第36話 狼、温泉宿をつくる(30)


 一時間の休憩は、食堂であったろう長い部屋に客が集められた。

 長テーブルに料理やワイン、水が並べられて、客達は思いおもいに手を伸ばしていた。


「失礼。きみ達は〈ヤドカリニヤ商会〉でよかったかな?」


 メドゥサ会頭と肩を並べて飲茶ヤムチャをつついていると、明らかに貴族っぽい男性が近づいてきた。ただし警護も傍仕えもなし。


 この部屋は、市民平民用で、貴族の部屋は別に用意されている。そこを推して俺に声をかけてきたのだから、こちらも居ずまいを正す必要があった。メドゥサ会頭も同じだったらしい。


 けれど、俺には相手がどこの誰かわからなかった。


「閣下。まことに恐れながら、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」

「ああ。顔を見るのはお互い初めてだからね。私は、ウジェーヌ・フォン・サヴァイア=アオスタという」


 サヴァイア家。俺とメドゥサ会頭は同時に頭を殴られたような衝撃を覚えて、その場に片膝をつき、胸を手に押し当てて頭を下げた。

 カラヤンの姉メトロノーラの夫であり、ジェノヴァ協商連合の一端サヴォイア=アオスタ公爵家の当主。領土こそ小さいが、立派な領主だ。


「大変ご無礼をいたしました。わたくしは〈ヤドカリニヤ商会〉会頭メドゥサ・リヴァイス・ヤドカリニヤでございます。こちらは手代の狼でございます」


「うん。狼の働きは、よく知っているよ。妻の命を助けてもらった。感謝しているとも」

 グサッ。なぜか感謝の中に嫌味な棘が頭に刺さった。


「ははっ。まことにもったいなきお言葉を賜りまして、恐悦至極に存じます」


 メドゥサ会頭の返答に、周りもよほどの高貴人と気づいたのか、慌てて片膝を折り始めた。良識ある紳士淑女ばかりらしい。ヴィヴァーチェがいたら、「なにしてんだ?」って周りを見回しながら、ローストビーフを口いっぱいに頬ばっていることだろう。


「いや。そのように畏まらずとも良い。私も旅行中。一個人としてオークションに参加したまでだ。皆の者も、楽にしてくれたまえ。気楽に、気楽に」


 鷹揚な領主の態度に、みな好感をもって立ち上がると、近づいて深くお辞儀をし、後進に回る。身分社会において、上流階級の進路を妨げてはならないという不文律があるからだ。

 で、その上流階級でもハイランクの殿上人が、メドゥサ会頭に語りかける。


「実は、〝静寂荘〟をね。私も狙っていたのだよ」

「それは、おそれながら……【7番】の競り札をお持ちでしたか」他に考えられない。

「うん。妻は花が好きだから、あの荘館を別荘に買おうと思ったのでね」


「別荘でございますか。ご領地からこちらまでご苦労ではございませんでしたか」

「いや。案外早く着けたね。帝国へ二日かけて出て。船旅で四日。馬車で二日半だったか」


 まるっと一週間かかってますよ、お殿様。


「では、帝国の雪もそろそろ和らいでまいりましたか」

「うむ。そうだね。その分、移動しやすかったのかも知れない。とはいえだよ」


((来たっ、本題……っ))


「私も手ぶらでは帰りたくない。妻に土産の一つでも手渡してやりたくてね」

「では、ミスリルの装飾品などはいかがでしょうか」

「うん。もう買った」


 手ぶらじゃないじゃん。見つめる目が微笑んだままだ。怖い。


「それでは……そう、午後の競売では食器が──」

 俺は後ろからメドゥサ会頭の袖を引いた。

「な、なんだ?」


 そっとボスに耳打ちする。身分差があるので、貴族への直接応答は貴族の特別な許しがあるまで最上位者である会頭がしなければならない。


 ラノベでは展開の便宜上、身分差恋愛をする場合でも、この辺の身分作法である間接会話はまず無視されがちだ。いちいちこの手続きをとっていたら、王子と平民娘の甘酸っぱい恋愛イベントなど発生するはずがないからだ。でも身分社会の会話では、これが当たり前だった。


 この世界で、競売は社交場の一つ。公の場だ。礼儀作法がうるさくつきまとう空間なのだ。


「あの、陛下。手前どもが落札いたしました〝レシャチカ荘〟は、あるやんどころない事情があり、どなたにもお譲りすることかないません」


「ほう……」

 感嘆詞に、霜が降りた。メドゥサ会頭も慌てて弁明を続ける。


「しっ、しかしながら。しかしながらでございます。あの〝レシャチカ荘〟聞けば、かなり庭の環境を整えるのにも高度な専門知識を持った管理者によって管理されておりまして、えー、手前どもといたしましては、その管理者とともにあの家屋を買い受ける約定を取り付けております」


「ふむ。迂遠うえんだね。もっと直裁に言ってみようか」

 気さくなのに、圧がすごい。


「は、はっ。ですから、その……所有権を株式にして細分化し、その株を買って戴くことで、〝レシャチカ荘〟を共有という形にして戴きたく存じますが、いかがでございましょう」


「株式? なぜそんな物に変える必要がある? それなら全部、私が買い受けよう。その管理者もだ」


 いや、あんたさっき競り負けたでしょ。そう面と向かってツッコめないのが、この世界だ。

 庶民が一生懸命競り合って買った物を、後から全部よこせとお殿様が言ってきた。しかも悪意なくだ。「いいよね?」という軽いノリ。これだから貴族は、身分社会は怖い。

 ウジェーヌ公爵が、ちらっとメドゥサ会頭の肩ごしから俺を見た。そして目許だけでニコリと笑う。


 サヴォイア=アオスタ領からメトロノーラ公爵夫人を領外へ連れ出した件を、いまだ根に持たれているようだ。彼とは初対面だが、公爵家を脅迫したことになってる俺は、「感謝はするが、謀事はかりごととは不届き千万」と思われていたかもしれない。


 だから、俺と直接交渉することを避け、この二人羽織の情況を楽しんでいる。気がする。おっとりした容姿に反して、存外、頭の冴えるお殿様だ。

 俺は切るカードを吟味しなければならかった。ボスの袖を引く。


「詳細については別室か、お人払いをお願いいたします」

「場を変えねばならぬ根拠は?」

 俺は競売カタログの最終ページを見せた。メドゥサ会頭は俺の走り書きを呼んで、事情を察した。


「こちらです」

「一八〇万……なんの額かな」


 それが金額と分かったのなら、こっちのものだ。


「まことに恐れながら、詳細は別室か、お人払いをお願いいたします」

 ウジェーヌ公爵は、決断が早かった。


「誰か」

 給仕係を呼ぶと、すぐに部屋を用意させた。


「それと、その部屋に主催者も呼んでくれたまえ。〝静寂荘〟の詳細が知りたいとな」

 ですよねー。


  §  §  §


 別室は何もない部屋だった。調度品が運び出された後だろう。


「……しかし獣族の奴隷に一八〇万とは、よくもふっかけたものだね」


 ウジェーヌ公爵は腕を組み、右手でこめかみを叩いた。家政長立ち会いの下、事情を訊いて、さしもの公爵陛下も難色を示した。


「だが、家政長殿。オークショナーは〝静寂荘〟の付帯条項を何も言っていなかったぞ」


「はい、陛下。追加物件につきましては、あらかじめ支払われた保証金を符牒とした、落札希望者を限定した秘密競売とさせて戴きました」


 マクガイアは毅然と言った。家政長は、ヴィサリオ・ウラを背景に持つクリマス・ボッターにも通告し、〝レシャチカ荘〟落札を促した。


 相手がそれに乗ってきたからには、このオークション会場を決闘場にすることを決めたらしい。コソコソ売り抜きでもしたら、後であの欲望家族にどんな嫌がらせや揚げ足取りをやられるか分かったものではないからだ。


「追加物件は、保証金猶予ではないのかね」


「陛下。申し訳ございませんが、〝レシャチカ荘〟に関しては多分に紛争の種になっておるのです。当方といたしましても、〈ヤドカリニヤ商会〉が善意から受けてくれなければ、本日の競売には出品いたしませんでした」


「ならば、その紛争の種。こちらで引き受けてやろうと言っているのだが?」


「いいえ、陛下。それでは問題解決には至りません。こたびの物件は、故ホリア・シマの呪いとでも申しますか。あの建物に獣族奴隷の購入を付帯条件とした所有権登記をしている以上、双方を同一人が落札しなければ、穏便に外すこともできない情況でして」


「まったく……それを一八〇万とは法外な」


「まことに。ホリア・シマも、かの獣族奴隷を競り落とした時の散財が悔しかったのでございましょう。当方も、奴隷の競売基準価格は前の競売落札金額を基準として設定するという先例がございましたので、いかんともしがたく」


 以前、家政長になるために先例なんがぶっ飛ばしてやると息巻いていたマクガイアが先例を盾にしているのだから、立場というのは人を変えるらしい。執政とは法に順じるものだ。仕方のないことだけど。ウケる。


「相わかった。〝静寂荘〟のこと、心を離そう」

「陛下の寛大なる判断とご理解をいただきまして、まことに感謝いたします」

 マクガイア家政長を始め、みんなで頭を下げた。


「当家も、七〇年。獣族の奴隷を持っていた」

「えっ?」


「祖父の代から居た苗族でな。虐げなければ長寿だし、家を護る力があると信じられていた。実際、私の結婚でサヴァイア家が一時傾きかけたが、あの者がいたから乗り切れたのかも知れん」


「その獣族は?」


「ずいぶん前に死んだよ。家族全員で看取った。眠るように息を引き取った。骨は故郷に戻してくれと頼まれたから、ヴァンドルフ家に連絡を取ったら、わざわざ引き取りに来てくれてね。それ以来、ヴァンドルフ家とはよしみを結んでいるよ。ヤドカリニヤ。彼は獣族なのか?」


「いいえ、陛下。元人間でございます。本人もいかように狼の頭になったか仕儀を知らぬようで」

「そうなのか。魔女の呪いという感じはしないがな。むしろ古獣神や古代精霊の類いに憑かれておるのではないか?」


「陛下。それは……っ」


「はっはっはっ。いや、失言だった。今のは忘れてくれ。ふとそんな気がしただけだから。妻の手紙に母親エディナと彼の話をよくするのだそうだ。どこから来たのかをな。その時にそういう話も出た、という内容を思い出しただけだ」


 この人、どんだけ奥さん大好きなんだよ。


「陛下。恐れながら。あの、いま少し詳しいことをお伺いできますでしょうか」


「うん? うーん、ここからさらに東。黒き森にサヴォルフという狼の姿をした悪神が住んでいるそうだ。だが悪神になったのは、十字征軍がアスワン帝国に侵攻した後。サンクロウ正教会がその地を席巻した頃だそうでね。

 それまでは狩猟の神として畏怖されていたに留まる。知恵が回り、悪戯好きで、しかし迷子や負傷者には親切だという。また敵と見なせば容赦はなく、オオカミの群れを操るのが巧みだったそうだ」


「誰かにそっくりだな」

 マクガイアが言ったので、笑いが起きた。


「陛下。興味深いお話しを戴きましてありがたく存じます」

「いや、なに。これも何かの縁だと思っているよ。……株式の件、考えておいてもよい」

 ちっとも諦めてなかった。お殿様。

「はっ、ありがたく存じますっ」


 部屋からウジェーヌ公爵が退室すると、入口の前を護衛兵が泡を食った様子で駆け抜けていった。もの凄い早口で主人に説教しながら遠ざかっていく。


 俺たち三人はどっとため息をついた。


「マクガイア。サヴァイア=アオスタ公爵が来られているのなら、そう言ってくれ。あせって、ここで出産しそうになったぞ」おい、やめろ。


「勘弁してくれよ、メドゥサ会頭。むしろ、お前さんたちが御先様おさきさまと知り合いだったことに焦ったぞ。急に呼び出されて、お前さんが御先様を殴ったんじゃねえかってヒヤヒヤしたぜ」


「あのどこに殴る要素がある。完全に王様のオーラをまとっていたではないか」

「殴る基準がいまいちよくわからねぇが、まあ、確かにな」


 そこへ、廊下から女性事務員が顔を出した。


「午後の部を始めますので、落札希望者の方はご入場くださーい」

「やれやれ。もう次か」

「さあ、しっかり頼むぜ。お二人さん」

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