問を投げかける。シャラモン神父は苦笑して、頷いた。


「村には職人がいないので価値はさほどではありませんが、プーラの町などに行けば、それなりの値がつくでしょう。その牙は丁寧に磨かれ、精緻せいちな彫刻が施されて、都で高価な調度品になります」


「一本でどれくらい?」

 スコールが興味津々で聞いてくる。

「そうですね……彫刻される題目テーマにもよりますが。簡単な〝聖者巡礼〟でも、村長さんの家が十軒くらい建つでしょうかねえ」


「へーっ、すごい。一日で大金持ちだね!」

 ハティヤが目をまん丸にする。その眼をまた森の奥にむけた。

「――なーんて。うちには関係ない話か」

「だな」

「そうですね」

 三人はどこか儚げに笑い、幌馬車は村へと帰路についた。


 §  §  §


 ペロイの村。

 プーラの町から、北へ八キール。〝ブルショット森海〟の南端にある辺鄙へんぴな寒村である。


 住民は二〇〇人ほど。産業は林業。森の木を切り出し、プーラの町へ供給する。その利益のほとんどが村を通り抜けて、領主への徴税と村長の私腹を潤した。


 一〇年前。ペロイの村には教会がなかった。


 それがある日、王都から来たという三〇代前後の、若い盲目の神父が村外れのボロ屋敷に居座り、聖堂所を開設した。七人の子供を連れて。


 どの集落にとっても、教会は心の拠り所であり、誇りでもある。それが所有者を失って久しいボロ屋敷に居座る形での聖堂所開設であっても。神父が常駐してくれることは、彼ら住民にとって一つのステータスであり、安心感をもたらした。

 とはいえ、ペロイ聖堂所は、年端のゆかぬ孤児みなしごを七人も抱え、村住民以上に貧しさと寄り添う生活である。


「なあ、ハティヤ。あの赤牙猪、どうなったかなぁ」


 子供用の大部屋。二段ベッドの上で、スコールが気のない声で呟いた。


「さあ。今ごろは丸焼きにされて、どこかの狩人のお腹ん中なんじゃない?」

「そうじゃなくてさ。いや、腹いっぱいの肉もいいけどさ……」


「よしなさいよ。どう寝返りを打っても、夢は夢。口にするだけ虚しいじゃない」

「まあ……そうだけどさ」


 ――ドンドンドンッ!


 突然、玄関の扉を荒々しく叩かれた。

 二人は同時に音もなくベッドから降りていた。


「スコール……!?」

「おれは先生の所にいく。お前は、チビたちを部屋から出すな」


 ハティヤはうなずき、少年に短剣ダガーをホルスターごと投げ渡す。

 スコールは左手で受け取ると廊下に消えた。


「お姉ちゃん、どうしたのぉ?」

「なんでもないよ。ちょっとうるさいお客さんが来たけど、大丈夫だから。寝てていいよ」


 ハティヤは、起き出した弟や妹たちに笑顔で応じた。


  §  §  §


「先生……っ」

 シャラモン神父が玄関の前でたたずんでいると、長男が密やかに声をかけてきた。


「スコール。短剣は持ってきましたか?」

「はい。装備完了してますっ」


 スコールは腰に巻いたホルスターにいた短剣を、鞘のままいつでも抜けるように構えてみせた。

 その臨戦の気配に、シャラモン神父は小さくうなずいた。


「扉の向こうに、二人います。両方とも血のニオイがします。ひとりはねむっているのか呼吸は細い。急患の可能性もありますが、油断せぬように」

「はいっ」

「では、開けなさい」


 シャラモン神父の合図で、長男がドアを開けると、大きな人影はつっかえを失ったように玄関へなだれこんできた。

 ひとりは禿ハゲ頭の屈強な大男で、その頭と言わず肩と言わず、全身に刃物傷を受けて出血していた。


 そして、もう一人はハゲ男に担がれ、背中と肩に矢がまだ突き刺さっており、動かない。

 スコールがシャラモン神父に告げた。


「先生っ、こいつ獣人を担いできましたよっ」

「スコール。ドアを閉めなさい。つっぱり棒も忘れないように」


 長男に指示を出すと、シャラモン神父はまずハゲ男に指でルーンを切った。

 傷だらけの頭皮に、緑色の魔法陣が浮かぶ。


「やすらけき風よ 汝の慈悲でわが頬を撫で わが傷を哀念で癒せ」

 ――〝傷病風癒ウィンドヒール


 緑色の光風がハゲ男を包みこみ、みるみる傷が塞がれていく。


「こりゃあ……魔法っ!?」


(ほぅ……この賊、祝福と魔法の違いを知っている)

 シャラモン神父の中で警戒が上昇した。


「止血程度です。ここはペロイ村の聖堂所。あなた方が騒動の火種を持ち込んでいい場所ではありません。こちらの義務は果たしました。そちらの事情は結構ですよ」


 突き放す口調で諭すと、大男は這いつくばるようにしてハゲ頭をささくれた床にこすりつけた。


「頼む。お願いだ、まほ――いや、神父さん。コイツを助けてやってくれ。二、三日でいい。必ず迎えに来る。礼もする。おれの……弟分なんだ。しゃべれないが、頭はいい。おれは悪党だが、コイツは違う。本当だ。だから――」


 最後まで言わせなかった。スコールが男の首筋に短剣の刃があてがったようだ。会話は止まったが、男に怯えた様子はなくじっとシャラモン神父を見つめてくるのがわかる。


(肚の据わり方が尋常ではありませんね……このままではスコールが危険です)


「先生。こいつ、黙らせた方が後腐れがないですよっ」

 少年の提案にシャラモン神父は嘆息とともに顔を振った。


「スコール。無闇な殺生は人の有り様ではないといったはずです。私にこれ以上、あなたの次の就職口の選択肢を減らすようなことをしないでください」


 今日、長男はシャラモン神父がようやく探してきた就職口の精肉屋をクビになったばかりだ。できたばかりの古傷を突かれて、スコールは眉をひそめたようだ。


「だ、だって。こいつ、獣人を弟にしてるとか狂人ですよ」

「獣人?」

「はい。コイツの頭だけ狼なんです」

 頭が、狼?

「なあ、神父さん。もしかしてあんた──、目が見えないのかい?」


 ハゲ男の口調が変わった。スコールは油断なく首筋に短剣をあてがう。

 ところが次の瞬間、スコールは床から天井を見ていた。胸をハゲ男の足で押さえつけられ、鼻先に自分の短剣の切っ先がつきつけられる。息を飲む。


「うっ……な、なにが?」

「動くなよ、ボウズ。おれは本当にコイツを助けて欲しいと思ってる。村長の家だと思って飛び込んだら教会だったのは、おれの悪運じゃなく、相棒の幸運みてぇなんでな」


 ハゲ男はシャラモン神父へ短剣を投げた。耳の横をかすめて、背後の煤けた柱にガツンと突き刺さった。


「ふん。やはりか……。良い短剣だ。大事にしろよ。ボウズ」

「こいつぅっ、先生を狙いやがったな!」


 スコールは起き上がろうもがくが、胸の中央を踏まれて床に縫い付けられてビクともしない。


「招かざるお客人。わが子を放していただけますか。現状、私はあなたよりも我が子の言葉を信じます。彼の治療はいたしましょう」


「なら、このお子様におれに噛みつかないように言ってくんな」

「スコール。大丈夫です。彼に敵意はありません」


 長男が悔しそうにうめく。気高さも優しさも、まだまだ身体が追いついていないけれど。


「神父さん。コイツを助けてくれるのか」

「二言はありません。ただ、繰り返しになりますが、私は我が子の言葉しか信じません」

「わかった。それでいい」

 胸から足がどかされ、長男がそばに駆け寄ってくる。


「スコール。彼は私の患者となりました。診てあげなさい」


 指示されて、スコールは床に倒れた怪物と同じ高さに這いつくばって、背中を横から覗きこんだ。


「刺さっているのは、右三角筋と左棘下きょっか筋です。貫通しておらず、左は肩甲骨が止めているので心臓に達していないと思います。過度の出血はありません。ただ、呼吸は微弱です」


「ほう。ボウズ。わかるのか」

 ハゲ男が感心するが、長男は猫のように殺気だってから、視線をこちらへよこす。


「先生。抜きますか?」

「抜きましょう。左からです。鏃を折ると面倒なので矢の進入角度を見極めて慎重に。あなたも手伝って戴きましょうか。彼を抑えつけて」

「了解だ」


 左の肩甲骨に刺さった矢は、刺さっていたことが不運なほど浅かった。

 スコールが力を少し込めただけであっさりと抜けた。変に出血が少ない。次に右の矢も根元を持ち、一度奥に押し込んでから、ゆっくりと……抜けた。


「スコール。どうかしましたか」

「簡単に抜けたんです。出血も思ったほどありません。まるで筋肉に押し返されるようでした」


「ふむ……。それで、矢に毒の気配は」

 長男は鏃に鼻を近づけてから、「ありません」断言した。


 シャラモン神父はうなずくと、先ほどの緑の魔法陣を展開させて治癒魔法を始める。

 長男は改めて、貧乏教会の子供よりもひどいボロ服をまとった獣人の傷口をのぞき見る。


「先生。傷口は完全に消えました」

(治癒が速い。……奇妙だ)

「神父さんよ。頼みがある」

 ハゲ男が口調を改めた。面倒ごとはたくさんだ。だが、彼の舎弟には興味がある。


「ここからは有料です。すぐに立ち去ってくださると睡眠時間もとれて助かるのですが」

 シャラモン神父が微笑とともに言い切ると、ハゲ男はうなずいた。


「ああ、すぐにでていく。だがコイツを五日、いや三日。預かって欲しい。金はなんとかする」

「金の約束はしないことにしています」

「今ある金で、馬車を買ってくる」

「ならば。謝礼として小麦の麻袋でいただきましょうか。三袋。うちは食べ盛りな子供が多いもので」

「了解だ」


 即答だった。さすがのシャラモン神父の表情もいぶかしむ。

 ハゲ男はドアの突っぱり棒を外すと、シャラモン神父に頭を下げて飛び出していった。


 つるっぱげの格好つけ野郎っ。吐き捨てながらスコールが柱から苦労して短剣を抜きつつ、唇をひん曲げるのがわかった。


 シャラモン神父はあらためて倒れたままの男に屈みこんで、服の下に手を入れてまさぐってみた。


「先生……っ?」

「火で引きれた皮膚が背中全面、臀部でんぶにまで及んでいます。火傷は胸部よりも背面に多い。戦争。火災。刑罰。私刑。流行病……。どんな事情にせよ、大半の皮膚をここまで焼かれて、よく生き残ったものです」


 スコールはそっととなりに屈みこんで、その独白を聞く。シャラモン神父は次に、頭部に手を這わせる。


「それに、この頭部と頸部のすべてをおおう狼の頭皮。完全に人体と癒着してる。この狼頭は取り外すことは、もはや不可能。しかしなぜ、施術者は皮膚抵抗の少ない畜皮ではなく、獣皮。中でも〝狼〟を使ったのだろう。考えられるとすれば……」


 神父は思索にふけるのが楽しくて仕方ないとばかりに微笑んだ。


「しゃべれない。狼の頭……それではまるで、狂戦士ベルセルクの呪術ですかね」

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