第24話 魔狼の王(23)


「ただいま~」

 ウルダの声で、俺は目を覚ました。

 さすがにたった半日で報告書と企画書を同時に上げるのは頭脳を消費した。

 馬車に入ってくるなり、ウルダからほうりよこされた土産のリンゴをキャッチする。


「おかえりー。どうだった?」


「〝りゅうかすいそ〟やなかかって。ドワーフのオッサン言うとったよ」

 脈略のないウルダの報告に、俺は咀嚼しかけたリンゴをむせ返らせ、胸を叩いた。


「温泉っ。あー、地熱のことばかり考えてて、その発想はなかった」

「どういうこと?」

 馬車係が訊ねる。俺は改めてリンゴを咀嚼した。

「ニオイだよ。〝魔狼の王〟の旗艦は、ニオイがない暖かい場所を探してたんだ」


 硫化水素。

 いわゆる「卵が腐った臭い」と形容される腐卵臭をもつ気体で、目、皮膚、粘膜を刺激する。酸素を取り込んで活動する生物にとっては、有毒物質だ。


 天然には、火山ガスや温泉中に含まれる。これらがたまに「硫黄の臭い」と形容される場合があるが、硫黄の単体(元素S)は無臭なので、蒸気中で水素と結合した硫化水素(H2S)の臭いをさすことが一般的だ。 

 空気より重く、水によく溶ける性質があるため、日本でもたまに、くぼ地に溜まった硫化水素をうっかり吸ってしまった登山者や温泉客が亡くなるという事故が起きた。


「〝魔狼の王〟旗艦は、卵を産むための巣の適温環境を整えるために、硫化水素を基準に場所を選んでいたんだ。周囲の温度が熱すぎると産んだ卵が温泉卵になっちゃうからね。それで?」


 俺は伝令に仕事を促した。ウルダは少し小首を傾げて、


「この先に、洞窟やなかけど岩の大きな裂け目があって、隠れるとしたらそこやろうって」

「地図、見せてもらった?」


 ウルダはふんふんとうなずいて、俺が差し出した地図の丘陵地帯を指差した。

 オラデアの町から東に約三キロの地点。いわゆる峡谷。地熱発電所の山一つ先。かなり近い。


「ウルダは納得いかないの?」

「だって、外は今も雪ふっとーとよ? もっと他によか場所さがせるっとやろに」


「俺が食事を邪魔したからね。お腹減ってもう動けなくなりつつあるんだよ」

「あ。でも狼しゃんのせいやなかよ。あいつらが人を食うのが悪いっちゃん」


 ウルダの中にも俺を守ろうとしてくれている気持ちが育っている。こういう時、俺はどうすればこの子の健気な優しさに応えてあげられるのか、たまに分からなくなる。


「うん。これは生きるための戦いだ。俺たちもあいつらに食われてやるわけにはいかない。それで、マクガイアさんはなんて言ってた?」


「えっ。えっとー……バシャっち!」

「馬車係ですらなくなってきてる、おれの名前とは」


 新人機動剣士が苦笑しつつ進み出て、地図を指差した。


「この渓谷は、確かに地熱があるみたいでほのかに温かく、風もうまく遮れている場所だったよ。それで何より入口が狭く、奥に行くほど広がっていた。おそらく地下空洞が崩落してできた場所なのかもしれない」

「なるほど」


 俺は下あごをもふった。


「あとウルダは天井がないと言ったけど、奥の行った所が少しだけせり出した岩崖が屋根のかわりになっている。一時凌ぎかもって思える場所だった」


「護衛艦はどうかな?」


「うん。四隻ともこの中にいてせわしなく周囲を巡回していた。おれ達が町からの帰りにもう一回見に行った時、駆逐艦と思われる小型の魔狼が産まれてた。数は8」


 実に優等生の情報伝達だ。俺は満足げにうなずいた。


「も、もう一回見に行こう言うたのは、うちやけんねっ!」


 ウルダがムキになって主張するので、えらいえらいと子供扱いして背中を撫でておく。

 と──、その手に、ねちゃりと白濁した粘液がついた。


「狼しゃん……? どげんしたと?」


 やってくれるじゃねえか……っ!


 俺は戦斧を掴むなり馬車を飛び出した。雲を見上げる。目を凝らす。

 灰色の彼方。その先で、黒い点が降下してくる。四つ。


「敵襲ーっ!」


 叫ぶや、戦斧を空へ投げた。旋回して飛んでいき、上空から迫りくる黒点の一つを両断した。

 さらに馬車の車底を蹴りあげた。うちの巨馬が驚いて駆け出した。


「狼っ、おおかみーっ!?」

「戦闘用意、急げっ! 追っ手の横っ腹を突くんだあっ!」


「りょーかーい……っ!」

 スコールの声が遠ざかる。仲間の迎撃態勢が整うのはそんなに時間がかかることじゃない。ほんの少しの時間稼ぎだ。大丈夫。


「大丈夫。大丈夫……じゃないッ!?」

 うちの分隊馬車とすれ違うように、騎馬の一団が接近してきた。


「ここで会ったが百年目じゃ。皆の者。われに続けーっ!」

「シャセーっ、待たんかーいっ!」

「お止まりくださーいっ、若様ーっ!」


 俺の前を、甲冑少年が駆け抜けていった。

 その後に従う騎馬は、わずかに──二騎。


(げっ。今の従者。女性の方、あのけん玉女だった)


 名前忘れたけど。


「グ~リ~シモ~ンっ。連れてこられるんなら、ちゃんと連れてこいよっ!」


 たぶんあれが、大公後継儀式の当事者──公国第二公子なのだろうか。だとすれば、ここまでフットワークの軽い身分の人物だとは予想してなかった。なにより幼すぎる。

 しかも、甲冑装備こそしているが単騎駆け。〝魔狼の王〟相手の継承儀式ってなんなんだよ。兵力も投入しない神殺しなのだとしたら、生贄儀式なのか。


「とにかく。あの子を止めないとっ!」

 第二公子に恩を売ることは必要条件ではないが、売れると後で無理を押し通すのにも弾みがつく。俺は戦斧の方へ駆けだした。


  §  §  §


 三点の黒点が降下着陸タッチダウンするや、地上に八脚のパイル爪をたてつつスピン。そのまま地表を蹴りたて、駆逐艦が強襲前進を始める。

 俺が追いかけている少年の騎影は、驚いたことに怖じ気づくことなく怪物に突っ込んでいく。


「やっぱりこのままいかせたらマズいよなっ。たぶん」

 俺は胸の前に戦斧を構えた。


「 たけ疾風かぜよ わがこえに応えよ

  汝、旋律風刃 硬鎌こうけん白月はくげつしゅう

  立ち塞がるすべての物を引き裂け           」


 ──〝月鎌旋風サイズブラスト


 胸の前で空気を引き延ばすようにマナを広げる。

 せつな、三日月型の雲をけんじ、弓弦となって風が放たれた。

 風は、少年に集まろうとしたクモ二匹の間を飛び、左右の脚を同時に斬り飛ばした。脚を失った魔狼二匹は脚を再生させつつ、失った脚の方へ重心を崩して視界を黒く塗りつぶしていく。


 甲冑少年はしかし、あえてその倒壁へ突っ込んだ。


「すぇいやぁあああっ!」

 右手には槍、いやひいらぎの形をした矛で傾倒してくる背中を受け止めるように突き入れた。


 ボゥン!!


 魔狼の背中が爆ぜる。柊矛はそのまま駆け抜けるに任せ、魔狼の背中を一気に斬り裂いた。


(あの武器──、【火】属性付呪か!?)


 馬と比べて一〇倍はある怪物の躯を両断してしまう少年の膂力りょりょくは、常軌を逸している。

 その少年騎へ、反対側の魔狼の巨躯も不可抗力的に迫ってくる。


「うおぉりゃあああっ!」

 けん玉女の鉄球が、傾倒してくる魔狼の背中にドズゥンと鈍い音をたてて厄災の暗黒に沈んだ。傾倒は止まらない。

「打撃耐性っ。──まったく、世話の焼けるっ!」


 パンッ。


 柏手一つで、地面から石柱が天に向かって突起した。

 魔狼の傾く腹を石柱でかち上げて、反対方向へ打ち返した。そこに甲冑少年が馬を回頭させて、火属性の魔法矛を刺し入れて燃やしにかかる。


 けん玉女が馬上から俺に振り返った。


「おうっ。助かったで! って自分、狼やん!?」

「話は後ですっ。若様の援護をっ」

「わかとっるわっ!」


「三匹目は、8時。あなたの後ろですよっ」

 言い終わるのを待たず、けん玉女が馬から立ち上がった。馬は駆け去り、空中で大の字に浮く。と、すぐに旋回。


「ぐりぃやぁああああっ!」


 身体をねじって振り抜かれた巨大な鉄槌は、その強烈な一撃をもって、八つ眼の狼頭を弾ね飛ばした。三匹目の胴体は地表を滑って、動かなくなる。


 俺は思わず自分の頭も両手で押さえていた。


「若様、こっちもや!」

「承知っ」

 少女のようなハイトーンな声で、勇ましく馬を蹴立てて戦闘不能に陥った魔狼に矛を突き立てる。


「おおかみーっ!」


 聞き覚えのある声で顔を向けると、馬車が体勢を立て直して戻ってきた。

 俺は真っ二つにした四匹目の魔狼がいるはずの方角を指差す。


「この先に再生しつつある魔狼がいるはずだ。ヒル一匹残らず燃やし尽くせ。絶対に巣へ帰すな!」

「了解っ!」

 馬車が走り去るのを見送ると、俺は【火】マナで息づく魔狼の残骸に追い焚きをかける。


「おい、狼。それはもうええんちゃうか?」

「いいえ。燃やし方が甘いですよ。これでは魔狼の中まで火が通ってません。こちらも作戦上、ヒルの一匹も巣に帰すわけにはいかないのです」


「ふぅん。せや、グリシモンいうたか。お前の手下から話は聞いたで。〝魔狼の王〟を殲滅しとるんやてな」


「こちらはティミショアラ都督補ヴィクトール・バトゥの指揮下に入り、作戦行動中です。決戦は今から約六〇時間後。オラデア領内で叩きます」


「ふぅん。……なあ。狼。ものは相談なんやがなあ」


 俺はそこから先は手を制して止めた。


「こまかい情報交換は後で。ひと仕事終わった所で、みんなで食事にします。その時にこちらからも情報を出しましょう」


「お、そうか。わかった。助かるわ」

「ところで。魔狼の討伐は、あなた方だけですか?」


 けん玉女は足下を這って逃げようとしている黒いヒルを軍靴で踏みつけると、ぶしゃりと踏み潰した。怯えるどころか驚きもしない。

 この人も……〝死ねない人ヴァンパイア〟。なのか?


「若様の周りは、どうも信用できんでな。せやから若様はグリシモンの話聞いて、また奮起して独りで行こうとしたんや。けど、うちがあかん言うて……まあ、しゃあなしでついてきたんや」


 けん玉女は案外、人情家らしい。


「じゃあ、あの人は?」

 魔狼から最も離れた所で、馬上でぐったりしている老人を指差す。

「若様の傅役もりやくでヴォイクはんや。侍従庁内で最も人畜無害とされとるお人でな」


 本当か。やんごとなき貴人の傍にいる人間は、原則建物の外に出ることは許されないのはどの世界でも同じのはずだ。いくら人畜無害でも、都から離れたこんな場所までついてくるわけがない。彼は侍従庁の監視役。さもなければ、大公が最も信頼をおく曲者ではないのか。


「狼頭。火はこれで良いか?」


 若様に呼ばれて、俺は【火】マナで追い焚きする。

 すると炎の底にある炭化した表皮を破って、次々と黒ヒルが頭を出してギチギチとのたうち回った。おぞましいほどの生命力だ。

「やはり、武器に付呪された火力だけでは足りないようですね」

「ぐっ。……やはりか。侍従庁め」

「恐れながら、若様。お名前を頂戴いたしたく存じます」


「よかろう。こなたはシャセフィエル・アゲラン・ズメイ。公国第二公子だ。エミー・ネーターにはシャセと呼ばせている」


 そうそう。エミー・ネーターだった。帝国情報局長のはずだけど。国に帰還せず何してんだ。


「それでは、シャセ殿下。この魔狼は、普通の薪でも焼き殺せるのですよ」

「えっ!?」

「俺はご覧の通り、【火】のマナを操って火を掛けていますが、それは燃やす燃料代をケチっているからです」

「けちっている? どういう意味の言葉だ?」


 ザ・貴人。下々の言葉はご存じないらしい。嫌味なく、この世界にもそんな人がいるんだ。


「えっと……倹約に努めているのです」


「ああ、うん。わかる。なるほどな……。では、そなたはこの武器も、侍従庁が倹約しておると申すか」

「それは当方にも計り知れぬことに存じます。ただ、先ほどの殿下のお働きを見る限り、侍従庁が卑しき恣意をもって殿下にその武器を支給したのではありますまい」


「それは……そうかもしれぬが」

「なれば、武器の良し悪しで苦言を呈されるのは、おやめください」

「む。そなたは、侍従庁の肩を持つのか?」


 幼目おさなめながら眼力が強い。俺は目線を下げて黒鼻を振った。


「そうではありませぬ。武器の良し悪しで苦言を呈する時は、その戦いにおいて苦境を意味するのです」

「苦境……負けそうなのか」


「はい。もはや武器の良し悪しでは覆せぬほどの戦況劣勢の時、初めて末端の兵士が、武器の強弱に苦言をもらすのです。良い武器さえ良ければ、自分たちはこの苦境を覆せるほど戦えるのに、と」

「そんなの……無理であろう」


「かもしれません。でも武器の強弱とは、そんな些末なことなのです。武器は強いに越したことはなく、弱い武器では頼りないものです。ですが戦場では武器の優劣だけで勝敗が決まるものでもありません」


「うむ。エミー・ネーターも申していた。戦場には魔物がおるのだと」

 俺はうなずいた。

「左様にございます。当方は、戦場は生き物だと学びました。戦場は常に生き物のように動いているのです。勝てる戦いも、ふとした失敗で簡単に劣勢に立たされる。御しがたい獣の群れを扱う思いがします」


「うむ。うむ。……狼頭。そなた、こなたの傍に仕えぬか。今、一人でも味方が欲しいのだ」


 素直な若君だ。ただ、政治的に軽んじられているのは、幼さだけではないのだろう。公国の王たる大公が〝死ねない人ヴァンパイア〟だから、大公の継嗣には期待が薄い。どんなに優秀でも盛り立てる人材が寄りつかないのだ。可哀想だけど。


「申し訳ございません。私はティミショアラ都督補ヴィクトール・バトゥの指揮下にございますので」


「っ。そうか。ティミショアラか……そうか。残念だ」

 心からしょげてしまったので、俺はとっさに言葉を継いでいた。


「ですが、友人としてであれば、喜んでお受けいたしたく存じます」

「ゆ、友人……真かっ、よいのか!?」


 甲冑少年は頬を上気させて、俺を見つめてくる。

「えっと……」

 今の単語。友人でよかったよな。不安になってきたぞ。

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