閑話 少年たちと異界の海

第1話 出航

 朝靄が水平線にのこる早朝。

 ハティヤとスコールは、セニの波止場に向かった。

 初仕事が海外……話だけ聞くと、ハドリアヌス海の対岸で、国内らしいけど。


「なんだよ。お前らが船、操縦すんのかよ」


 波止場に泊まっている舟へ、スコールが不機嫌そうな声を投げかけた。

 船の上で作業しているのは二人。パラミダという不良の取り巻きだった少年たちだ。

 緑バンダナの少年が振り返って、顔をゆがめる。

「あぁ? ちっ。嫌ならヴェネーシアまで泳いでいけよ」

「オレ達は、ヤドカリニヤ商会の仕事で行くんだ。つまんねぇこと──」


 ゴッ! 


 言い終わるのを待たず、スコールの頭上に大きな拳が落ちた。


「つまんねぇこと言ってるヒマがあったら、忘れ物がないか確認しろ。まったく」

 カラヤンおじさんが面倒くさそうな声を洩らす。


「おい、狼。本当に大丈夫なのか。子供らだけで」


「カラヤンさんが引率してくれるんなら、俺もシャラモン神父も安心なんですけどねえ」


 そういって、見送りに来た狼が苦笑する。先生は来ていない。今ごろ、弟妹たちの朝食で忙しいるだろう。でも本当は離れていくのを見送るのが怖いんだと思う。ハティヤもちょっぴり緊張している。

 カラヤンは心配そうな顔をそのまま横に振る。


「やまやまだな。ジェノヴァ協商連合じゃあ、この顔はまだ生きてる」

「本当に、難儀な顔ですねえ」狼が呆れた声を洩らす。


「ねえ、狼」ハティヤは船に降りる前に、彼を見上げた。「頭、撫でていい?」


「ん。いいよ。それで落ち着くなら」


 意外にあっさりと膝を屈めて頭を出してくれた。ハティヤは彼の青灰色の毛並みに触れた。もふもふと優しい手触りと太陽の匂いがした。これが魔法で動いているなんて思えない。不安がやわらいでいく。


「……うん。ありがとう。行ってきます」

「ハティヤには負担をかけることになるけど、頼むよ」

「ふふっ。だって、しょうがないじゃない。男達が頼りないんだから」

「ハティヤ」


 となりからカラヤンが、矢のはいった矢筒を渡してくれた。


「なに、この黒羽……?」

 十数本の矢羽がすべて黒。縁起わるそう。


からすの羽だ。海の鴉は〝飛び続ける〟と験を担がれている。それは船の壁に穴を開ける威力がある。おれが狼に造らせた。ないとは思うが、帰りに海賊か海軍に追われた時にでも使え」


「えー。そんな情況、やだなあ」

「だが船上で弓を使えるのは、お前だけだ」

 しっかりやれよ。明るく言って、肩を叩いたカラヤンの激励が痛い。


 ハティヤは波止場から船に飛び降りた。地面がずるっと横へ滑った気がした。

 かっこ悪く船床に尻餅をつく。そう直感した時、横からスコールに抱き留められていた。


「大丈夫かよ」

「う、うん。ありがと……結構、揺れるね」

 スコールは船上でハティヤがしがみついても小揺るぎもしなかった。ここ最近、カラヤンに鍛えられて、「いつ初陣に出しても恥ずかしくねぇ。よく耐えた」と褒められていた。


 緑バンダナを頭に巻いた少年が振り返ります。


「今日は少し波が高い。途中、船が揺れるから、船室で座るか寝てるかしてろよな。あと吐きそうになったら中に壺があるから、そこにしろ」

「船の外に吐いたらダメなのかよ」スコールが言い返す。

「お前らじゃ外に出るまで間に合わねーよ」


 赤バンダナに指さしでゲラゲラ笑われた。ちょっと耳に障るほど陽気な笑い方だった。

 すると緑バンダナを巻いた少年が、真面目な顔で言った。


「初乗りのシロウトが舟の外に頭を出した後に舟が揺れたら、そのまま海に投げ出されることがたまにある。こんな小さい舟はとくにそうだ」

「へー、わかった」スコールも海上では素直だ。


「出艇っ!」


 錨を上げる緑バンダナの少年の声で、赤バンダナが懸命にクランクを回す。柱に帆がのぼり、バサリと翼の羽ばたきに似た音をさせてひろがった。


 真っ白でもない使い込まれた帆布なのに、ハティヤにはそれが美しいと思えた。


 舟がゆっくり海面を滑りだし始める。不思議だった。馬車で町から離れるのを見慣れていると、陸から海へ離れていく光景に胸がどきどきする。


「スコール、すごいね」

「ああ」


「おい、お前らっ。気が済んだら船室に入ってろ。何かあったら呼ぶからっ」


 赤バンダナがさっきの陽気さは鳴りをひそめ、真剣な顔で声をかけてた。

 これが、彼らの仕事なんだ。そう思うと、ハティヤも気が引き締まった。


「わかった。オレ達を無事に送り届けてくれよ」

 スコールが軽口気分でいった。それには緑バンダナがニカリと笑みを浮かべた。


「心配するな。おれ達だってヤドカリニヤ商会の船乗りだ。ヘマはしない。──ヤスっ。ホールドオン……ビーレイっ」

 男の子ってすぐ仲良くなっちゃうんだから。ハティヤは少しつまらなさそうに口を尖らせた。


  §  §  §


 セニ沖の群島を脱けて、蒼い海を小さな帆船が行く。


 プーラの町を右前方に望み、その岬の後ろから商業船マルヴァジア級が翼を広げた巨大な白鳥となって現れて、右から左へ海を滑って征く。


「で、お前ら、何しに行くん?」


 甲板作業がひと段落した時、お昼前になり、赤バンダナ──ヤストログを操舵ラダーに残して、三人はキャビン内で早めの昼食をとることにした。

 船室内は二人の想像以上に広く、ハティヤとスコールがベッドチェアに座る。緑バンダナ──バカラルは立ったまま食事をとる。


「なんだ、聞いてねーのかよ」スコールが呆れた。


「この船の整備にずっと立ち会ってたから聞きそびれた」バカラルは悪びれずに肩をすくめる。「メドゥサの姐さんも、お前たちに聞けってさ」


 ハティヤがパンの欠片を飲みこんで言った。


「石けんを買いに行くの。市場調査っていうらしいんだけど」

「石けんなら、今お前らで売ってんじゃんか。毎日完売してて儲かってんだろ?」


 商売にさほど興味がなさそうな顔でバカラル。

 ハティヤはそれでも丁寧に説明する。


「ヴェネーシアにも高級な石けんを売ってるから、どんな物を造ってるのか買って試すんだって。もっといい石けんを造るために必要みたい」

「ふーん。商売のことはよくわからんけどさ。ま、おれ達は船に乗れれば何でもいい」


「ヴェネーシアに行ったことは?」

「ない」

「は? 二人とも?」


 ハティヤもバカラルを見る。緑のバンダナは念を押すように顔を左右に振る。


「でも、船。出してるんだよね」

「うん。船では何十回も行った。おれ達にとってこの辺はどこも近所だ。けど町に上陸したことはない」


 その割に得意気なのは、どこからくるのか。ハティヤはスコールと顔を見合わせた。


「ちょっと待ってよ。……私たちヴェネーシアの町で買い物するんだよ? でも、私たち、公式な書類は何も持たされてないんだけど? そっちで持ってるんじゃないの?」


「公式な書類? ん、そういや姐さんから何か渡されたな。死んでもなくすなとかって」


 パンをくわえたまま立ち上がると、バカラルは戸棚を開けて一巻の羊皮紙を取り出してくる。ハティヤがそれを受け取ると、開いてどっと肩を撫で下ろした。


「あったあ……入港許可証と商取引委任状。私とスコールの名前も入ってる」


 スコールにも見せて確認すると、ハティヤは羊皮紙を巻き直してカバンに入れた。


「お前らスゲぇな。その歳で字が読めるのかよ」


 感心した眼を向けてくる年長の少年に、ハティヤは答える気力が挫けた。

 代わりにスコールが肩をすくめた。


「親が神父だからな。でも前に住んでた村のヤツらは、みんな字が読めなかったから、読める読めないで気にしたことねーよ」


「そっか」

 バカラルは吹っ切った様子で斜に構えた笑みを浮かべた。

「でも、狼は違ったよね」ハティヤが声を弾ませる。

「あの狼男か?」


「おじさんが見つけてきた時、言葉がまるっきり話せなかったらしいよ。でも家に運ばれてきて、目が覚めるたら自分から字を読みにいってた。それこそ飢えた狼みたいに。これは何だ。これはどう読むって。私なんか、質問攻めにされたもん」


「ふうん」

「それに途中から覚えるのが急に速くなって、最後は先生に直接聞いてたよ。うちの先生、教えるの大得意だから夜中までずっと教えてた。そしたら、三日で普通の会話ができるまでになってた。それが先々月」


 今度こそバカラルは目を見開いて驚いた。

「うそだろ。たった三日? おかしいだろ。あいつ何なんだよ」


 目を剥く緑バンダナに、スコールもハティヤも首振りをシンクロさせた。


「わかんね。本人はニッポンっていう国の生まれで、なんで頭が狼になってるのかもいまだに自分でもわからねーみたいでさ」

「ニッポン? この辺の港でも聞いたことねーな。でも、それで売れる石けん造って、メドゥサの姐さんに信頼されてるんだろ。……もしかしたら、あいつ。ウェプウェトの化身なのかもな」


「ウェプウェト?」スコールが聞き返した。

「この海の南にあるらしい大陸の信仰で、狼の神様がいるらしい。名前の由来が〝切り拓く者〟〝ファラオに従う者〟なんだとよ」


「へえ。お前、そっちの信仰やってるのか」


「ばか言え。おれは船乗りだ。ハドリアヌスの船乗りが信じるのは金羊船英雄団アルゴナウタイだけだ。……パラミダさんと町の隅で座ってると、そういう話がたまに聞こえてくるんだ。異国の話が」


「そういえば、あの凶暴な人。どうなったの?」

 ハティヤが訊ねると、バカラルは曇らせた顔を振った。

「わからん。姐さんに海に投げ込まれてから姿を見てない。この町にいるかどうかも」


「メドゥサさんのこと、恨んでるのかな」

「それ以前に、おれ達のこと……恨んでるかも」

 寂しさの籠もったため息を吐く少年に、スコールが鋭い目をむけた。


「海賊捨てて、商売に就いたから裏切ったって? ただの逆恨みじゃんか」

「だがあの場で、狼男に認められなかったの、あの人だけだった」

「あの人、歳いくつ?」ハティヤが訊ねた。

「おれ達より二個上、十九」


「その歳で宿の主人を殺しかけたり、市場襲撃とか、発想がぶっ飛び過ぎだろ」

 苦そうにチーズを囓りながら、スコールが言った。

 バカラルはガッカリした面持ちで、目線を下げた。


「昔は、面倒見のいい人だったんだ。けど、メドゥサの姐さんが海賊に見切りをつけて陸の商売を始めると言い出した時から、少しずつイラつき始めたんだ。客が寄りつかないのを馬鹿にしつつも、やっぱり変われないんだって。焦ってたのかも」


「変われない、か。あいつなりに海賊がもう無理だってわかってても、その海賊の次期族長で、長男だからか?」

 スコールの指摘に、バカラルは頷く。


「そこに、いきなりあの狼男が現れた。あいつの知恵で、沈みかけてたヤドカリニヤ商会がいきなり走り出した。パラミダさんの船だけが置いてけぼりにされた。おれもヤストログも、そう思えたんだ。だからきっと、あの人も驚いて混乱したと思うんだ」


 ハティヤはしみじみとうなずいた。


「うん。わかる。狼のやることって、もの凄い結果が出ちゃうんだよ。そのくせ、お金とかにあまり興味ないみたいだし……本当に神様なのかも」

「先生は、まだ魔法使いを疑ってるみたいだけどな」スコールが笑みをこぼした。


 おーい。バカラぁ。腹減ったぞお。

 外から声がかかって、緑バンダナは口にチーズをねじ込むと、船室を飛び出していった。


 ハティヤはパンをちぎって口に入れる前に、となりに顔を向けた。

「ねえ、長男さん。パラミダって人。このままおとなしくなると思う?」


 スコールは果汁の入ったコップを手にしたまま鼻を左右に振った。


「無理だな。むしろ、恨みの矛先を身内じゃなく、それを手伝った狼の仕事に向けるかもな。狼さえつまづけば、あの姉ちゃんの商売もおじゃんになるわけだしな」

「だよね。狼の仕事か……次は、工場建設?」


「今だってそうだろ?」

「あ。ふふ。ちょっとうきうきしてて忘れてた。……気をつけないとね」

 二人はそっとうなずき合った。

「やっほーい。なになに~。バカラの話題がつまらなかったってぇ? なら、おれがとっておきのネタを披露しちゃうよぉ」

 陽気に飛び込んできた赤バンダナに、二人は笑顔で応じた。


「ネタって。ここ酒場じゃねーから。普通でいいって」

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