第22話 翡翠荘にて ~男どもの本音~


 客室は、寝室と別間の貴賓待遇の部屋を用意された。

 ただし三階。


 嫌な夢を見た、気がする。

 自分が貴族になって、あの姫さんにどこまでものしかかられている、ような。


 目覚めて座ったソファの柔らかさに尻が慣れない。仕方なく寝室から木のイスを運んで暖炉の前に置き、腰かけた。


 暖炉の火で手をあぶると、ようやく指先の動揺が溶けていくのがわかる。


(騎士貴族の生活なんて、このティボル様には性に合わねーか)


 逃げるときは、いつも自分に非があった。

 誰かを守って走ったのは、生まれて初めてだった。

 要人の護衛を頼まれるなんて考えたこともなかった。


「見ろ、ティボル。雪が降ってきやがったぞ」


 部屋に入るなり、カラヤンが外の心配をした。

 ティボルは理由わけもなく手を拳にして、イスの背もたれと腹の間にそれを隠した。


 窓の外はかまどの灰のような細雪ささめゆきだった。

 午前の陽を浴びて雪雲が白く輝き、地上に舞う雪が灰色に見えるほどだ。


「ねえ、旦那」

「んー?」カラヤンは雪を眺めたまま返事する。

「あっしは役に立ってますかね」

「はあっ?」


 カラヤンが軽く怒った様子で振り返ってきたので、とっさに言い訳を口にした。


「だって、ほら。こういう状況って、狼とかあっさり切り抜けちまうじゃねーですか。ハッタリかましたりとかして。あっしにもう少し、そういう機転っていうんですか。そんなのがありゃあ、こうしてここに閉じ込められることもなかった……かなって」


「おい。本当にどうした。ここへ来るまでの間、お前ずっとおかしかったろ」

「そう、でしたっけ?」


「姫さんにからかわれて、少しは自分らしさってのを取り戻したと思ってたんだがな。おれの勘違いだったみてぇだな」


「いや、だって! 狼はこれまですげぇことをやってきたじゃねーですか。この場だって、あいつなら」

「お前は、この状況が進退窮まったように見えるのか?」

「えっ。それは……っ」


「この状況で、なんで狼の名前が口から出た。お前。もしかしてずっと狼にヤキモチ妬いてたのか?」

 ティボルは子供時代の悪ガキに淡い恋心をからかわれたみたいに顔を真っ赤にした。腕の中にあごを埋めて、暖炉の火を見つめる。


「だって……」

「おいおい、百耳のティボルの名が泣いてるぜ。なーんで狼のことになると手許の情報であいつを理解してやらねえ」


「……っ」

「まったく。認めたくねぇって感じだな。狼──〝鋼タクロウ〟をよ」

「ハガネ、タクロウ?」

「シャラモンから教えてもらった。あいつの本名だそうだ」


「ええっ」ティボルはイスを蹴って立ち上がった。「あいつに本名があったんですかい!?」


 驚きすぎだろ。カラヤンは苦笑のまま肩をすくめた。


「あいつも元は人間だったんだ。だが、どこで生まれて、なんでああなっちまったのかわからねぇ。今でも過去にいた自分が、あの姿でいる自分を否定するんだとよ。

 それでも一所懸命、この世界に馴染なじもうとしてがんばってる。その結果が今の、お前が妬いてるあの狼だ」


「けどっ、けどあいつは、みんなからすげー愛されてるじゃないですか!」

「そうだな。その辺はおれもたまに妬けるな」

「えっ、ええっ。旦那も? なんでっ?」

 予想しなかった肯定に、ティボルは思わずおののいた。


 カラヤンは窓際から暖炉にやって来て、ティボルのとなりで手を炙りながら言った。


「おれ達がセニの町に入って二、三日した頃だったかな。メドゥサが商売に行き詰まってて、塩に変わる別商品を売ることになった時。メドゥサは『石けん』と言ったんだ」


「それじゃあ、あの石けんは奥方のひと言から、ここまで?」


「惚れた女の願いを、どうもしてやれなかったおれの目の前で、あいつはあっさり叶えちまったんだ。あいつはメドゥサにこれっぽちも惚れちゃあいなかったのに、だ。相棒としても男としても傷ついたぜ」


 意外だった。元帝国騎士で、凄腕の剣士で、大義賊だったカラヤンも狼に嫉妬の念を抱えていたなんて。カラヤンは続ける。


「だがな。狼はすぐ、おれのっかみに気づいたんだ。石けん製造の進捗しんちょくや経費、製品を差し出して、おれにいちいち報告するようになった。

 狼にとって、おれはボスで、群れの中心だとみている。だからその群れの秩序を乱す──おれに疑心を抱かれることはしたくないのさ。

 だから、あいつはメドゥサの気持ちが、おれにあるかどうかを確認するとさっさと〝婚約式〟なんて妙な祝宴を設けて、おれとメドゥサをくっつけたんだ」


「アイツの頭ん中には、狼本来の群れ意識もあるってことですかい?」


 カラヤンは記憶の手触りを確かめるように何度も小さくうなずいた。


「メドゥサが、おれのいない間におれから自分に傾きそうになったのを一瞬でも狼に見せちまったんだろう。それであいつは群れの秩序を崩す原因の排除にかかった。……まあ、おれの優柔不断すぎるところに業を煮やしたところも、なくはないだろうがな」


 いや、むしろそっちが大半でしょ。ティボルはカラヤンの鈍感を内心で非難した。すべてはカラヤンに身を固めさせるため二大商家を巻き込んだ大謀略だった。いまだにその自覚がないのは、この人くらいだ。


「あいつはな。愛されたいんだと思う。見てくれが違っても家族の一員にしてもらえる番犬でも、な。だから人をよく見ている。誰が何を欲しがって、何を大事にしているのかを知ろうとする。それが人間の弱点で、喜ぶことを知ってるからだ」


「それじゃあ、カーロヴァックで起きた騒動は?」


 カラヤンは手を擦るのを止めて、


「もちろん、誘拐された親友ハティヤを奪還することは、あいつ自身の本音でもあったろうよ。だがな、自分以上にハティヤを大事に思っているのが誰かを、あいつはよく知ってた。

 そして手許には、お前が調べ上げた大司教の悪趣味と、あの殺された娘がいたカールシュタットの事情を握ってた。だからあいつは危険を顧みず、粗方できあがった道をつかって短時間で大司教のそばまで駆け寄れたわけだ」


「でも、旦那。あっしが集めてきた事なんざ、ただの噂話ですよ。そんなんで大司教との接見までこぎ着けられますかい?」


「ふっ。普通は無理だな。おれも手紙で知って驚いたぜ」

 カラヤンはつるりと頭を撫でた。


「だが、おれはお前が持って帰った話を書き留めた時、面白そうだとも思った。お前に狼のマネができないのと一緒で、狼にもお前のマネはできねぇよ。だから、その二つがうまく噛みあったら、どこまで真相に迫れるか見物だった」


「そんな。他人事みたいに……っ」


 ティボルは素直に喜べない。喜んでいいはずなのに。

 あんな根も葉もない噂話のどこをひっくり返したら、教皇に次ぐ地位の大幹部へ直接、殴りこみをかけられるのか。ティボルにはまるで想像もつかなかった。


「それじゃあ、ハティヤの親であるシャラモン神父はこの先、狼にデカい恩義を感じてるんですかね」


「今ごろはもう家族の一員くらいには見てんだろ。だがな。恩義と愛されるのとは別だ。シャラモンが愛しているのはハティヤを始めとする子供たちで、狼じゃあねぇのさ」


「それは……」つらいな。


「ティボル。狼はな。ただ周りから愛されてこの世界に居場所を欲してるだけなんだ。だから、お前があいつに嫉妬するのは構わんが、邪魔だけはしてやるな。下手に立ちふさがったら噛みつかれるぞ」


「うっ。なら、あっしはともかく、旦那の腕っ節なら邪魔しても勝てますよね」

「まあな。だが、勝った後は? メドゥサが狼を叩きのめしたおれを見て、どう思うか想像してみろ」


 想像するまでもなかった。

「まあ……怒られますよね」


「怒るだけならいい。失望されたら、これからの結婚生活は地獄だぞ。女房の口から『そんな人だとは思わなかった』とか言われてみろ。男として生涯たち直れんぞ」


 ずっと憧れてきたカラヤン・ゼレズニーも、家庭を持つとそんな男の悲哀を抱くようになったのか。そう思うと、なんだか痛ましいようで、可笑しい。


「奥方にとって、狼はヤドカリニヤ商会再興の立役者。おまけにマンガリッツァ・ファミリーとバルナローカ商会の両商会の客分。下手すりゃあ、旦那以上かも?」


「まあな。おふくろが狼に勲一等を与えたことからもわかんだろ。狼にマンガリッツァの首輪をつけるためなら、最後まで口を割らなかった面倒くさい暗殺実行犯の小娘を下げ渡すくらい、安いもんだと思ったんだろうよ。それでも、あいつは間違いなく愛され始めてる。嫉妬するだけ無駄なくらいにな」


 あっはは……。ティボルはいつもの腰の入らない愛想笑いをしてその場を流した。


「旦那。それなら、あいつの弱点ってなんなんですかね」

「食えなくなることじゃないか。肉とか」


「いや、そうでしょうけど。それ、あっしらも同じじゃねーですかい?」

「そういや、腹減ったな。よし、じゃあこの国の飯にありつくとするか」

「はは……へい」

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