第3話 燭台牡鹿(ジランドール)
――先生、バイタルが50を切ります!
――強心剤400ミリ追加してっ
――先生っ。
――皮膚移植の準備、急いで!
――先生っ、人工皮膚がもう足りませんっ!
――くそっ。仕方ない。それなら……この皮膚を使おう。
眩しい光に俺はうっすらと目を開けた。
こちらを見下ろしてくる医師と看護師が、それを近づけてくる。
狼の頭を。
「やめろ! やめろ、お前ら! それでも医者か。俺にそれを近づけるな。まともな治療をしろぉおおお!」
はっと目を醒さますと、ぺたぺたと小さな手が顔を撫でていた。
『あっ。もふもふ起きた』
『もふもふ起きちゃったぁ』
『おおかみが起きた。お姉ちゃーん』
『ハティヤ姉ちゃーん。もふもふおおかみが起きたよぉ』
バタバタと部屋を小さな気配が飛び出して行く。
(生きてる……まだ。……ここは?)
天井は、煤けた板が隙間だらけで、その奥の
(木の天井。俺、矢を受けて……ない。傷が)
小さな感動はしかし、安堵にはならず。意識の継続が、胸の中を落胆していく。
また死んだつもりで、死に損なった、と。
§ § §
目覚めた世界は、むせ返るほどに酸素が濃かった。
何日か前。俺は夢の中で意識を取り戻した。
夢、なのだ。この世界は。
俺は、あの夜。同僚の社員証を強奪して仕事場にやってきた狂人によって、火を付けられて死んだ。はずだ。
エレベーターの昇降ボタンが遠かった記憶がはっきりある。
熱さ。痛み。窒息感。ガソリン臭。憶えていないのは、どうしてあの状況で助かることができてしまったのか、という根拠だけ。
本当に助かったのか。助からずにあの世に来ているのかも。判然としない。
水を飲もうと小川に近づいた。近くにあったんだ。
ちろちろと流れるその浅い水面に映った自分の顔。
精巧にできた、犬だか狼だかの着ぐるみ。
なんじゃあ、こりゃあ。
思わず両手で外そうとして骨がきしんだ。首の骨がメキリと嫌な音を立て、目の前に火花が飛んだ。
どうにもはずれない。
仕方なく小川のせせらぎに顔をギリギリまで近づけて水を飲むが、本当に舌を伸ばす犬飲みしかできずにヘコむ。
水は、たぶん硬水。日本の水は軟水だ。天国にしても地獄にしてもヨーロッパ伝来だからかもしれん。
確かなことは、俺も、世界も、俺が知っている存在ではないらしいってことだけ。
また目覚めた洞窟の奥に引き籠もり、俺は膝を抱えてまた死を待ってみた。
「なかなか……転生しねぇな~」
次の転生先でも考えてみる。
ラノベを編集していたせいだろう。係り切りになっていたラノベ作品が、巨乳か痴女かハーレムばっかりで、目的や内容が思い出せない。
転生先は戦国日本かぁ、西洋でぇ。近未来は少なくてぇ。えーと……人の生殺与奪を握りながら、手違いとかで死んだ主人公のクレームにイイナリなポンコツ神様はまだですかね。
そうだよ。俺、きっと何かの手違いで死んだんだよ。謝罪はよ。便利スキルはよ。
「……ていうか。風呂入りてぇ」
──ガサッ。ガサッ。ガサッ。
突然、草を踏み分ける規則音が近づいてきて、俺は耳を逆立てた。
この犬耳は本物だった。触るとちょっとくすぐったくて、さわり続けてると妙な気分になる。
足音は洞窟にどんどん近づいてくる。
臭いは男性。たぶん人間だが日本人じゃなさそう。体臭に混じって血の臭いも混じってる。だから知り合いではない。まさか、あの放火魔が追ってきたかも。
戦うのは無理。高校大学で剣道ならったけど、身についたのは根性だけ。試合は常に補欠だった。ていうか、死んだ後の俺が根性見せたところで誰も得しない。
逃げよう。死んだ後でも、死にたくないらしい。人間ってものは度しがたい。
『おい。お前……っ』
入ってきたのは、スキンヘッドの強面の男。革鎧に黒鞘の剣を
俺は体当たり覚悟で一目散に洞窟から飛び出──ぐえっ。
のど輪一発で、俺の足が逆上がり。
ここ夢じゃないのかよ。そのガッカリ感とともに、俺の意識は暗転した。
§ § §
木枝の爆ぜる音で目が覚めると、夜だった。
緑色とも蒼ともつかない星雲が闇天穹を照らしている。
頭の中で南北半球の星座を思いつく限り、三六ほど照らし合わせてみる。どの星座にもあてはまらない。結論、少なくともここは俺の知ってる地球じゃないらしい。
上体を起こすと、たき火を挟んだ向かいでフルヘルメットが顔を上げた。
『おう……。気がついたか.〝
スキンヘッドだった。俺を一発で伸した、あのハゲ男だ。
「ここは、どこですか」
『お前、獣人か?』
「やっぱり言葉が通じないか……」
『ふむ……言葉みてぇなのはある民族か。さあて、どうしたもんかねえ』
スキンヘッドはつるりと頭を撫でると、その手で少し困惑に歪むアゴを撫でた。
『おれの、名は、ムラダー・ボレスラフってんだ』
「ムラダ?」
『おおっ。
笑顔で頷く。そうか、それがこのオッサンの名前か。肯定は〝ダー〟か。
「ムラダ……ぼれす、らふ」
『そうだ。お前、名前は?』
がっしりしたアゴで促してくる。名前を訊いているのか。
「はがね、たくろう」
『ハガネタクロウ?』
ウスバカゲロウみたいな呼ばれ方をしたが、俺は一応頷いておいた。
おっさん頷く。だが、ちょっと首をかしげて、
『しかしまあ、呼びにくいから〝
「ブコ?」
豚の鳴き声みたいに聞き返す。これにはオッサンも苦笑して、
『ヴコだ。その頭、どうやら本物みたいだからな。獣人にしては体毛も人族と同じだ。まったく魔女に呪いでもかけられたのかねえ』
俺を指さし、ハゲ頭を指さすので、アぁハンと外国人風に納得してみせる。
ヴコは狼か。犬か。まあ、どっちでもいいが。それよりも意思疎通を試す。
「
『あん? 今なんつった?』
ムラダーに怪訝な顔をされて、俺は何でもないとかぶりを振った。だめか。割と期待してたんだけどな。
ロシア語で、狼のことを〝
でも、ムラダーの怪訝そうな表情を見る限り、まったくのチンプンカンプンには外れてない。この世界の言語系統を手探りし、少しでも相手から日常単語を学ぶしかない。
「
『ん? ああ……ラク ノチュ』
昔から寝付きだけはいいほうだ。パソコンの電源を落とすみたいに、俺はまたストンと気を失った。
§ § §
「旦那ー!」
「旦那、ご無事で」
「おお、ヤーノシュ。ヨージェフ。生きてやがったか!」
今度は二人増えた。これで四人目。ムラダーと三人でハグを交わして無事を喜び合う。
「オレらが一番ですかい」
「いや、ティボルとザスタバが食い物探しに行ってる」
「えっ。あいつらで大丈夫なんですか。それに、あれ。獣人すかっ?」
ヨージェフというのが目を剥いて、俺を指さしてくる。ムラダーは振り返って俺を見る。
「アイツが本当の一番乗りだ。おれがここに来た時にゃあもう洞窟に棲んでてな。おとなしいから雑用に使ってる」
「雑用って……」
「無害だし、敵意もねえ。何より手先が器用でな。そこのテーブルもアイツが作った」
ムラダーは、俺のこの世界初作品を得意げに披露する。硬い木片を釘代わりに廃材の木板で作った、ただの箱だ。
ムラダーが「これくらいのでかい木箱が欲しいんだがな」と身振り手振りで言うから作った。実際は箱じゃなく、テーブル代わりになるものが欲しかったようだ。
「へえ……で、アイツのあれ、草で何してるんです?」
ヨージェフが俺を指さして訊ねる。
「縄を編んでいるらしい」
「縄? 草で……何に使うんです?」
「さあな。それより、お前ら。あと二日でここを移動するからな」
「えっ。他のヤツらを待たないんで?」
ヤーノシュという男が意外そうな顔で聞き返している。
「ヤーノシュ。テーブルの材料、どこにあったと思う?」
「そりゃあ……まさか、この森って?」
ムラダーは深刻な顔で頷いた。
「この先に村があった。家材の年数は十年そこらだったが、村全体は植物で荒廃してた。この森はもうダメだ。すでに〝神〟に飲まれている」
「マジすか……」
「旦那ぁっ!」
そこにまた新たな人間が合流してきた。筋肉隆々の黒人さん。ムラダーは笑顔で迎えに行く。
「おお、ゲーザじゃねぇか。てめぇもしぶてぇ野郎だな。はははっ」
「旦那っ、あぶねぇ! そっちに行きましたぜ!」
突然、注意喚起の鋭い声が森の奥から飛んできた。あれは、ティボルという男の声だったか。
直後、茂みの中からとてつもなく俊敏な巨影が、男達に突っこんできた。
黒人男性がとっさにムラダーを横へ突き飛ばした。
せつな、がっしりした褐色の身体が巨影に易々とかち上げられた。交通事故。あっという間の出来事だった。
「じ、
誰かが言った。へえ。そういう名前なんだ。あの馬なみの鹿。
角がろうそく燭台のように枝分かれして上に伸びている。ゲーザという男はそのてっぺんで胸を貫かれて動かない。たぶん即死だろう。
大鹿が頭をうっとうしそうに振ると、大の大人がゴミのように振り落とされ、草むらの中に消える。鹿はさらに前蹄で地面を駆り、戦意を見せる。
「くそっ。とっくの昔に凶暴化してやがるっ」
ムラダーは剣を逆手に抜いて構えた。防御態勢からの、カウンター狙いかな。
そこへ大鹿に向けて矢が飛んできた。角に矢が当たる。大鹿はのっそりと態勢を切り替えて角を低く前方に構えるや、そちらへ突進していった。
ムラダーは太く長く息を吐くと、剣を納めて犠牲者に向かっていった。
それから廃村から持ってきた錆びたスコップを持ちだして、穴を掘り出した。やがて不意に手を止めると、ムラダーは茫然としている仲間の所へ戻ってきた。
木箱の上に、金貨を一枚置く。
「旦那……?」
「角にゲーザの血がついたあのジランドールを仕留めたヤツに、金貨一枚だと言っとけ。アイツを仕留めるまでここを動かんぞ」
「ちょっと待ってくれよ、旦那。あんな大物を仕留めるって、この人数でかよ!?」
「よせ、ヤーノシュ。旦那があの顔になったら、もうテコでも動かせねえよ」
おののく仲間を後目に、ムラダーは無言で墓堀りを続けた。
§ § §
俺はあの大鹿を見て、猛烈に……腹が減った。
人死にが出ているのに薄情な話だが、あの大鹿が美味そうだと思った。鹿肉は赤身肉で、牛や羊と同じ、生後二年以上三年未満の若いメスが美味とされてる。
だがこの際、性別はどうでもいい。肉が食いたいのだ。この上なく。
古くは東南アジアやイヌイットの狩猟武器で、主に小動物や鳥を捕まえる。また十四世紀ごろに南米で野生の馬捕獲に使用された記録もある。
「肉だ……肉が食いたいんだ」
その日、月が出なかった。
夜の狩りとしては最良の環境である。
俺は鹿のフンや足跡、木幹を削った跡、さらにはかすかな血のニオイを追った。
犬の鼻は追跡に便利だ。でも首から下は人間なので、気配や足音を消すのは神経を使った。それから小一時間くらい森を進んだ頃だった。
見つけた。例の血塗れのジランドールだ。
敵影捕捉。慎重に十二メートル付近まで近づく。
その距離で見ても、大鹿はデカかった。
道産子の馬に梅の枝が生えているようだ。角先の鋭さに足がすくむ。
雄々しく、美しい獣だった。
美しいが完璧ではない。弱点はある。そのアンバランスな逆三角形の体型だ。
頭部や首回り、背中の筋肉の発達に比べて角と首を支える下半身。とくに足首が細すぎる。
あの事故を眺めている限り、ジランドールは大きな角で突進するならともかく、回頭する動きは遅かった。だから奇襲に即応できない体型をしている。
俺は二つの石を結ぶ縄の中央を持ち、上半身を
「い、石を……おっ、重く、しすぎたっ」
肩が抜けそう。ポーラの回転を速めるごとに遠心力で上体が引っ張られる。
そして、投擲――
放たれた直後、二つの石が左右に広がり、縄を互いに引っ張り合いながら旋回直進していく。
二秒後。夜闇で
「どぶろー」
突然、背後から肩を叩かれ、俺は跳び上がった。
振り返ると、強面のハゲ頭が俺の横を抜け出していた。
ムラダーだ。大柄な男なのにまったく気づかなかった。
ちなみに〝ドブロ〟は、〝よくやった〟とか〝いいね〟の意味だと解釈している。
ムラダーは、もがく大鹿の角を足で抑えつけながら、剣で首筋にとどめを刺す。
『狼。悪いが、コイツはおれがもらっていくぜ』
「肉っ。肉が食べたいんですっ」
俺は大鹿を指さして、熱くメシを食うジェスチャーをした。
するとムラダーは、わかったわかったとうなずきながら、俺の肩を叩く。そして、犬にお預けを
ええっ。だって獲ったの俺なのに~。俺は耳をたらして、肩を落とした。
ムラダーは笑顔でうなずき、また俺の肩を叩く。そして、空を指さし、剣ダコの激しい掌に円を描いて、それを半分に線を入れた。で、〝待て〟だ。
「半日も待てって? そんなあ」
『狼。そんな顔すんなって。お前の手柄は忘れちゃいねぇよ』
俺が聞き返すと、ムラダーは申し訳なさそうな笑顔でうなずいた。
それから、半日。俺はふて寝して待った。腹がぐぅぐぅ文句を言う。
昼過ぎ。
ムラダさんは馬七頭に酒や食糧を積んで戻ってきた。仲間から歓声が上がる。
俺には、ばかデカい鹿のモモ肉のベーコンが振る舞われた。
少しニオイに癖はあるが、久しぶりに脂を出す熱い肉に、俺は歓喜の遠吠えをあげた。そんな俺を見て笑う男達の中、ザスタバという大男だけはふて腐れていた。
当のムラダーは一人、仲間の輪から離れて立っている。
できたばかりの墓の盛り土に安酒をかけていた。
「なあ、ゲーザ……お前まで、おれを庇って死ぬことはなかったんだぜ」
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